昔の同僚から、台湾のある大学教授が書いた、
【母の日】にちなんだエピソードが転送されてきました。
まったく賛成というわけではありませんが、
面白い話だと思ったので、論文を書く合間に、
脳のマッサージとして日本語に訳してみました。
訳してみて色々と気付かされることが多かったので楽しかったです。
中国語の原文を読みたい方はURLからどうぞ。
なお、( )内はすべてhtpによるものです。
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『愛は動詞です』
(台湾)屏東大仁科技大學 許修齊教授
原文:愛是動詞(繁体字中国語Big5)↓
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《僕人》 *1) という本の中に、「愛は動詞です」という標題があります。愛は動詞って?
本には、「愛は動詞である。形容詞でもなく、名詞でもない。愛とは、やるべきことを行動に移すことである。」と書いてありました。
正直に言うと、私には分かりませんでした。94年(2005年)の冬休みに、福智文教基金會が開催した「全国教師成長営(研修会のようなイベント)」に参加したとき、たくさんの大学生が、私たちの食事の世話をしてくれているのを目にして、一瞬、「愛は動詞だ」という考えが頭によぎりました。この若者たちが細々と私たちのために働いている姿を見て、彼らはいま何を考えているんだろう?と思いました。もしも何か1つの言葉でそれを表すなら、私にはなぜか「愛」としか思いつきませんでした。そのとき私は、初めてなんとなく「愛は動詞だ」という言葉の意味を理解しました。
小さい頃から、私は自分の感情をうまく表現できるようなタイプではありませんでした。六泊七日の研修会では、様々なイベントやレッスンが私に感動を与えてくれました。心に秘めた感情が呼び覚まされ、私は、自分にはどのような行動で愛を伝えることができるのだろうかと考え始めました。帰宅が遅くなったら、待ってくれている親に広東粥を買って帰ることで、申し訳なさを表す。深夜には、子供の連絡帳にもっと丁寧に書き込むことで、期待を表す。朝には、いつもより5分ほど早起きし、ベランダにある妻の花に水をやることで、妻を楽にしてあげるとか。
これくらいでしょうね、私にできることは。これ以上の言葉は、私には言えませんし、これ以上のことも、私にはできないでしょう。自分の仕事だけでも充分疲れるのです。
母の日が近付く頃、クラスの学生たちに、母親の苦労を考え、家に帰ったら何か母親のためのことをするように要求しました。学生たちは「えー、何をしたらいいか分かりませんよ」とか、「うちの母ちゃんは勉強さえしてくれればいいって」とか、「母には怒らせたりさえしなければ親孝行だって言われてます」とかぶつぶつ言い始めました。すると、ある学生に「先生は?先生はお母様のために何をするんですか?」と聞かれました。私ははっとしました。そうか。私は?お母さんのために何ができるんだろうか。食事に連れていく?お小遣い?花束?お母さんの面倒はちゃんと見ているつもりなので、もう何も要らないんじゃないかな。。。
よし、学生に行動を引き起こすために、彼らの鏡として、私が率先してお手本を見せようじゃないか。「先生は、母の日に、お母さんに足を洗ってあげます。」言い出すと、学生の間は騒ぎ始めました。
「先生にやれるものでしたら、私にもできます。」と。
私は、おお、やってみせるとも、ちょろいもんさと思いました。
ところが、母の日が近付いてくるのにつれて、私はだんだんプレッシャーを感じてきました。母の白髪混じりの頭や少し猫背の後姿を見て、母にまとわりついて離れようとしない、子供の頃の自分を思い出しました。四十にもなったいま、「母の日に足を洗わせてくれ」と、私はどうして言えるんだろうか。
とうとうその日がやってきました。私は、逃げたくて逃げたくて仕方ありませんでした。自分のような男が、こんな照れくさいことをするなんて、想像するだけで鳥肌が立ちそうです。しかし、多くの学生たちから、励ましのメールが届きましたし、妻にも「正当なことだから、何でためらうの?」と言われました。夕食後、私はつい母に言いました。「母の日のお祝いに、今日は足を洗ってあげるね。」母がずいぶん戸惑っているようで、気まずそうに、しつこく「どうして?どういうこと?」と連発。「大学の行事なんだから、もうあれこれ聞かないでくれ。」と答えました。仕事の話となると、母はいつも全力で支えてくれているので、大学の行事だと聞くと、それきり口をつぐんで、素直に腰を下ろし、足を出してきてくれました。そうしながら、横にいる妻に「大学ってなんでこんな変わった行事があるんだろうね?」と呟きました。
母の小さくて、しわだらけの足に触れ、石鹸をつけ始めると、私の涙がぽろぽろと落ちていきました。
昔のことを、色々と頭に浮かんできました。小さい頃、母にシャンプーしてもらうときに、目に沁みて大泣きした自分。大学のとき事故に遭い、大腿骨を折って、病院で母に体を拭いてもらうとき、痛がる私を見て、ひどく動揺した母のまなざし。
三人の子供は横で「見学」していて、「もっと優しくしなくちゃ」とケチをつけてきたり、「手伝おうか」とはしゃいだりするので、妻は「見学は1メートル以外で。」と騒ぎを鎮めてくれました。その間、私はずっと黙っていました。涙が止まらなかったのです。
両足を洗い終え、水気を拭いて、乳液をつけると、仕事は一通り終わりました。しかし私には立つことができませんでした。妻が母をソファから連れ去ると、子供たちもわいわいとついていき、その隙に私はようやく立ち上がって、お湯を捨てるふりして風呂場へと急ぎました。鏡に自分の顔が映っています。大人になってから、こんなふうに泣いたことがなかったのに、今日はどうしたんだろうね。
翌日、足を洗っているところの写真をネットに載せました。すると学生たちから、いっぱいメールが入ってきました。「先生の勝ちね」とか、「先生がやったから、私もやろうかな」とか。徐々に、クラスのページに、学生たちが自分の母親に足を洗う写真がアップされて、みんな笑いながらお互いエピソードをシェアしました。
「うちのおかん、それはもう感動したよ。『大仁(大学名)はよくもわが子に私の足を洗わせてくれたな。無駄に授業料払ってないわ。』って」
「うちの親父めちゃめちゃ泣いたぞ。ばあちゃんもう亡くなっちゃってるから。」
「先生、勇気あるね」という学生もいました。私はただ微笑んだだけです。若い母親が、自分の子供の足を洗っているのを見て、「勇気あるね」と褒める人はたぶんいないでしょう。なのに、四十の男が母親の足を洗うと、「勇気ある」と褒められます。一体、われわれの暮らしの中で、感情の伝達上、そしてみんなの心の中に、何が起こったのでしょうか。
私には大した知恵を持っていません。人と人の間に、どうしてこんなにも難しい「愛」の伝え方をしているのか、私には分かりません。でも、1つだけ、少し分かってきたような気がします。それは、「愛」は、やるべきことを行動に移すことだ *2) 、ということです。いまそれを始めたばかりの私ですが、この愛の伝達は、代々続いていけるように願っています。
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*注:
1) 《僕人》:書名。servantの訳で、「使用人」という意味です。"The Servant: A Simple Story About the True Essence of Leadership" by James C. Hunter
2) 【「愛」は、やるべきことを行動に移すことだ】という訳ですが、原文は「愛就是把正確的事情做出來。」とあって、「正確」ということばが使われていますが、相当悩んだ結果、いまの訳にしました。「正確」とか「正しい」とか、そういうことばを使うのに、やはり抵抗があるからです。もっと、うまく訳せたらいいんですが。
htpの感想:
<その1>翻訳ってやっぱり難しい・・・(涙)
でも博論はもっと難しい・・・
<その2>私は、この教授の奥さんが好きです。^^