源 頼朝(みなもと の よりとも)とは、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。
河内源氏の源義朝の三男として生まれる。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。
これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。
頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となった。
目次 省略
出生
出生跡地にある誓願寺と誕生旧地碑
久安3年(1147年)4月8日、源義朝の三男として尾張国熱田(現在の名古屋市熱田区)の熱田神宮西側にあった神宮大宮司・藤原季範の別邸(現誓願寺)にて生まれる。幼名は鬼武者、または鬼武丸。母は季範の娘・由良御前。
父・義朝は清和天皇を祖とし、河内国を本拠地として源頼信、源頼義、源義家らが東国に勢力を築いた河内源氏の流れを汲む武士である。 義朝は保元元年(1156年)の保元の乱で、平清盛らと共に後白河天皇に従って勝利した。頼朝は保元3年(1158年)に後白河天皇准母として立后した統子内親王の皇后宮権少進となり、平治元年(1159年)2月に統子内親王が院号宣下を受けると、上西門院蔵人に補された。上西門院殿上始において頼朝は徳大寺実定、平清盛といった殿上人が集う中で、坊門信隆、吉田経房らとともに献盃役をつとめている。また同年1月には右近衛将監に、6月には二条天皇の蔵人にも補任されている。長兄の義平は無官とみられ、先に任官していた次兄の朝長よりも昇進が早いことから、母親の家柄が高い頼朝が実質的に義朝の後継者として待遇されていたと考えられる。
平治の乱
詳細は「平治の乱」を参照
保元の乱の後、二条天皇親政派と後白河院政派の争い、急速に勢力を伸ばした信西への反感などがあり、都の政局は流動的であった。頼朝の父・義朝は平治元年(1159年)12月9日、後白河上皇の近臣である藤原信頼が首謀者となった平治の乱に加わり三条殿焼き討ちを決行した。襲撃後の除目で、13歳の頼朝は右兵衛権佐へ任ぜられるが、二条天皇側近らの画策で天皇は六波羅の平清盛邸へと移り、27日、官軍となった平氏が賊軍となった信頼らのいる大内裏へと攻め寄せた。この戦いで義朝軍は敗れ、一門は官職を剥奪され京を落ちた。
義朝に従う頼朝ら8騎は、本拠の東国を目指すが頼朝は途中で一行とはぐれ、平頼盛の家人・平宗清に捕らえられる。父・義朝は尾張国にて長田忠致に謀殺され、長兄・義平は都に潜伏していたところ捕らえられて処刑、次兄・朝長は逃亡中の負傷が元で命を落とした。 永暦元年(1160年)2月9日、京・六波羅へ送られた頼朝の処罰は死刑が当然視されていたが、清盛の継母・池禅尼の嘆願などにより死一等を減ぜられて伊豆に流刑となった。 頼朝は3月11日に伊豆国の蛭ヶ小島(ひるがこじま)へと流された。なお同日、平治の乱に関った大炊御門経宗、葉室惟方や頼朝の同母弟・源希義も流刑に処されている。
伊豆の流人
蛭ヶ小島(静岡県伊豆の国市四日町)
伊豆国での流人生活は史料としてはほとんど残っていない。
流人とはいえ、比較的安定した自由な生活をしていたと思われる。また、その頃三浦半島から房総半島までを行き来していたという。周辺には比企尼の婿である安達盛長が側近として仕え、源氏方に従ったため所領を失って放浪中の佐々木定綱ら四兄弟が従者として奉仕した。この地方の霊山である箱根権現、走湯権現に深く帰依して読経をおこたらず、亡父・義朝や源氏一門を弔いながら、一地方武士として日々を送っていた。そんな中でも乳母の甥・三善康信から定期的に京都の情報を得ている。また、武芸の一環である巻狩りにもたびたび参加していた事が知られており、『曾我物語』には工藤祐経が河津祐泰を殺害したことで知られる安元2年(1176年)10月の奥野の巻狩りにも参加する頼朝の姿が描かれるなど、頼朝の立場は流人であったとは言え、伊豆およびその周辺では「名士」として遇されていたとみられる。
なお、この流刑になっている間に伊豆の豪族・北条時政の長女である政子と婚姻関係を結び長女・大姫をもうけている。この婚姻の時期は大姫の生年から治承元年頃のことであると推定されている。
なお、フィクション性が高いとされる『曽我物語』には次のような記載がある。 仁安2年(1167年)頃、21歳の頼朝は伊東祐親の下に在った。ここでは後に家人となる土肥実平、天野遠景、大庭景義などが集まり狩や相撲が催されている。祐親が在京の間に頼朝がその三女・八重姫と通じて子・千鶴丸を成すと、祐親は激怒し平氏への聞こえを恐れて千鶴丸を伊東の轟ヶ淵に投げ捨て、八重姫を江間小四郎に嫁がせる一方で頼朝を討たんと企てた。祐親の次男・伊東祐清からそれを聞いた頼朝は走湯権現に逃れて一命を取り留めた。
また、政子との婚姻に関しては『源平盛衰記』に次のような逸話がある。 頼朝と政子の結婚に反対する時政は、山木兼隆に嫁がせるべく政子を兼隆の下に送るが、政子はその夜の内婚礼の場から抜け出した。しかし、頼朝の妻となった政子と山木兼隆との婚儀については、兼隆の伊豆配流が1179年であり、長女大姫が1178年に誕生している事から物語上の創作と思われる 。
挙兵
詳細は「治承・寿永の乱」を参照
治承4年(1180年)、後白河法皇の皇子である以仁王が平氏追討を命ずる令旨を諸国の源氏に発した。4月27日、伊豆国の頼朝にも、叔父・源行家より令旨が届けられる。以仁王は源頼政らと共に宇治で敗死するが、頼朝は動かずしばらく事態を静観していた。しかし平氏が令旨を受けた諸国の源氏追討を企て、自身が危機の中にあることを悟った頼朝は挙兵を決意すると、安達盛長を使者として義朝の時代から縁故のある坂東の各豪族に挙兵の協力を呼びかけた。
最初の標的は伊豆国目代・山木兼隆と定められ、治承4年(1180年)8月17日、頼朝の命で北条時政らが韮山にある兼隆の目代屋敷を襲撃して兼隆を討ち取った。
伊豆を制圧した頼朝は相模国土肥郷へ向かう。従った者は北条義時、工藤茂光、土肥実平、土屋宗遠、岡崎義実、佐々木四兄弟、天野遠景、大庭景義、加藤景廉らであり、三浦義澄、和田義盛らの三浦一族が頼朝に参じるべく三浦を発した。三浦軍との合流前の23日に石橋山の戦いで、頼朝軍三百騎は平氏方の大庭景親、渋谷重国、熊谷直実、山内首藤経俊、伊東祐親ら三千余騎と戦って敗北し、土肥実平ら僅かな従者と共に山中へ逃れた。数日間の山中逃亡の後、死を逃れた頼朝は、8月28日に真鶴岬から船で安房国へ脱出した。
関東平定
鶴岡八幡宮本殿
治承4年(1180年)8月29日、安房国平北郡猟島へ上陸した頼朝は、房総に勢力を持つ上総広常と千葉常胤に加勢を要請すべく使者を派遣、東京湾沿いを南下し洲崎明神に参詣する。 そして使者が帰参し、9月13日に安房国を出て上総国に赴く。その後、同月17日に下総国に向かい下総国府で千葉一族と合流、19日には広常が大軍を率いて参上し、上総・千葉両氏の支持を受けた頼朝は、10月2日太井・隅田の両河を渡る。 武蔵国に入ると葛西清重、足立遠元に加え、一度は敵対した畠山重忠、河越重頼、江戸重長らも従える。10月6日、かつて父・義朝と兄・義平の住んだ鎌倉へ入り、大倉の地に居宅となる大倉御所をかまえて鎌倉の政治の拠点とした。また先祖の源頼義が京都郊外の石清水八幡宮を勧請した鶴岡八幡宮を北の山麓に移すなど整備を続け、鎌倉は後の鎌倉幕府の本拠地として、発展を遂げる事となる。
10月16日、平維盛率いる追討軍が駿河国へと達すると、これを迎え撃つべく鎌倉を発し、翌々日に黄瀬川で武田信義、北条時政らが率いる2万騎と合流する。20日、富士川の戦いで維盛軍と対峙するが、撤退の最中に水鳥の飛び立つ音に浮き足立った維盛軍は潰走し、頼朝軍はほとんど戦わずして勝利を得た。翌日には上洛を志すが、千葉常胤、三浦義澄、上総広常らは常陸国の佐竹氏が未だ従わず、まず東国を平定すべきであると諌め、頼朝はこれを受け容れ黄瀬川に兵をかえした。この日、奥州の藤原秀衡を頼っていた異母弟・源義経が参じている。
帰途、相模国府で初めての勲功の賞を行い、捕えた大庭景親を処刑する。次いで佐竹秀義を討つべく鎌倉を発し、11月4日に常陸国府へと至った。戦いは上総広常の活躍により秀義を逃亡させ終わった(金砂城の戦い)。頼朝は秀義の所領を勲功の賞に充て、鎌倉へ戻ると和田義盛を侍所の別当に補す。侍所は後の鎌倉幕府で軍事と警察を担う事となる。
頼朝寄進江島神社奥津宮鳥居
治承4年(1180年)末までに、四国伊予の河野氏、近江源氏、甲斐源氏、信濃源氏が挙兵して全国各地は動乱状態となった。平氏も福原から京都に都を戻して反撃に転じ、近江源氏や南都寺社勢力を制圧する。養和元年(1181年)に入ると、肥後国の菊池隆直、尾張国に拠る源行家、美濃国の美濃源氏一党なども平氏打倒の兵を挙げ、反平氏の活動はより一層活発化した。その混乱のさなか閏2月4日、平清盛が熱病で世を去った。全国的な反乱が続く中、平氏は平重衡を総大将として尾張以東の東国征伐に向かう。重衡は行家らを墨俣川の戦いにて打ち破り、美濃・尾張は平氏の勢力下に入った。頼朝は和田義盛を遠江に派遣するが、平氏はそれ以上は東に兵を進めず都に戻った。
7月頃、頼朝は後白河法皇に朝廷に対する謀反の心はなく、平氏と和睦しても構わないという趣旨の書状を送るが、清盛の後継者である平宗盛は清盛の遺言を理由にその和平提案を拒否した。宗盛は奥州の藤原秀衡を陸奥守に任じて頼朝の牽制を期待し、攻撃の矛先を横田河原の戦い以降活発化した北陸の反乱勢力に向けた。頼朝がこの時期に平氏と直接対峙することはなかったが、遠江国では甲斐源氏の安田義定が独立的立場をとっており、奥州藤原氏の動向も定かでなく、坂東で身動きのとれない状態が続いた。翌年の寿永元年(1182年)からは養和の飢饉により両軍は軍事行動を行なうことができず膠着状態となった。その年、頼朝は伊勢神宮に平氏打倒の願文を奉じ、藤原秀衡の調伏を祈願すると江ノ島に弁才天を勧請する。また同年8月に妻・政子が嫡男の源頼家を出産している。
寿永2年(1183年)2月、常陸に住む叔父・源義広が、足利忠綱らとともに21日に鎌倉を攻めるべく兵を挙げた。この頃、主な御家人らは平氏の襲来に備え駿河国に在ったため、対応に苦慮した頼朝は小山朝政らに迎撃を託し、自らは鶴岡八幡宮で東西の戦いの静謐を祈る。朝政らは野木宮合戦で義広らを破り、頼朝の異母弟である源範頼らが残敵を掃討した。これにより関東で頼朝に敵対する勢力は無くなった。
義仲との戦い
源頼朝像(中村不折画)
寿永2年(1183年)春、以仁王の令旨を受けて挙兵していた源義仲が、頼朝に追われた叔父の義広・行家を庇護した事により、頼朝と義仲は武力衝突寸前となる。両者の話し合いで義仲の嫡子・義高を頼朝の長女・大姫の婿として鎌倉に送る事で和議が成立した。
義仲は平氏との戦いに勝利を続け、7月に平氏一門を都から追い落とした。大軍を率いて入京した義仲は後白河法皇から平氏追討の命を得るが、寄せ集めである義仲の軍勢は統制が取れておらず、飢饉に苦しむ都の食糧事情を悪化させ、また皇位継承に介入した事により院や廷臣たちの反感を買った。朝廷と京の人々は頼朝の上洛を望み、後白河法皇は義仲を西国の平氏追討に向かわせ、代わって頼朝に上洛を要請する。10月7日、頼朝は藤原秀衡と佐竹秀義に鎌倉を攻められる恐れがあること、数万騎を率い入洛すれば京がもたないことの二点を理由に、使者を返して要請を断った。10月9日に朝廷は平治の乱で止めた頼朝の位階を復し、14日には東海道と東山道の所領を元の本所に戻してその地域の年貢・官物を頼朝が進上し、命令に従わぬ者の沙汰を頼朝が行なうという内容の宣旨を下した(寿永二年十月宣旨)。頼朝は既に実力で制圧していた地域の所領の収公や御家人の賞与罰則をおこなっていたが、それは朝廷からみれば非公式なものであった。寿永二年十月宣旨により、当初「反乱軍」と見なされていた頼朝率いる鎌倉政権は朝廷から公式に認められる勢力となった。同年12月、東国自立を主張する上総広常が頼朝の命令で梶原景時に誅殺されている。
閏10月15日、頼朝の上洛を恐れる義仲は、平氏追討の戦いに敗れると京に戻り、頼朝追討の命を望むが許されず、11月には頼朝が送った源義経率いる軍が近江国へと至る。平氏と義経に挟まれた義仲は、法住寺合戦で後白河法皇を拘束して頼朝追討の宣旨を引き出し、寿永3年(1184年)1月には征東大将軍に任ぜられた。20日に源範頼と義経は数万騎を率いて京に向かい、義仲は粟津の戦いで討たれた。
頼朝は鎌倉に在った義高の殺害を企て、これを大姫が義高に伝えると、4月21日に義高は女房に扮し鎌倉を逃れた。頼朝は怒って堀親家に命じて追手を差し向け、24日に武蔵国入間川原で義高を討った。大姫は嘆き悲しみ、憤った母の政子は義高を討った家人を梟首するが、大姫はその後も憔悴を深め、後にわずか20歳で亡くなる事となる。ほぼ同時期に甲斐源氏の一条忠頼が鎌倉に於いて、頼朝の命令で天野遠景に殺害されている。
平氏追討
義仲を討った範頼と義経は、平氏を追討すべく京を発つ。元暦元年(1184年)2月7日、摂津国一ノ谷の戦いで勝利を収め、平重衡を捕えて京に戻った。この戦いの後、頼朝は義経を自らの代官として都に残し、義経の差配のもと畿内の武士たちの掌握を図る一方、四国に逃れた平氏を追討すべく九州・四国の武士に平氏追討を求める書状を下して、土肥実平や梶原景時を山陽諸国に派遣した。
6月5日の除目で、平頼盛が還任、一条能保(姉または妹婿)、範頼、源広綱、平賀義信が国司となった。 8月8日に範頼を大将とする平氏追討軍が鎌倉から出陣した。従わせた家人は北条義時、足利義兼、千葉常胤、三浦義澄、結城朝光、比企能員、和田義盛、天野遠景らである。頼朝は範頼に対し京への駐留を禁じており、追討軍は27日に京へ入ると29日に平氏追討使の官符を賜い、9月1日には西海へと赴いた。
10月6日、公文所を開き大江広元を別当に任じる。公文所は後に政所と名を改め、後の鎌倉幕府における政務と財政を司る事となる。20日には訴訟を司る問注所を開き、三善康信を執事とする。この時期になると二階堂行政、平盛時ら中下級の有能な官人達が才能を発揮する場を求めて鎌倉に下向するようになり、彼らが幕府初期官僚組織を形成する。
文治元年(1185年)1月6日、西海の範頼から兵糧と船の不足、関東への帰還を望む東国武士達の不和など窮状を訴える書状が届く。頼朝は安徳天皇や建礼門院の無事のため、軍を動かさず九州の武士からくれぐれも反感を得ぬ様に記した書状を出し、九州の武士には、範頼に従い平氏を討つ事を求めた。この状況をみた義経は後白河法皇に西国出陣を奏上してその許可を得ると、10日に讃岐国屋島に向けて出陣し、19日の屋島の戦いで平氏を海上へと追いやった。26日、九州の武士から兵糧と船を得た範頼は、周防国から豊後国へと渡る。3月24日の壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡し、4月27日に頼朝は平宗盛を捕らえた功により、従二位へ昇った。
義経追放
文治元年(1185年)4月、平氏追討で侍所所司として義経の補佐を務めた梶原景時から、義経を弾劾した書状が届く。 4月15日、頼朝は内挙を得ず朝廷から任官を受けた関東の武士らの任官を罵り東国への帰還を禁じるが、同じく任官を受けた義経には咎めを与えなかった。景時の書状の他にも、範頼の管轄への越権行為、配下の東国武士達への勝手な処罰など義経の専横を訴える報告が入り、5月、御家人達に義経に従ってはならないという命が出された。その頃、義経は平宗盛父子を伴い相模国に凱旋する。頼朝は義経の鎌倉入りを許さず、宗盛父子のみを鎌倉に入れる。腰越に留まる義経は、許しを請う腰越状を送るが、頼朝は宗盛との面会を終えると、義経を鎌倉に入れぬまま、6月9日に宗盛父子と平重衡を伴わせ帰洛を命じる。義経は頼朝を深く恨み、「関東に於いて怨みを成すの輩は、義経に属くべき」と言い放つ。これを聞いた頼朝は、義経の所領を全て没収した。
義経が近江国で宗盛父子を斬首。重衡を自身が焼き討ちにした東大寺へ送ると、8月4日、頼朝は叔父・行家の追討を佐々木定綱に命じた。9月に入り京の義経の様子を探るべく梶原景季を遣わすと、義経は痩せ衰えた体で景季の前に現れ、行家追討の要請に、自身の病と行家が同じ源氏である事を理由に断った。10月、鎌倉に戻った景季からの報告を受けた頼朝は、義経と行家が通じていると断じ、義経を誅するべく家人の土佐坊昌俊を京に送る。対して義経は、頼朝追討の勅許を後白河法皇に求めた。10月17日、頼朝の命を受けた土佐坊ら六十余騎が京の義経邸を襲ったが、応戦する義経に行家が加勢して襲撃は失敗に終わる。義経は土佐坊が頼朝の命で送られたことを確かめ、頼朝追討の宣旨を再び朝廷に求め、後白河法皇はその圧力に負け義経に宣旨を下した。10月24日、頼朝は源氏一門や多くの御家人を集め、父・義朝の菩提寺・勝長寿院落成供養を行った。その日の夜、朝廷の頼朝追討宣旨に対抗し御家人達に即時上洛の命を出すが、その時鎌倉に集まっていた2,098人の武士のうち、命に応じた者はわずか58人であった。頼朝は自らの出陣を決め、行家と義経を討つべく29日に鎌倉を発つと、11月1日に駿河国黄瀬川に着陣した。義経は頼朝追討の兵が集まらず、11月3日、郎党や行家と共に戦わずして京を落ちた。海路西国を目指すも途上暴風雨に会い、船団は難破、一行は散り散りになり、義経は行方をくらませ、妾の静御前が吉野山で捕らえられている。なお義経を九州に迎えようと岡城を築いていた豊後国の緒方惟栄は上野国沼田に配流され、豊後国は一時関東御分国となった。
天下の草創
11月8日、頼朝は都へ使者を送ると、黄瀬川を発って鎌倉へ戻る。11月上旬、義経・行家と入れ替わるように上洛した東国武士の態度は強硬で、院分国の播磨国では法皇の代官を追い出して倉庫群を封印している。11日、頼朝の怒りに狼狽した朝廷は、義経・行家追捕の院宣を諸国に下した。 12日、大江広元は処置を考える頼朝に対して「守護・地頭の設置」を進言した。これに賛同した頼朝は、周章する朝廷に対し強硬な態度を示して圧力をかける。
24日に北条時政は頼朝の代官として千騎の兵を率いて入京し、頼朝の憤怒を院に告げて交渉に入った。 28日に時政は吉田経房を通じ義経らの追捕のためとして「守護・地頭の設置」を認めさせる事に成功する(文治の勅許)。12月には「天下の草創」と強調して、院近臣の解官、議奏公卿による朝政の運営、九条兼実への内覧宣下といった3ヵ条の廟堂改革要求を突きつける(『吾妻鏡』12月6日条、『玉葉』12月27日条)。議奏公卿は必ずしも親鎌倉派という陣容ではなく、院近臣も後に法皇の宥免要請により復権したため、頼朝の意図が貫徹したとは言い難いが、兼実を内覧に据えることで院の恣意的な行動を抑制する効果はあった。
文治2年(1186年)3月には法皇の寵愛深い摂政の近衛基通を辞任させ、代わって兼実を摂政に任命させる。4月頃から義経が京都周辺に出没している風聞が飛び交い、頼朝は貴族・院が陰で操っている事を察して憤る。5月12日には和泉国に潜んでいた源行家を討ち取った。頼朝は捜査の実行によって義経を匿う寺院勢力に威圧を加え、彼らの行動を制限した。その間に発見された義経の腹心の郎党たちを逮捕・殺害すると、院近臣と義経が通じている確証を上げる。11月、頼朝は「義経を逮捕できない原因は朝廷にある。義経を匿ったり義経に同意しているものがいる」と朝廷に強硬な申し入れを行なった。朝廷は重ねて義経追捕の院宣を出すと、各寺院で逮捕のための祈祷を大規模に行う事になった。京都に見捨てられた義経は、奥州に逃れ藤原秀衡の庇護を受ける事となった。
頼朝は、諸国から争いの訴えなどを多く受ける様になり、また平重衡によって焼かれた東大寺の再建工事なども手がけた。
奥州合戦
詳細は「奥州合戦」を参照
平氏討滅後の頼朝にとって、鎌倉政権を安定させるためには、潜在的脅威である奥州藤原氏を打倒する必要があった。文治2年(1186年)4月には藤原秀衡に「秀衡は奥六郡の主、自分は東海道の惣官である。水魚の交わりをなすべきである。都に送る馬や金は鎌倉で管領して伝送しよう」という書状を送りつけて威嚇している。
文治3年(1187年)10月に藤原秀衡が没し、文治4年(1188年)2月に義経の奥州潜伏が発覚すると、頼朝は藤原秀衡の子息に義経追討宣旨を下すよう朝廷に奏上した。頼朝の申請を受けて朝廷は、2月と10月に藤原基成・泰衡に義経追討宣旨を下す。文治5年(1189年)閏4月30日、鎌倉方の圧力に屈した泰衡は衣川館に住む義経を襲撃して自害へと追いやった。
6月13日に義経の首が鎌倉に届き、和田義盛と梶原景時が実検した。25日、頼朝はこれまで義経を匿ってきた罪は反逆以上のものとして泰衡追討宣旨を朝廷に求めるが勅許は下されず、大庭景義の「軍中は将軍の令を聞き、天子の詔を聞かず」という進言により、7月19日、勅許を待たずおよそ1,000騎を率いて鎌倉を発して泰衡追討に向かった(奥州合戦)。頼朝軍はさしたる抵抗も受けずに白河関から奥州南部を進み、8月7日には伊達郡国見駅に達した。
8月8日石那坂の戦い(現在の福島市飯坂)で、頼朝の別働隊伊佐為宗が信夫庄司佐藤基治(佐藤継信・佐藤忠信の父)を打ち破り、8月8日から10日にかけて行なわれた阿津賀志山の戦いにおいて藤原国衡率いる奥州軍を破った頼朝は、泰衡を追って北上する。22日には平泉を攻略するが、泰衡は館に火を放って逃亡していた。26日、頼朝の宿所に赦免を求める泰衡の書状が投げ込まれたが、頼朝はこれを無視して、9月2日には岩井郡厨河(現盛岡市厨川)へ向けて進軍を開始する。厨河柵はかつて前九年の役で源頼義が安倍貞任らを討った地であり、頼朝はその佳例に倣い、厨河柵での泰衡討伐を望んだのである。9月3日、泰衡はその郎従である河田次郎の裏切りにより討たれ、その首は6日に陣岡にいた頼朝へ届けられた。頼朝は河田次郎を八虐の罪に値するとして斬罪に処し、前九年の役で祖先の源頼義が安倍貞任の首を晒した故事に倣って泰衡の首を晒した。9日、京都の一条能保から7月19日付の泰衡追討宣旨が頼朝の下へ届いた。
12日、頼朝は陣岡を出て厨河柵に入り、19日まで逗留して降人の赦免や奥州藤原氏の建立した中尊寺、毛越寺、宇治平等院を模した無量光院の寺領安堵などの処理を行った。平泉に戻って諸寺を巡り感銘を受けた頼朝は、鎌倉に戻った後に中尊寺境内の大長寿院に模した永福寺を建立している。22日、頼朝は奥州支配体制を固めるため葛西清重を奥州総奉行に任命すると、28日に平泉を発ち、10月24日に鎌倉へ帰着した。
この奥州合戦には関東のみならず、全国各地の武士が動員された。また、かつて敵対して捕虜となった者に対しても、この合戦に従って戦功を上げるという挽回の機会も与えられていた。さらに、前九年の役の源頼義の先例を随時持ち出すことによって、坂東の武士達と頼朝との主従関係をさらに強固にする役割も果たした。
この奥州合戦の終了で治承4年(1180年)から続いていた内乱も終結を迎えることになる。