ナポレオン・ボナパルトⅡ【中半】

 

死因をめぐる論議

オテル・デ・ザンヴァリッド地下にあるナポレオンの墓

ヒ素中毒による暗殺説が語られるのは、本人が臨終の際に「私はイギリスに暗殺されたのだ」と述べたこともさることながら、彼の遺体をフランス本国に返還するために掘り返した時、遺体の状態が死亡直後とほぼ変わりなかった事(ヒ素は剥製にも使われるように保存作用がある)、更には、スウェーデンの歯科医ステン・フォーシュフットがナポレオンの従僕マルシャンの日記を精読して、その異常な病状の変化から毒殺を確信し、グラスゴー大学の法医学研究室ハミルトン・スミス博士の協力のもと、ナポレオンのものとされる頭髪からヒ素を検出して、ヒ素毒殺説をセンセーショナルに発表したことによる。ヒ素はナポレオンとともにセントヘレナに同行した何者かがワインに混入させた毒殺説以外にも、その当時の壁紙にはヒ素が使われていて、ナポレオンの部屋にあった壁紙のヒ素がカビとともに空気中に舞い、それを吸ったためだという中毒説がある。フォーシュフットの検査に使った頭髪が実際にナポレオンのものか確証がないという反論があったため、2002年に改めてパリ警視庁・ストラスブール法医学研究所が様々なナポレオンの遺髪を再調査した。すると、皇帝時代に採取された彼の髪に放射光をあてて調査した結果、やはりかなりの量のヒ素が検出され、セントヘレナに行く前からヒ素中毒であった可能性があると発表された。しかし当時は髪の毛の保存料としてヒ素が広く使われており、ナポレオン以外の頭髪でもヒ素が検出されることがその後の調査で判明し、生前にヒ素を摂取した場合も頭髪に残るが、切り取られた髪の毛の保存料としてヒ素が使われた場合にも、同様にヒ素が髪の内部まで浸透し、科学的には両方の可能性を否定できないため、この場合はヒ素は死因を特定する材料にはならないことがわかった[1]。よってヒ素による慢性あるいは急性の中毒説は否定された[2]が、もちろんヒ素以外にも痕跡を残さない毒物はこの世にたくさんあるため、毒殺ではないと証明することは難しい。

ナポレオンの死を描いた1826年の絵画

ただし、死の直後に公式に発表された胃癌説(病死説)は公式には今まで一度も覆されたことはなく、最近の研究でも胃癌を支持するものは多い。[3]また同様に胃潰瘍説も取り沙汰されている。実際ナポレオンの家族にも胃癌で亡くなった者(家族性胃癌症候群)がおり、ナポレオン自身もまた胃潰瘍であった。特に1817年以降、体調は急激に悪化している。ただ、解剖所見では、胃潰瘍により胃に穿孔していたことが確認され、また初期の癌も見つかったが、癌患者であっても最終的な死因は癌ではない可能性もあるため、直接的な死因と断言するには乏しいのがこの公式見解の弱点である[注釈 21]。死因かどうかはともかく、胃潰瘍と胃癌をナポレオンが患っていたのは確かな科学的事実である。

他には、20年以上に渡り戦場を駆けた重圧と緊張が、元々頑丈ではなかった心身に変調を来たさせたという説もある。若い頃は精神力でカバーできていたが、40歳を迎える頃にはナポレオンの体を蝕んでいたという主張で、その死は激動の生活から無為の生活を強いられた孤島の幽囚生活が心理的ストレスとなり、生活の変調がもたらした致死性胃潰瘍であるという。胃潰瘍と共に悪化した心身の変調を内分泌や脳下垂体の異常を原因と主張する医学者もいた[4][5]。 このように様々な説があるが、公式見解の胃癌説以外で考慮に値するのは、医療ミス説である。カリフォルニア大学バークレー校の心臓病理学者スティーブン・カーチは、ナポレオンを看取った主治医アントマルキのカルテを見て、医師が下剤として酒石酸アンチモニルカリウムを、更に死の前日には嘔吐剤として甘汞(かんこうを大量に処方していたことに気付いた。これらは単独でも毒物であるが、飲みやすくするために使われた甘味料オルジエと合わせると体内でシアン化水銀という猛毒にかわった可能性があり、薬の量からして、体内の電解質のバランスを崩して心拍の乱れを起こして心停止に至ったと判断できるとした。カーチは「ヒ素の長期的影響に加えて医療過誤により悪化した不整脈が直接の死因」と主張する[6][7]。これはヒ素中毒を、胃癌や胃潰瘍に置き換えても、同じことが言え、更に死の直前に起こった不可解な病状の激変を説明できる唯一の仮説である。

総合的にはナポレオンの死の原因は現在に至っても決着していない。ヒ素毒殺説は有名であるので誤解されやすいが、フランスでの公式見解は一貫して胃癌説である。また前述のようにかつては毒殺の証拠とみられたヒ素が実は証拠能力がないことも証明された。

評価と影響

Edit-find-replace.svg この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2012年6月)

ナポレオンの胸像

ナポレオンはフランス革命の時流に乗って皇帝にまで上り詰めたが、彼が鼓舞した諸国民のナショナリズムによって彼自身の帝国が滅亡するという皮肉な結果に終わった。

一連のナポレオン戦争では約200万人の命が失われたという。その大きな人命の喪失とナポレオン自身の非人道さから国内外から「食人鬼」「人命の浪費者」「コルシカの悪魔」と酷評(あるいはレッテル貼り)もされた。軍人、小土地自由農民とプチ・ブルジョワジーを基盤とするその権力形態はボナパルティズムと呼ばれる。ナポレオンによって起こされた喪失はフランスの総人口にも現われた。以後フランスの人口(とくに青壮年男性を中心とする生産年齢人口)は伸び悩み、国力でイギリスやドイツ(のちにはアメリカ合衆国も)などに抜かれることとなった。フランス復古王政を経て成立した7月王政期の1831年には、フランス軍における人員の夥しい喪失への反省から、フランス人からではなく多国籍の外国人から兵士を採用するフランス外人部隊が創設されることになった。これ以降、21世紀に徴兵制が全面廃止されるまで、フランス国民からの徴兵と、外国籍人を含む志願制とが併用されることになる。

ナポレオンの後に即位したルイ18世とその後のシャルル10世は、ナポレオン以前の状態にフランスを回帰させようとしたが、ナポレオンによってもたらされたものはフランスに深く浸透しており、もはや覆すことはできなかった。王党派は、1815年の王政復古から、反ボナパルティズムを取り、数年に渡り白色テロを繰り返した。王党派とボナパルティストとの長き対立と確執は、フランスに禍根を残すことにも繋がった。ウィーン体制による欧州諸国の反動政治もまた、欧州諸国民の憤激を買い、フランス革命の理念が欧州各国へ飛び火して行くことになる。

その一方で産業革命などによって急速に個性を喪失していく中において、全ヨーロッパを駆け抜けたナポレオンをそのような時代に対する抵抗の象徴として「英雄」視する風潮が生まれた。ゲオルク・ヘーゲルが「世界理性の馬を駆るを見る」と評し、フリードリヒ・ニーチェが「今世紀(19世紀)最大の出来事」と評した。その一方で、こうしたナポレオンを理念化されたナポレオンであって現実のナポレオン像ではないとする人々もいた。ベートーヴェンがその楽譜を破いたとされる故事はそうした背景を象徴するものであると言われている。

1840年に遺骸がフランス本国に返還されたことでナポレオンを慕う気持ちが民衆の間で高まり、ナポレオンの栄光を想う感情がフランス第二帝政を生み出すことになる。

現在のフランスでは、ナポレオンのイメージを損なうとして、にナポレオンと名付けることを禁止している[8]

功績

ナポレオン法典、別名フランス民法典(1804年)

ナポレオンが用い、広めた法・政治・軍事といった制度はその後のヨーロッパにおいて共通のものとなった。かつて古代ローマの法・政治・軍事が各国に伝播していったこと以上の影響を世界に与えたと見ることもできる。

  • ナポレオン法典はその後の近代的法典の基礎とされ、修正を加えながらオランダ・ポルトガルや日本などの現在の民法に影響を与えている。フランスにおいては現在に至るまでナポレオン法典が現行法である。アメリカ合衆国ルイジアナ州の現行民法もナポレオン法典である。ナポレオンはこの法典の条文の完全性に自信をもち注釈書の発行を禁じた。
  • 軍事的にもナポレオンが生み出した、国民軍の創設、砲兵・騎兵・歩兵の連携(三兵戦術)、輜重の重視、指揮官の養成などは、その後の近代戦争・近代的軍隊の基礎となり、プロイセンにおいてカール・フォン・クラウゼヴィッツによって『戦争論』に理論化されることになる。
  • 「輜重の重視」という方針を実行する過程において、軍用食の開発のために効率的な食料の保存方法を広く公募することも行い、そこで発明されて採用されたのがニコラ・アペールが発明した「瓶詰」である。「瓶詰」そのものは加工の手間がかかり過ぎて普及しにくかったものの、ここで発明された「密封後に加熱殺菌」という概念が、後に「缶詰」(1810年イギリスにて発明)などの保存食の大発展へと繋がっていく。
  • ナポレオンの大陸封鎖令(対イギリス経済封鎖)によって砂糖価格が暴騰した結果、ビート(砂糖大根)からの製糖が一気に普及した。
  • 道路右側通行がヨーロッパ全土に普及したのもこの頃である(イギリスは占領されなかったので左側通行のままとなっている)。
  • 政治思想史においてもフランス革命の理念(自由、平等、博愛)がナポレオン戦争によって各国に輸出されたということも見逃してはならない。
  • 短い期間ではあったが、ナポレオンに支配された諸国は、急激な変化を経験した。ナポレオンは、各地で領主の支配や農奴制を打破し、憲法と議会をおき、フランス式の行政や司法の制度を確立し、フランスと同様の民法を移植していった。長くフランスの支配を受けた地域では工業化が始まり、19世紀にはヨーロッパの先進地帯となっていった。また、ヨーロッパの諸民族は他民族からの解放や民族の統一を学んだ。列強の君主たちは、ナポレオン退位後にヨーロッパ社会をフランス革命以前に戻そうとしたが、社会の仕組みは既に変化しており、新しい政治勢力が生まれていた。

語録

ウィキクォートにナポレオン・ボナパルトに関する引用句集があります。

詳細はウィキクォートを参照。

Impossible, n'est pas français.「不可能という言葉はフランス的ではない
直訳すれば「不可能はフランス語ではない」。ナポレオンが日常よく口にした言葉とされ、一般には「余の辞書に不可能の文字は無い」として知られている。元は「不可能と言う文字は愚か者の辞書にのみ存在する」という言葉だったという説もある。また、他にも「フランス人は不可能という言葉を語ってはならない」という説もある。実際にナポレオンが口にしたかどうかは定かでなく後世の創作ともいわれる。

エルバ島脱出と新聞

ナポレオンが1815年、エルバ島を脱出してからの新聞の見出しが下記のようになっている。新聞がいかに権力に弱いかをしめす好例として著名である。

  • 怪物、流刑地を脱出(2月26日)
  • コルシカの狼、カンヌに上陸(3月1日)
  • 悪霊、ガップに出現。討伐軍が派遣さる(3月3日)
  • 食人鬼、グラッスへ(3月5日)
  • 王位簒奪者、グルノーブルを占領(3月7日)
  • 悪辣皇帝、リヨンに。恐怖のため市民の抵抗は無し(3月10日)
  • 僭主、パリより50マイルまで迫る(3月15日)
  • ボナパルト、北方へ進撃。速度増すもパリ入城は不可能か(3月17日)
  • ナポレオン氏、明朝パリへ(3月19日)
  • 皇帝陛下、フォンテヌブローへご帰還。皇帝万歳(3月20日)