おはようございます。

 

今朝のばえないお弁当です。

 

これとおかかおにぎり🍙です。

 

 

 

 

今日は大好きな俳優、今は亡き、

リヴァー・フェニックス』について書かせていただきたいと思います。



端正なルックスや憂いを帯びた瞳にどこか寂しげな雰囲気を持つ俳優リヴァー・フェニックスは

デビュー当時、ジェームス・ディーンの再来と呼ばれていましたキラキラ

 

37年の時を経た今もなお、青春映画の金字塔として君臨しているスタンドバイミー(1986年)は

リヴァー・フェニックスの出世作でもあります。

 

もう、何回観たかわかりません💦泣き笑い

 

名作であり、大好きな映画で、私の父も好きな映画です✨おねがい

 

リヴァー・フェニックスは圧倒的な存在感を放っていましたキラキラ


それは演技力とはちがうなにか別のもの…。。

 

12歳の夏、4人の少年たちの冒険を描いた本作で、メインキャラクターの1人、クリス(クリストファー・チェンバーズ)を演じたのが当時15歳のリヴァー・フェニックス。

 

クリスは、家庭環境のために周囲からは不良として扱われていましたが、友達思いで聡明な少年で、ファンの間では愛されてきました。

 

クリスを中心とする4人の少年がある日、町外れに行方不明の死体があることを聞きつけ、死体を探し出そうと決死の冒険に出ます。











 


スタンドバイミーはアカデミー賞脚色賞にノミネートされたのですが、実は撮影前からどこのスタジオも

 

「ティーンの男の子たちだけの話には興味が無い。」


「ラブロマンスもなくて売れるわけがない。」


とそっぽを向かれていました。

 

プロデューサーのブルース・エヴァンスとロブ・ライナー監督によると、最後の頼みの綱として、制作段階で一度は断られたコロンビア・ピクチャーズに再度売り込みに行ったところ、新しくトップに就任したばかりのガイ・マッケルウェインが自宅で同社の役員やマーケティング部とともに上映会を実施。

 

その観客の中にいたマッケルウェインの二人の娘が劇中のリヴァー・フェニックスに恋をしたラブラブことで、配給が決まったそう❣️


恋しちゃうよね〜ラブわかるわかる💕❗️❗️

 

この名作はリヴァーがいなかったら世に出ることが無かった可能性もあったのです。

 

 

リヴァー・フェニックスは本名リヴァー・ジュード・ボトムという名前で、1970年8月23日にオレゴン州で生まれました。

 

両親は当時、極貧のヒッピーでコミューンを転々としていました。

 

しかしリヴァーが2歳の時に両親はカルト宗教団体に入信。

 

リヴァーが8歳の時、家族で教団から抜け出したものの、滞在先の南米ベネズエラからアメリカに帰国した一家に生活のあてはなく、リヴァーは2歳下の妹レインとともにギターを弾きながら刑務所や路上でパフォーマンスを行い、4歳下の弟ホアキン(映画ジョーカーで主演を演じた、ハリウッドきっての個性派・実力派俳優)や生まれて間もない他の妹を含む一家を養うための生活費を稼いでいました。

 

それ以前にも彼は幼児の頃からりんご収穫でアルバイトをして家計を支えていたという、本当に苦労人です😢




左側リヴァーと家族。⬆︎⬆︎⬆︎

リヴァーは長男で下に4人の弟、妹がいる。

 



リヴァーと弟のホアキン。⬆︎⬆︎⬆︎



住まいも転々としていたため、リヴァーは初等教育を受けさせてもらえず、後に脚本家やエージェントの証言したところによると、リヴァーは読み書きは出来たが、読解力がなく、歴史や文学といった基本的な知識がまるで無かったそうです。

 

母親の強い思いでハリウッドに渡り、そこで一家は人生を再生する意味を込めて不死鳥の

フェニックス」と改名しました。

 

その後、母親がテレビ局に就職した関係で、リヴァー、10歳にして初めてテレビに出演。広告やテレビシリーズの仕事を経て、1986年に映画

「スタンドバイミー」の出演で注目を集めます流れ星

 

その後は「モスキート・コースト」でスター俳優ハリソン・フォードと親子役で共演し話題に。

 

「インディ・ジョーンズ」などのメジャー大作などで頭角を表しながら、インディペンデント映画(独立系エンターテインメント企業によって映画製作・配給される長編映画または短編映画のことを指す。基本的に大手映画スタジオのシステムのもとで製作されることはない。)の出演にも意欲的だったようです。

 

「旅立ちの時」ではアカデミー賞の助演男優賞にノミネートされ、「マイ・プライベート・アイダホ」では、ベネチア国際映画祭の男優賞を受賞✨







マイ・プライベート・アイダホで共演したリヴァーとキアヌ。⬆︎⬆︎⬆︎




 


どこか儚げな存在感と確かな演技力で、多くの監督、共演者、そして観客を魅了してきました

 

 

そして、リヴァーの親友として知られているのがキアヌ・リーブスです。

 

2人は「殺したいほどアイ・ラブ・ユー」で共演し、その後「マイ・プライベート・アイダホ」では、ストリートで生きる男娼の主人公を演じました。

 

「マイ・プライベート・アイダホ」は最高にカッコいいリヴァー・フェニックスとキアヌ・リーブスが共演してる奇跡のような作品ですラブラブ

(*≧∀≦*)

 

オープニングシーンもアイダホの牧歌的な風景と音楽が溶け合って、とても美しい映像なんです花☺️

 

リヴァーとキアヌはともに音楽好きでもあり、

俳優だけでなく、音楽活動にも熱心で、意気投合したといいます。

 

2019年、リヴァーの妹が彼に捧げるアルバムをリリースした際には、キアヌは


リヴァーと出会ったことは運命だった。一人の人間としても、表現者としても。並外れて美しい魂で、光だった。


とコメントしました。

 

1980年〜1990年代にかけてハリウッドで一時代を築いた俳優やアーティストとも親交が深く、俳優としても人気絶頂期にあったリヴァー。

 

悲劇が起きたのは、1993年10月のことでした。当時、ジョニー・デップが経営に関わっていたロサンゼルスの有名ナイトクラブ「ザ・ヴァイパー・ルーム」で薬物の過剰摂取により倒れてしまったのです。




ナイトクラブ、ザ・ヴァイパー・ルーム⬆︎⬆︎⬆︎

 


その場に一緒に居たという19歳の弟、ホアキンは必死に救急車を呼んだと報じられました。

 

リヴァーは病院に運び込まれましたが、

1993年10月31日に息を引き取りました。

 

人気スターの急逝に報道も過熱し、様々な憶測が飛び交っていたと言われています。

 

彼の死は世界中に大きな衝撃を与えることになりました。

 

リヴァーは亡くなった同年、当時の恋人に

「あと1作映画に出れば、一番下の妹の大学費用が捻出できるんだ。」と語っていたといいます。

 

ホアキンは兄リヴァーの死後、俳優業を休業していた時期がありました。


もともとプライベートについてあまり明かさないホアキンは、リヴァーについて言及することもほとんどありませんでした。

 

復帰してからは「グラディエーター」、

「ウォーク・ザ・ライン/君につづく道」、

「her/世界でひとつの彼女」など話題作に出演し、役者としての評価を高めていったホアキン。

 

2019年、主演作「ジョーカー」が世界の様々な映画賞を受賞し、アカデミー賞では主演男優賞に輝きました流れ星

 

ホアキンは過去にインタビューでこう語っています。




ホアキン・フェニックス⬆︎⬆︎⬆︎

 


「自分が作っているすべての映画で、兄リヴァーとどこかで繋がっているように感じている。」

 

「私たち家族は全員、人生の中で様々な形で彼の存在を感じ、そして彼が導いてくれていると感じています。」

 

また2019年にはホアキンは映画で共演した女優と婚約。

 

そして翌年生まれた子どもに『リヴァー』という名前をつけました花

 

亡くなってからも、伝説の存在として語り継がれている俳優リヴァー・フェニックス。

 

事故の現場になったナイトクラブには、今でも命日などにリヴァーを偲ぶファンたちが、お花や

ろうそく、手紙などを手向けに現れているそうです。

 

わずか23歳という若さでこの世を去った伝説の俳優リヴァー・フェニックス。


役者としてのキャリアは9年足らず。


遺した作品は15本に満たない。


ですが、彼がスクリーンに焼き付けた美しさと才能は今も色褪せることはありません。


もっと彼を観たかったです。。

 

若き日のリヴァーの姿を嚙み締めつつ、これからもずっと胸に刻み込んでおきたいと思います✨😌











 


最後まで読んでいただき、ありがとうございましたお願いお願いお願い






 

 

















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