チンギス・カンⅢ【中】
「チンギス・カアン」系の資料
一方で、後代のモンゴル語文献では「チンギス・カアン」 (Činggis Qa'an/Činggis Qaγan) という言い方もされている。
17世紀初頭に成立した『アルタン・ハーン伝』などでは、「チンギス・カアン」 (CYNKKYZ Q'Q'N /Činggis Qaγan) の綴りで表記され、サガン・セチェン『蒙古源流』や『アルタン・トプチ』などの代表的な近代以降のモンゴル語年代記でも同様に表記されている。現存最古のモンゴル語による歴史書文献で明代に入って最終的な編纂をみる洪武刊十二巻本『元朝秘史』でも「成吉思可罕」 (Činggis Qahan) となっており、現存の『元朝秘史』は明代のものだが、14世紀末の「チンギス・カアン」系の資料である。
「チンギス・カン」と「チンギス・カアン」の対立
「カン」と「カアン」の違いについてだが、ハーンの項目でも述べられているように、「カアン」 (Qa'an/Qaγan) は、一般的な「王」や「君主」を意味する「カン」 (Qan) をしのぐ「皇帝」の意味として、第2代皇帝オゴデイによって古代の「カガン」 (Qaγan) の称号を復活させて用いられたと考えられており、第4代モンケ、第5代クビライによってモンゴル皇帝の称号として定着した。
13 - 14世紀にモンゴル帝国側の資料で「チンギス・カアン」 (Činggis Qa'an/Činggis Qaγan) と称する例は、絶無ではないが筆記者による書き間違いなどの可能性もあるレベルで、一般的ではなかったようである。
例えば、大元ウルスでの場合、少林寺蒙漢合壁聖旨碑の例を挙げると、タツ年(至元5年戊辰、1268年)正月25日の紀年を持つウイグル文字モンゴル語によるクビライの聖旨碑文には、チンギスは CYNKKYZ X'N/Činggis Qan と書かれ、オゴデイは単に X'X'N/Qaγan〜Qa'an と書かれている。およそ半世紀のちのネズミ年(皇慶元年壬子、1318年)3月13日の紀年のある同じ碑石に刻された仁宗アユルバルワダによる聖旨碑でも、チンギスは「チンギス・カンの」 ǰiṅ -gis qa-nu/ǰiṅgis qa-nu 、オゴデイは「オゴデイ・カアンの」 "ö-kˋö-däḙ q·a-nu/Öködeï Qa'an-u 、クビライは尊号である「セチェン・カアンの」 sä-čän q·a-nu/Sečen Qa'an-u で呼ばれており、続く成宗テムルも同じく尊号の「オルジェイトゥ・カアンの」 "öˆl-ǰäḙ-tˋu q·a-nu/Öˆlǰeïtü Qa'an-u、武宗カイシャンも尊号の「クルグ・カアンの」kˋü-lug q·a-nu/Qa'an-u とあって、チンギスのみ「カン」 (Qan) の称号のまま使われており、オゴデイ以下他と区別がされている[17]。
グユクのインノケンティウス4世宛国書。15行目に「チンギス・カンと(オゴデイ・)カアン ( جنكيز خان و قاان Jinkīz Khān wa Qā'ān) 」と書かれている。(ペルシア語、バチカン図書館蔵)
イルハン朝でも上述の通り、チンギスは『世界征服者の歴史』などの جنكيز خان Jinkīz Khān (または چنگيز خان Chigīz Khān)あるいは『集史』のような چينككيز خان Chīnkkīz Khān と書かれている。オゴデイは「オゴデイ・カアン」 اوكتاى قاآن Ūktāī Qā'ān、クビライは「クビライ・カアン」 قوبيلاى قاآن Qūbīlāī Qā'ān となっている。しかしながら例えばチンギス・カアン جنكيز قاآن Jinkīz Qā'ān のような表記をされた資料はイルハン朝以降も見られない。このような جنكيز خان Jinkīz Khān と(オゴデイ・)カアン قاان Qā'ān のような表記の書き分けは、第3代皇帝グユクがローマ教皇インノケンティウス4世に宛てた国書にもはっきり確認される。13 - 14世紀のモンゴル帝国ではアラビア文字表記でも「カン」と「カアン」は厳然と区別されていたと見られるのである。総じてこの جنكيز خان Jinkīz Khān という表記はティムール朝時代以降も一般的に使われている。
イルハン朝周辺でもウイグル文字モンゴル語で書かれた資料がいくつか残されており、例えば『集史』編纂後程なく成立したと見られる系図資料『五族譜』 (Shu`ab-i Panjgāna) は各々主要なモンゴル君主の部分には人物名のアラビア文字表記とウイグル文字表記とを併記しているのが特徴となっている。そこではチンギスの場合、アラビア文字で جينككيز خان Jīnkkīz Khān と表記され、ウイグル文字では cynγkyz q'n/čiŋγis qan と表記されている。クビライの場合はアラビア文字で قُوبِيلَاي قآن Qūbīlāī Qa'ān と表記され、ウイグル文字では qwbyl'y q'q'n/qubilai qa'an と表記されている(アラビア文字表記は『集史』イスタンブール本とほぼ同一となっている。「カアン」のアラビア文字表記について『世界征服者の歴史』やグユクのインノケンティウス4世宛国書では قاان Qā'ān もしくは قاآن Qā'ān と4文字で表記されるが、『集史』イスタンブール本や『五族譜』では قآن Qa'ān と3文字で表記されており、2番目の文字にアリフの長母音記号であるマッダ記号が附されているのが特徴的である)。
漢語文献での「チンギス・カン」の呼称
後裔である元朝によってつけられた中国風の廟号は太祖、諡は法天啓運聖武皇帝といい、元の初代皇帝として扱われる。
漢語文献では、チンギス在世中の記録として、ムカリ国王の宮廷を訪れた南宋の使者孟珙撰(王国維の研究により著者は趙珙と校正された)の報告書『蒙韃備録』(1221年頃成立)やサマルカンド駐留中のチンギス・カンに謁見した長春真人・丘処機の旅行記『長春真人西遊記』(1228年頃成立)が知られているが、いずれも「成吉思皇帝」と書かれている。南宋側の記録である『蒙韃備録』や『黒韃事略』(1237年成立)でもチンギスは「成吉思皇帝」や「韃主」と呼ばれているが、「チンギス」という音写に基づく呼称は一貫して「成吉思」や「成吉思皇帝」であり、ウイグル文字、パスパ文字、アラビア文字などのような「カン」と「カアン」の書き分けは生じていない。『元朝秘史』のような「成吉思可罕」という表記は漢語文献では稀であり、ほとんど確認されない(ちなみに、1346年に成立したチベット語文献の『フウラン・テプテル』でも「太祖チンギス帝」 (Thaḥi dsuṅ Jiṅ gi rgyal po) とあって「カン」や「カアン」の部分は音写されていない)。
1266年にクビライによってチンギス・カン以来のモンゴル皇帝や皇后、イェスゲイ・バアトルやトルイなどの主要モンゴル王族の廟号と諡号が設けられ、チンギスには廟号を太祖、諡号を聖武皇帝と贈られた。また、1309年12月3日に武宗カイシャンによってさらに法天啓運聖武皇帝と追諡された[18]。これらを受けて大元ウルスの末期に編纂された随筆『南村輟耕録』の歴代モンゴル皇帝を列記した巻第1 列聖授受正統 には「太祖應天啓運聖武皇帝 諱鐵木眞國語曰成吉思。」と記されている。
中期モンゴル語と近現代モンゴル語の音韻
以上のように、西方のアラビア文字圏ではイルハン朝以降もほぼ一貫して「チンギス・カン」系の表記のままであったのに対して、モンゴル高原では「チンギス・カアン」系に呼称が遷移した。近代モンゴル語 Чингис Хаан
[ʧiŋgɪs χaːŋ][ヘルプ/ファイル]の音韻に近い「チンギス・ハーン」という表記が、近年一般に流布して用いられたが、これは表記上の問題以外に音韻上の変化についても問題となる。パスパ文字モンゴル語やアラビア文字表記から、ウイグル文字などに見られる Qaγan は第2音節の -aγa- は -a'a- と軟音化して「カアン」と発音されていたことが確実で、これが近現代音ではさらに χaːŋ のようにほぼ長母音化してしまっている。中期モンゴル語の q 音もパスパ文字モンゴル語表記やアラビア文字転写によって、「カ」に近い音であったが、現在では χ 音に移行している。χ 音は日本語の仮名転写では「ハ」行が用いられるため、中期モンゴル語としては「チンギス・カアン」と呼ぶべきものが「チンギス・ハーン」に変化しているのである。また、近現代モンゴル語でも「カン(ハン)」と「カアン(ハーン)」の区別は存在するが、チンギスは「ハーン(皇帝)」であるため、「チンギス・ハン (Чингис хан) 」とは呼んではならず、「チンギス・ハーン (Чингис хаан) 」と呼ぶべきだと現在のモンゴル人は考えている、との報告もされている[19]。
一方で、ペルシア語文献でのアラビア文字(ペルシア文字)転写で多い、چنگيز خان Chigīz Khān を仮名転写すると「チンギーズ・ハーン」となり、近現代モンゴル語の「カアン」 (Qa'an) の発音転写とアラビア文字表記での「カン」 (Qan) の仮名転写が、「ハーン」という同一の転写になってしまう。「カン」と「カアン」という中期モンゴル語のレベルでは意味的に異なる単語が、依拠する資料で同一の仮名転写になるという弊害が生じることとなった。
「チンギス・カン」「チンギス・ハン」「チンギス・ハーン」
このため、「チンギス・ハーン」「チンギス・ハン」「チンギス・カン」と言った具合に、日本語文献での仮名転写が研究者や執筆者の間でバラバラの状態になり、混乱を来すようになった。
主に、1980年前後から『アルタン・ハーン伝』に見られるような16 - 17世紀以降のモンゴル語文献の調査に基づく研究者の間では「チンギス・ハーン」という表記を採用する傾向にあり、一方で1990年代以降に中国で発掘された大元ウルス時代のパスパ文字モンゴル語碑文や『集史』などのモンゴル帝国時代のペルシア語文献の調査の進展によって、中期モンゴル語音韻の復元研究が進み、モンゴル帝国では「カン」と「カアン」が明確に区別されていたことが判明・認識されるようになった。このため13 - 14世紀のモンゴル帝国時代の研究者からこれらの同時代文献資料での表現に基づいて「チンギス・カン」という表記が推奨されるようになった(両者の弁別を強く訴えている研究者としては、モンゴル帝国史・大元ウルス史の専門家である杉山正明などが有名である。また、「チンギス・ハン」は「チンギス・カン」の現代モンゴル語読み (Činggis Qa'an) か、どちらかというとアラビア文字表記の چنگيز خان Chigīz Khān から再現したテュルク語発音(Čiŋγis χan と転写すべきか)に近い)。
一般に日本の戦前や現代の中国などの漢字表記では、「成吉思汗」と書かれるが、これは「チンギス・ハン」という発音を漢字に写したものである(注釈:中国語での発音とすれば、これはチンギス・ハンである。カンではない。また、さらに厄介なことに、清朝時代の満州語では、「皇帝」を意味する単語は han で一律表現され、中期モンゴル語や近現代モンゴル語の「カン(ハン)」「カアン(ハーン)」の対立は見られないという)。
かつてはジンギス・カンと書かれることが多かったが、これはティムール朝以降のペルシア語年代記などのアラビア文字表記でجنكز خان (jinkiz khān) のようにイルハン朝時代の『集史』では保たれていた چ č が ج j のままになっている写本が多く見られる。これらの事情によっての13-14世紀以降のアラビア語文献や ج j のままの文献の音写から転訛した欧米の諸言語の発音に基づいた、19 - 20世紀前半までの表記がベースと考えられる。しかしながら、現在では「チンギス・ハーン」や「チンギス・カン」が一般化しており、現在では「ジンギス・カン」はむしろまれである(なお、欧米ではモンゴル帝国時代に存在した「カン」と「カアン」の区別についての認識がまだまだ周知されていないようで、チンギスでもクビライでも Khan で一律表記される傾向にある)。
このように、13 - 14世紀のモンゴル帝国内部の中期モンゴル語やその影響にある文字表記では「チンギス・カン」と呼ばれている。13 - 14世紀の中期モンゴル語と近代・現代モンゴル語では q 〜 χ と音韻の変化が生じているが、それとは別に大元ウルスが崩壊した前後からモンゴル高原周辺ではチンギス・カンの称号について、「カン」系から「カアン」系へシフトしていったもので「チンギス・カアン」という言い方は、特に大元ウルスが崩壊した14世紀末以降に一般化していったものと考えられる。
以上、同時代のモンゴル語による表記は Činggis Qan で、チンギス・カンと発音したため、本項でもこれを使用する。