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ナポレオン・ボナパルト Napoléon Ier |
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フランス共和国皇帝 | |
『玉座のナポレオン1世』 |
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在位 | 1804年5月18日 - 1814年4月11日 1815年3月20日 - 1815年6月22日 |
戴冠 | 1804年12月2日、パリ・ノートルダム大聖堂 |
別号 | イタリア国王、アンドラ大公 |
全名 | ナポレオン・ボナパルト Napoléon Bonaparte |
出生 | 1769年8月15日![]() |
死去 | 1821年5月5日(満51歳没)![]() |
埋葬 | 1952年2月15日![]() |
配偶者 | ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ |
マリー・ルイーズ・ドートリッシュ | |
子女 | ナポレオン2世 レオン伯シャルル アレクサンドル・ヴァレフスキ |
王朝 | ボナパルト朝 |
父親 | シャルル・マリ・ボナパルト |
母親 | マリア・レティツィア・ボナパルト |
宗教 | ローマ・カトリック |
サイン | ![]() |
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ダヴィッド『アルプス越えのナポレオン』
ナポレオン一世皇家の紋章
ナポレオン・ボナパルト(フランス語: Napoléon Bonaparte、1769年8月15日 - 1821年5月5日)または、省略して、ナポレオンは、革命期のフランスの軍人・政治家である。ナポレオン1世(フランス語: Napoléon Ier、在位:1804年 - 1814年、1815年)として、フランス第一帝政の皇帝にも即位した。
フランス革命後の混乱を収拾して、軍事独裁政権を樹立した。また、戦勝と婚姻政策によって、イギリス、ロシアとオスマン帝国の領土を除いたヨーロッパ大陸の大半を勢力下に置いた(これら一連の経過をナポレオン戦争という)が、最終的に敗北して失脚した。
目次 省略
生涯
生い立ち
父・カルロ
1769年、コルシカ島のアジャクシオにおいて、父カルロ・マリア・ブオナパルテと母マリア・レティツィア・ラモリーノの間に、12人の子供(4人は夭折)のうち4番目として生まれた。出生時の洗礼名はナブリオーネ・ブオナパルテ。島を追われてフランスで一生を暮らすと決めて出世しだした1794年ごろから、ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテというイタリア人名の綴りから、フランス風のナポレオン・ボナパルトへ改名し、署名も改めた。
ブオナパルテ家の先祖は中部イタリアのトスカーナ州に起源を持つ、古い血統貴族であった。それがジェノヴァ共和国の傭兵隊長としてコルシカ島に渡り16世紀頃に土着した。判事であった父カルロは、1729年に始まっていたコルシカ独立闘争の指導者パスカル・パオリの副官を務めていたが、ナポレオンが生まれる直前にフランス側に転向し、戦後に寝返りへの見返りとして報奨を受け、実質上フランス貴族と同等の権利を得た。旧ジェノヴァ共和国領であるコルシカ島には貴族制度がなかったが、新貴族としての身分を晴れて認められたことで特権を得て、フランス本国への足がかりを得た父カルロは、やがてコルシカ総督とも懇意になり、その援助でナポレオンと兄ジュゼッペ(ジョゼフ)を教育を受けさせるためにフランス本国へと送った。
ナポレオンは初め修道院付属学校に短期間だけ入っていたが、1779年に貴族の子弟が学ぶブリエンヌ陸軍幼年学校(fr)へ国費で入学し、数学で抜群の成績をおさめたという。1784年にパリの陸軍士官学校(fr)に入学。士官学校には騎兵科、歩兵科、砲兵科の3つがあったが、彼が専門として選んだのは、伝統もあり花形で人気のあった騎兵科ではなく、砲兵科であった。大砲を用いた戦術は、後の彼の命運を大きく左右することになる。卒業試験の成績は58人中42位であったものの、通常の在籍期間が4年前後であるところを、わずか11か月で必要な全課程を修了したことを考えれば、むしろ非常に優秀な成績と言える。実際、この11か月での卒業は開校以来の最短記録であった。
この時期のエピソードとして、クラスで雪合戦をした際にナポレオンの見事な指揮と陣地構築で快勝したという話が有名で、このころから指揮官としての才能があったとされるが、実話ではなく偉人伝を彩る後の作り話である。幼年時のナポレオンは、節約をかねて読書に明け暮れ、特にプルタルコスの『英雄伝』やルソーの著作などを精読し、無口で友達の少ない小柄な少年であった。学校ではコルシカ訛りを馬鹿にされ、ナポレオーネに近い音でラパイヨネ (la paille au nez, 藁鼻) とあだ名された。裕福な貴族子弟と折り合いが悪かったためである。その頃の数少ない友人の一人が、後に秘書官を務めるルイ・アントワーヌ・フォヴレ・ド・ブーリエンヌであった。一方で、癇癪持ちでもあり、喧嘩っ早く短気な一面もあった。また十代の後半は小説家にも憧れ、その頃から断続的に文学活動もしていた。
軍人ナポレオン
1785年に砲兵士官として任官。1789年、フランス革命が勃発し、フランス国内の情勢は不穏なものとなっていくが、コルシカ民族主義者であった当時のナポレオンは革命にはほぼ無関心だった。ナポレオンはしばしばコルシカ島へと長期帰郷している。1792年、アジャクシオの国民衛兵隊中佐に選ばれるが、ブオナパルテ家が親仏派であったことから、英国に逃れている独立指導者パスカル・パオリの腹心でナポレオンと遠い縁戚関係にもあるポッツォ・ディ・ボルゴら親英派によってブオナパルテ家弾劾決議を下され、ナポレオンと家族は追放され、船で脱出するという逃避行によってマルセイユに移住。マルセイユでは、ブオナパルテ家は裕福な商家であるクラリー家と親交を深め、ナポレオンの兄ジョゼフは、クラリー家の娘ジュリーと結婚した。ナポレオンもクラリー家の末娘デジレと恋仲となり、婚約する。この頃ナポレオンは、己の政治信条を語る小冊子『ボーケールの晩餐』を著して、当時のフランス政府(革命政府)の中心にいた有力者ロベスピエールの弟オーギュスタンの知遇を得ていた(この小冊子はのちに、ロベスピエールとジャコバン派の独裁を支持するものであるとして、後述するナポレオン逮捕の口実ともなった)。
ポール・バラス
1793年、原隊に復帰すると、貴族士官の亡命という恩恵を得て、特に何もせずに大尉に昇進。ナポレオンはフランス軍の中でも主に王党派蜂起の鎮圧を行っていたカルトー将軍の南方軍に所属し、トゥーロン攻囲戦に出征。前任者の負傷を受けて、新たに砲兵司令官となり、少佐に昇格する。当時の欧州情勢としては、「フランス革命政府」対「反革命側反乱軍(およびそれに介入する第一次対仏大同盟諸国)」の図式があり、近代的城郭を備えた港湾都市トゥーロンはフランス地中海艦隊の母港で、イギリス・スペイン艦隊の支援を受けた反革命側が鉄壁の防御を築いていた。革命後の混乱で人材の乏しいフランス側は、元画家のカルトー将軍らの指揮で、要塞都市への無謀ともいえる突撃を繰り返して自ら大損害をこうむっているような状況であった。ここでナポレオンは、まずは港を見下ろす二つの高地を奪取して、次にそこから大砲で敵艦隊を狙い撃ちにする、という作戦を進言する。次の次の司令官であったデュゴミエ将軍がこれを採用し、豪雨をついて作戦は決行され成功、外国艦隊を追い払い反革命軍を降伏に追い込んだ。ナポレオン自身は足を負傷したが、この功績により、国民公会の議員の推薦を受け、当時24歳の彼は一挙に旅団陸将(少将相当)に昇進し、一躍フランス軍を代表する若き英雄へと祭り上げられた。
1794年、イタリア方面軍の砲兵司令官となっていたが、革命政府内でロベスピエールがテルミドールのクーデターで失脚して処刑されたことで、ナポレオンはロベスピエールの弟オーギュスタンと繋がりがあったこと、およびイタリア戦線での方針対立などにより逮捕、収監された。短期拘留であったものの軍務から外され、降格処分となった。その後も転属を拒否するなどして、公安委員のオーブリと対立したために予備役とされてしまった。
しかし1795年、パリにおいて王党派の蜂起ヴァンデミエールの反乱が起こった。この時に国民公会軍司令官となったポール・バラスは、トゥーロン攻囲戦のときの派遣議員であったため、知り合いのナポレオンを副官として登用。実際の鎮圧作戦をこの副官となったナポレオンにほぼ一任した結果、首都の市街地で一般市民に対して大砲(しかも広範囲に被害が及ぶ散弾)を撃つという大胆な戦法をとって鎮圧に成功した。これによってナポレオンは師団陸将(中将相当)に昇進。国内軍副司令官、ついで国内軍司令官の役職を手に入れ、「ヴァンデミエール将軍」の異名をとった。
若き英雄
近衛猟騎兵大佐の制服を好んで着用した
1796年には、デジレ・クラリーとの婚約を反故にして、貴族の未亡人でバラスの愛人でもあったジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと結婚。同年、総裁政府の総裁となっていたバラスによってナポレオンはイタリア方面軍の司令官に抜擢された。フランス革命へのオーストリアの干渉に端を発したフランス革命戦争が欧州各国を巻き込んでいくなか、総裁政府はドイツ側の二方面とイタリア側の一方面をもってオーストリアを包囲攻略する作戦を企図しており、ナポレオンはこの内のイタリア側からの攻撃を任されたのである。
ドイツ側からの部隊がオーストリア軍の抵抗に苦戦したのに対して、ナポレオン軍は連戦連勝。 1797年4月にはウィーンへと迫り、同年4月にはナポレオンは総裁政府に断ることなく講和交渉に入った。そして10月にはオーストリアとカンポ・フォルミオ条約を結んだ。これによって第一次対仏大同盟は崩壊、フランスはイタリア北部に広大な領土を獲得して、いくつもの衛星国を建設し、膨大な戦利品を得た。このイタリア遠征をフランス革命戦争からナポレオン戦争への転換点とみる見方もある。フランスへの帰国途中、ナポレオンはラシュタット会議に儀礼的に参加。12月、パリへと帰還したフランスの英雄ナポレオンは熱狂的な歓迎をもって迎えられた。
『ピラミッドの戦い』を描いた絵画
オーストリアに対する陸での戦勝とは裏腹に、対仏大同盟の雄であり強力な海軍を有し制海権を握っているイギリスに対しては、フランスは決定的な打撃を与えられなかった。そこでナポレオンは、イギリスにとって最も重要な植民地であるインドとの連携を絶つことを企図し、英印交易の中継地点でありオスマン帝国の支配下にあったエジプトを押さえること(エジプト遠征)を総裁政府に進言し、これを認められた。
1798年7月、ナポレオン軍はエジプトに上陸し、ピラミッドの戦いで勝利してカイロに入城した。しかしその直後、アブキール湾の海戦でネルソン率いるイギリス艦隊にフランス艦隊が大敗し、ナポレオン軍はエジプトに孤立してしまった。12月にはイギリスの呼びかけにより再び対仏大同盟が結成され(第二次対仏大同盟)、フランス本国も危機に陥った。1799年にはオーストリアにイタリアを奪還され、フランスの民衆からは総裁政府を糾弾する声が高まっていた。これを知ったナポレオンは、自軍はエジプトに残したまま側近のみをつれ単身フランス本土へ舞い戻った。
フランスの民衆はナポレオンの到着を、歓喜をもって迎えた。11月、ナポレオンはブルジョワジーの意向をうけたエマニュエル=ジョゼフ・シエイエスらとブリュメールのクーデターを起こし、統領政府を樹立し自ら第一統領(第一執政)となり、実質的に独裁権を握った。もしこのクーデターが失敗すれば、ナポレオンはエジプトからの敵前逃亡罪及び国家反逆罪により処刑される可能性もあった。
統領ナポレオン
アントワーヌ=ジャン・グロ『第一統領ボナパルト』
統領政府の第一統領(第一執政)となり政権の座に就いたナポレオンであるが、内外に問題は山積していた。まずは第二次対仏大同盟に包囲されたフランスの窮状を打破することが急務であった。
まずイタリアの再獲得を目指し、当時イタリアへの進入路は、直接フランスからトリノに向かう峠道、地中海沿いリグーリア州の2つの有名な峠道、ジェノヴァ方面の4つが主なものであったが、これらはすでに1794年、1795年、1796年の戦役での侵攻作戦で使用していたため、ナポレオンはアルプス山脈をグラン・サン・ベルナール峠で越えて北イタリアに入る奇襲策をとった。これによって主導権を奪って優位に戦争を進めたが、緒戦の大勝の後、メラス将軍率いるオーストリア軍を一時見失って兵力を分割したことから、不意に大軍と遭遇して苦戦を強いられる。しかし別働隊が戻って来て、1800年6月14日のマレンゴの戦いにおいてオーストリア軍に劇的に勝利した。別働隊の指揮官でありナポレオンの友人であったドゼーはこの戦闘で亡くなった。12月には、ドイツ方面のホーエンリンデンの戦いでモロー将軍の率いるフランス軍がオーストリア軍に大勝した。翌年2月にオーストリアは和約に応じて(リュネヴィルの和約)、ライン川の左岸をフランスに割譲し、北イタリアなどをフランスの保護国とした。この和約をもって第二次対仏大同盟は崩壊し、フランスとなおも交戦するのはイギリスのみとなったが、イギリス国内の対仏強硬派の失脚や宗教・労働運動の問題、そしてナポレオン率いるフランスとしても国内統治の安定に力を注ぐ必要を感じていたことなどにより、1802年3月にはアミアンの和約で講和が成立した。
ナポレオンは内政面でも諸改革を行った。全国的な税制度、行政制度の整備を進めると同時に、革命期に壊滅的な打撃をうけた工業生産力の回復をはじめ産業全般の振興に力を注いだ。1800年にはフランス銀行を設立し通貨と経済の安定を図った。 1802年には有名なレジオンドヌール勲章を創設。さらには国内の法整備にも取り組み、1804年には「フランス民法典」、いわゆるナポレオン法典を公布した。これは各地に残っていた種々の慣習法、封建法を統一した初の本格的な民法典で、「万人の法の前の平等」「国家の世俗性」「信教の自由」「経済活動の自由」等の近代的な価値観を取り入れた画期的なものであった。 教育改革にも尽力し「公共教育法」を制定している。 また、交通網の整備を精力的に推進した。
フランス革命以後敵対関係にあったローマ教会との和解も目指したナポレオンは、1801年に教皇ピウス7世との間で政教条約を結び、国内の宗教対立を緩和した。また革命で亡命した貴族たちの帰国を許し、王党派やジャコバン派といった前歴を問わず軍や行政に登用し、政治的な和解を推進した。その一方で、体制を覆そうとする者には容赦せずに弾圧した。
ナポレオンが統領政府の第一統領となった時から彼を狙った暗殺未遂事件は激化し、1800年12月には王党派による爆弾テロも起きていた。そして、それらの事件の果てに起こった1804年3月のフランス王族アンギャン公ルイ・アントワーヌの処刑は、王を戴く欧州諸国の反ナポレオンの感情を呼び覚ますのに十分であった。ナポレオン陣営は相次ぐ暗殺未遂への対抗から独裁色を強め、帝制への道を突き進んで行くことになる。
さらにフランスの産業が復興し市場となる衛星国や保護国への支配と整備が進められる一方で、かねてより争いのあったイギリスもまた海外への市場の覇権争いから引くわけにはいかなかった。すでに1803年4月にはマルタ島の管理権をめぐってフランスとイギリスの関係は悪化しており、5月のロシア皇帝アレクサンドル1世による調停も失敗し、前年に締結したばかりのアミアンの和約はイギリスによって破棄され、英仏両国は講和からわずか1年で再び戦争状態に戻ろうとしていたのである。こうした国内・国外の情勢の中、ナポレオンは自らへの権力の集中によって事態をおしすすめることを選び、1802年8月2日には1791年憲法を改定して自らを終身統領(終身執政)と規定した。
皇帝ナポレオン
ダヴィッド『ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠』。皇后となるジョゼフィーヌにナポレオンが自ら冠を授けている。
1804年5月国会の議決と国民投票を経て世襲でナポレオンの子孫にその位を継がせるという皇帝の地位についた。皇帝の地位に就くにあたって国民投票を行ったことは、フランス革命で育まれつつあった民主主義を形式的にしても守ろうとしたものだったとする見方もある。ナポレオンは、1804年12月2日に即位式を行い、「フランス人民の皇帝」に就いた(フランス第一帝政)。英雄が独裁的統治者となったこの出来事は多方面にさまざまな衝撃を与えた。この戴冠式には、教皇ピウス7世も招かれていた。それまでオスマン帝国やロシアをのぞく欧州の皇帝は教皇から王冠を戴くのが儀礼として一般的な形であったが、ナポレオンは教皇の目の前で、自ら王冠をかぶった。政治の支配のもとに教会をおくという意志のあらわれであった。
ナポレオンは、閣僚や大臣に多くの政治家・官僚・学者などを登用し、自身が軍人であるほかには、国防大臣のみに軍人を用いた。