マヤ文明(マヤぶんめい)とは、メキシコ南東部、グアテマラ、ベリーズなどいわゆるマヤ地域を中心として栄えた文明である。メソアメリカ文明に数えられる。
目次  
1    歴史
1.1    先古典期前期(紀元前3000年 - 紀元前900年)
1.2    先古典期中期(紀元前900年 - 紀元前400年)
1.3    先古典期後期(紀元前400年 - A.D.250年)
1.4    先古典期マヤ文明の衰退
1.5    古典期前期(A.D.250年 - 600年)
1.6    古典期後期(A.D.600年 - 900年)
1.7    古典期マヤ文明の衰退
1.8    後古典期(A.D.900年 - 1524年)
1.9    スペインによる植民地化
2    マヤ文明の標式遺跡
3    マヤ系諸王国
4    マヤ文明の特徴
5    マヤのカレンダー
5.1    マヤ暦の終わり
6    脚注
6.1    注釈
6.2    出典
7    参考文献
7.1    書籍
7.2    論文
8    関連書籍
9    関連項目
9.1    マヤ暦、マヤ文明を題材とした作品
10    外部リンク


歴史
先古典期前期(紀元前3000年 - 紀元前900年)
詳細は「:en:Early human migrations」、「オルメカ」、および「形成期」を参照
「クエリョ(Cuello)(スペイン語版、英語版)」、「ラマナイ」、「コパン」、および「カル・ペチ」も参照
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先古典期中期(紀元前900年 - 紀元前400年)[編集]
詳細は「先古典期マヤ文明(英語版)」を参照
いわゆる「中部地域」で、現ベリーズのラマナイ(Lamanai)、グアテマラのペテン低地に、ティカル(Tikal)、ワシャクトゥン(スペイン語版、英語版)(Uaxactun)、エル・ミラドール(El Mirador)、ナクベ(スペイン語版、英語版)(Nakbe)、カラクムル(Calakmul)などが建設された。
先古典期後期(紀元前400年 - A.D.250年)
大規模な都市遺跡が築かれ始めたのは、先古典期後期からで、古典期を凌ぐ大建造物が、紀元前400年以降に建てられたことが分かってきた。人口の集中が起こり繁栄した。
先古典期マヤ文明の衰退
詳細は「先古典期マヤ文明の衰退(英語版)」を参照
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古典期前期(A.D.250年 - 600年)
開花期の古典期(A.D.250年-600年)にはティカル、カラクムルなどの大都市国家の君主が「優越王」として群小都市国家を従えて覇権を争った。「優越王」であるティカルとカラクムルの王は、群小都市国家の王の即位を後見したり、後継争いに介入することで勢力を維持した。各都市では、巨大な階段式基壇を伴うピラミッド神殿が築かれ、王朝の歴史を表す石碑(stelae)が盛んに刻まれた。
古典期後期(A.D.600年 - 900年)
古典期後期(A.D.600年-900年)には大都市のテオティワカンやティカルにかわって多くの小都市国家が発展した。8世紀はマヤ文化の絶頂期であるといえる。この期の壮麗な建築物、石彫、石細工、土器などの作品にマヤ文化の豊かな芸術性が窺える。また、天体観測に基づく暦の計算や文字記録も発達し、鹿皮や樹皮を材料とした絵文書がつくられた。碑文に刻まれた王たちの事績や碑文の年号表記などから歴史の保存には高い関心を持っていたことが推測できる。通商ではメキシコ中央部の各地や沿岸地方とも交渉をもち、いくつかの商業都市も生まれた。なお、古典期マヤ文明は金属を持たず、基本的には新石器時代であったといえる。
古典期マヤ文明の衰退
詳細は「古典期マヤ文明の衰退(英語版)」を参照
9世紀頃から中部地域のマヤの諸都市国家は次々と連鎖的に衰退していった。原因は、遺跡の石碑の図像や土器から、メキシコからの侵入者があった(外敵侵入説)、北部地域に交易の利権が移って経済的に干上がった(通商網崩壊説)、農民反乱説、内紛説、疫病説、気候変動説、農業生産性低下説など有力な説だけでも多数ある。しかし、原因は1つでなくいくつもの要因が複合したと考えられている[1]。また、古典期後期の終わり頃の人骨に栄養失調の傾向があったことが判明している。焼畑(ミルパ)農法や、漆喰を造るための森林伐採により、地力が減少して食糧不足や疫病の流行が起こり、さらにそれによる支配階層の権威の失墜と少ない資源を巡って激化した戦争が衰退の主な原因と考えられている。
一方、古典期後期からユカタン半島北部などを含む「北部地域」でウシュマル(Uxmal)、チチェン=イッツァ(Chichien Itza)などにプウク式(Puuc Style)の壁面装飾が美しい建物が多く築かれた。
後古典期(A.D.900年 - 1524年)
「プトゥン人」も参照
後古典期(A.D.900-1524)には、マヤパン(Mayapan)やコスメル島(Cozmel Island)が、カカオ豆やユカタン半島の塩などの交易で繁栄した。統一国家を樹立することなく、各地の都市国家が合従連衡と興亡を繰り返した。
スペインによる植民地化
詳細は「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」および「ユカタン半島の征服(スペイン語版、英語版)」を参照
「グアテマラの征服(スペイン語版、英語版)」および「ペテン盆地の征服(スペイン語版、英語版)」も参照
16世紀、スペイン人の侵入を迎えた。1697年最も遅くまで自立を保っていたタヤサル(スペイン語版、英語版)が陥落、マヤ圏全域がスペイン領に併合された。
マヤ文明の標式遺跡[編集]
標式遺跡は、グアテマラ、ペテン低地に所在するティカルの北方のワシャクトゥン(スペイン語版、英語版)遺跡である。下記のような先古典期中期から古典期後期までの時期区分名が用いられる。
先古典期中期後半(マモム期)、先古典期後期(チカネル期)、古典期前期(ツァコル期)、古典期後期(テペウ期)
他の遺跡にも独自の時期区分がありつつも比較検討のためにワシャクトゥンの時期区分名が使用される。ただし、ユカタン半島北部やグアテマラ高地の遺跡には適用されない。
マヤ系諸王国

ユカタン半島のマヤ系諸王国

ペテン盆地及びグアテマラ低地のマヤ系諸王国
詳細は「マヤ遺跡一覧」を参照
Ah Canul (アフ・カヌル)
Ah Kin Chel (アフ・キン・チェル)
Can Pech (カン・ペチュ)
Canek (チャネク)
Ceh Pech (ケフ・ペチュ)
Chakan (チャカン)
Chakán Putum (チャカン・プトゥム)
Cheles (チェレス)
Chetumal (チェトゥマル)
Chikinchel (チキンチェル)
Cochuah (コチュアフ)
Cocomes (ココメス)
Cupul (クプル)
Ekab (エカブ)
Hocabá-Homún (ホカバ・ホムン)
カクチケル王国(Reino Kakchiquel)
Kejache (ケハチェ)
キチェ王国(スペイン語版、英語版)
Ko'woj (コウォフ)
Putún (プトゥン)
Sotuta (ソトゥタ)
Tases (タセス)
Tutul-Xiu (トゥトゥル・シウ)
Uaymil (ワイミル)
Yalain (ヤライン)
マヤ文明の特徴
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チチェン=イッツア遺跡から出土したチャック・モール石像
マヤ文明の特徴として、以下のような点が挙げられる。
青銅器や鉄器などの金属器を持たず、高度な石器を多用した。
戦争での主力兵器は棍棒や石槍、弓矢だった。
戦争で勝っても敵は皆殺しにせず、解放して従わせることが多かった[要出典]。
古い建築物の上にまた新しい建築物を建てるという特殊な建築手法を行っていた。
車輪の原理は、土偶などの遺物に出てくるにもかかわらず、実用化しようと考えていなかった。一説には発明によって変化する精神文化への配慮があったともされる。
牛や馬を飼育しなかった。そのため物資の運搬は常に人力だった。
とうもろこしの栽培のほかにラモンの木の実などが主食だった。
焼畑(ミルパ)農法や段々畑・湿地で農業を行った。
数学を発達させた(二十進法を用い、零の概念を発明した)。
文字種が4万種に及ぶマヤ文字を使用していた。数字は、点(・)を1、横棒(-)を5として表現したり、独特な象形文字で表現された(en:Maya script#Numerical system)。
持ち送り式アーチ工法など高度な建築技術を持っていた。
極めて正確な暦を持っていた(火星や金星の軌道も計算していた)。
多くの文明は河川の水の恵みにより発展してきたが、マヤ文明はセノーテとよばれる天然の泉により発展した。
古代都市の位置と星座の星の位置に関連性がある事がカナダの少年(当時15歳)によって発見された[2][3]。
農業技術については、段々畑で作物を作り、湿地では、一定の間隔に幅の広い溝を掘り、掘り上げた土を溝の縁に上げその盛り土の部分にカカオなど農作物を植えた。定期的な溝さらえを行うことにより、肥えた水底の土を上げることによって、自然に肥料分の供給をして、栽培される農作物の収量を伸ばすことができた。
マヤのカレンダー

マヤの天文台 「El Caracol(カタツムリ)」
マヤの人々は天体観測に優れ、非常に精密な暦を持っていたとみられている。1つは、一周期を260日(13の係数と20の日の組み合わせ)とするツォルキンと呼ばれるカレンダーで、宗教的、儀礼的な役割を果たしていた。もう1つは、1年(1トゥン)を360日(20日の18ヶ月)とし、その年の最後に5日[注釈 1]のワイエブ月(ウェヤブ)を追加することで365日とする、ハアブと呼ばれる太陽暦のカレンダーである。
ワイエブ月を除いたハアブ暦(360日)とツォルキン暦(260日)の組み合わせが約13年(13トゥン)ごとに一巡する。これをベースとして4サイクルの約52年を周期とする。この他、より大きな周期のカレンダーも複数存在していた。このようなカレンダーの周期のことをカレンダー・ラウンド(rueda calendárica)という。
また、紀元前3114年に置かれた基準日からの経過日数で表された、長期暦(ロング=カウント;Long Count)と呼ばれるカレンダーも使われていた。石碑、記念碑、王墓の壁画などに描かれていて、年代決定の良い史料となっている。この暦は次のように構成されている。
日    長期暦の周期    長期暦の単位    年    バクトゥン
1日        1 (キン)Kin        
20日    20(キン)Kin    1 (ウィナル)Uinal        
360日    18 (ウィナル)Uinal    1(トゥン)Tun    ~1    
7200日    20(トゥン)Tun    1(カトゥン)Ka'tun    ~19.7    
144000日    20(カトゥン)Ka'tun    1(バクトゥン)Bak'tun    ~394.3    1
2880000    20(バクトゥン)Bak'tun    1 Pictun    ~7,885    20
57600000    20 Pictun    1 Kalabtun    ~157,808    400
1156000000    20 Kalabtun    1 K'inchiltun    ~3,156,164    8,000
23040000000    20 K'inchiltun    1 Alautun    ~63,123,288    160,000
ハアブ暦の閏については、そのずれを調整しなかったが、新月が全く同じ月日に現れるメトン周期(6939.6日)を把握していたことが、ドレスデン・コデックスやコパンの石碑に19.5.0.すなわち360×19トゥン+20×5ウィナル=6940キン(日)の間隔を記載することによって実際には季節のずれを認識していた可能性やパレンケの太陽の神殿、十字架の神殿、葉の十字架の神殿の彫刻に長期暦の紀元の記載とハアブ暦と実際の1年の値である365.2422日との差が最大になる1.18.5.0.0.(長期暦の紀元から約755年経過した時点)の記載があり、これもマヤ人が1年を365日とした場合の季節のずれを認識していた証拠とも考えられる[4]。
かつては、現在通用しているグレゴリオ暦の365.2425日(400年間に97日の閏日)よりも真値に近い、365.2420日がその答えとされていた。これは、化学工学技術者のジョン・E・ティープルが1930年代に唱えた決定値理論と呼ばれる説で、アメリカのマヤ学の権威とされたエリック・トンプソン(英語版)が認めたため、現在でも流布している説である[5][6]がその誤りが判明している。カラクムル遺跡にある15回目のカトゥン(9.15.0.0.0.,731年)を祝う石碑が7本[注釈 2]あるが、その1年前に修正がなされており、太陽年を意識して201日分を加えている。これを太陽年を最初から想定していたとすると1年を365.2421日(3845年間に931日の閏日)としていたことになる。また、キリグアの785年を刻んだ石彫[注釈 3]で、212日を追加する修正が見られる。グレゴリオ暦では、215日であり、太陽年で正確に計算すると214日の誤差となる[9]。これを太陽年を想定した1年の日数とすると365.2417日(3898年間に942日の閏日)になる。単純に考えれば肉眼のみの観測で非常に精度が高い値で修正を行っていること自体は驚くべきであるが、実際にはグレゴリオ暦のように暦の1年を意識して計算しているものではないため、精度の高い暦を使っていたということはできない[10]。
マヤ暦の終わり
ニューエイジ関連の書物ではマヤの長期暦は2012年の冬至付近(12月21日から23日まで)で終わるとされ、その日を終末論と絡めた形でホピ族の預言も成就する(2012年人類滅亡説)とする。しかし、フォトンベルトの存在は皆無に等しく、フォトンベルト関係の予言は非常に信憑性に欠けた予言であり、さらにマヤの暦は現サイクルが終了しても新しいサイクルに入るだけで永遠に終わらないという見方もあり、多くのマヤ文明の研究家たちも終末説を否定している。
また、2010年から2011年にかけてグアテマラ北部の9世紀頃の遺跡を調査したアメリカの発掘チームは、月や惑星の周期を計算したマヤ最古のカレンダーを発見し、その結果、2012年の終末を窺うものは見つからなかったと2012年5月11日付の米科学誌サイエンスに発表した[11]。
この他、カール・コールマンの計算によると「マヤ暦の最終日は2011年10月28日」との説もあった[12]。
脚注
注釈

^ 4年に一度、6日とする場合もある。[要出典]
^ 石碑51号や54号を含む同じカトゥンを祝う儀礼を刻んだ7本がある[7]。
^ この時期のキリグア王「空シュル」は石碑(stela)を建てず、「獣形神」と呼ばれる石彫を刻ませていたことからそのいずれかと思われる[8]。
出典
^ 増田1999 [要ページ番号]
^ 星座を見てひらめいた。カナダの15歳少年がメキシコのジャングルで失われたマヤ文明の都市を発見かと思われたが・・・
^ カナダの少年、「マヤ文明の古代都市」を星座の星の配置から大発見【更新
^ 青木1984, pp.137-138
^ 八杉1982, pp.31-32
^ コウ2003, pp.187-192, 254
^ マーティン他2002, pp.164-165
^ マーティン他2002, pp.322-331
^ トンプソン2008, p.231
^ 小池1996
^ “「2012年世界滅亡」なかった! マヤ最古のカレンダー発見”. 産経新聞. (2012年5月11日) 2012年5月11日閲覧。 [リンク切れ]
^ 岡田光興 『2012年と日月神示 – 人類はやがてゝ生命体へ多次元神化する!』 徳間書店、2009年12月。ISBN 978-4-19-862864-2。 [要ページ番号]
参考文献
書籍

書籍の宣伝はおやめ下さい
青木晴夫 『マヤ文明の謎』 講談社〈講談社現代新書 757〉、1984年12月。ISBN 978-4-06-145757-7。
コウ, マイケル・D. 『マヤ文字解読』 増田義郎監修、武井摩利・徳江佐和子訳、創元社、2003年12月。ISBN 978-4-422-20226-6。
トンプソン, J. エリック・S. 『マヤ文明の興亡』 青山和夫訳、新評論、2008年12月。ISBN 978-4-7948-0784-7。
増田義郎 「第1章 先コロンブス期の文化」『ラテン・アメリカ史 1』 増田義郎・山田睦男編、山川出版社〈新版世界各国史 25〉、1999年8月、34-53頁。ISBN 978-4-634-41550-8。
マーティン, サイモン、グルーベ, ニコライ 『古代マヤ王歴代誌』 中村誠一監修、長谷川悦夫・徳江佐和子他訳、創元社、2002年3月。ISBN 978-4-422-21517-4。
八杉佳穂 『マヤ文字を解く』 中央公論社〈中公新書 644〉、1982年3月。ISBN 978-4-12-100644-8。
論文
小池佑二「マヤの暦について」、『東海大学文明研究所紀要』16号、東海大学、1996年、 27-44頁、 ISSN 0285-0818、2004年4月5日閲覧。
関連書籍
石田英一郎 『マヤ文明 世界史に残る謎』中央公論社〈中公新書 127〉、1966年。ISBN 978-4-12-100127-6
のち全集収録。『石田英一郎全集 第7巻 マヤ文明』 筑摩書房、1971年。NCID BN00670086
A・レシーノス原訳 / 林屋永吉訳 『マヤ神話 ポポル・ヴフ』 中央公論新社〈中公文庫BIBLIO〉、2001年8月改版。ISBN 978-4-12-203884-4
山瀬暢士 『マヤ文明 マヤ人たちの残した歴史』 太陽書房、2002年6月。ISBN 978-4-901351-32-4
関連項目
マヤ遺跡一覧
コパン
パレンケ
キリグア
マヤ人
マヤ語族 - ユカテコ語(マヤ語)
メソアメリカ文明
メソアメリカの編年
インカ帝国
ピラミッド#中南米
セノーテ
2012年人類滅亡説
マヤ暦、マヤ文明を題材とした作品
『アポカリプト』 - 2006年のアメリカ映画。全編通じてマヤ語が使われている。
『マヤ ― 天の心、地の心 ―』 - 2011年公開のドキュメンタリー映画(ノンフィクション作品)。
外部リンク
    ウィキメディア・コモンズには、マヤ文明に関連するカテゴリがあります。
マヤの土器、遺物A.D.1-500 (英語)
マヤの土器、遺物A.D.500-1000 (英語)
植民地時代におけるマヤ文書の形成とその「意味」の変化について

 『カルキニ文書』を例として - 大越翼

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(注)考古学における古代文明を一覧にした。
カテゴリ: メソアメリカ文明マヤ