群馬県民に、群馬の有名人って誰かと聞いてみてください。10人に2人(少ない(^-^;))は「国定忠治」!って言います!
なんとなく聞いたことないですか?一昔前は演劇の題材にとりあげられていた任侠人で、シニア層には有名な人です。
「赤城の子守歌」や、三度笠をかぶった任侠人が、刀と月に向かって「赤城の山も今宵限り」としゃべっている絵を見たことありませんか?その人です!
とは言っても、群馬出身の僕でさえこの程度しかしらないので色々調べてみました。以下概要です。
国定忠治
江戸の末期、天保時代のアウトロー。若くして群馬の一部の親分になる。天保の大飢饉の際、賭場で儲けたお金で民衆に施しを与え、餓死者をださなかった。他組織との争いで関東取締役(警察)に目をつけられたので赤城山に逃げるが、そこに居座っていた山賊たちをてなずけて治安を良くする。その頃には全国的に大親分として認知される。その後仇討ちのために二回関所破りを実施。当時は関所破りは大罪であったため、関東取締役から再度取締り。捕まった仲間を奪回しようとするが失敗。その後、放浪の旅にでるが(各地で民衆を助ける)、戻った群馬で信じていた仲間に裏切られたため泣く泣く殺害(赤城の子守歌)。再度、関東取締役が取締り。仲間とも別れ逃亡(赤城の山も今宵限り)。仲間がどんどん死んでいくなか、最後は捕まって磔となった。
民衆に人気が本当にあったのかは何とも言えませんが、天保の大飢饉で民衆を救った記録はあるそうです。
また、任侠人になろうとする人で向かない(ならない方がよい)人は追い返すなど、その辺の常識も兼ね備えていたようです。
身長はなかったそうですが、ガッチリした体格で細くてつりあがった目、長い眉毛が周りを威圧していたようで、そういうところも人気に輪をかけたようです。
国定忠治は群馬の名産、忠治漬け(わさび漬け)や旅がらす(鉱泉せんべい)の包み紙なんかにも描かれていますので、機会があったら是非購入してみてください(^ー^)
なんとなく聞いたことないですか?一昔前は演劇の題材にとりあげられていた任侠人で、シニア層には有名な人です。
「赤城の子守歌」や、三度笠をかぶった任侠人が、刀と月に向かって「赤城の山も今宵限り」としゃべっている絵を見たことありませんか?その人です!
とは言っても、群馬出身の僕でさえこの程度しかしらないので色々調べてみました。以下概要です。
国定忠治
江戸の末期、天保時代のアウトロー。若くして群馬の一部の親分になる。天保の大飢饉の際、賭場で儲けたお金で民衆に施しを与え、餓死者をださなかった。他組織との争いで関東取締役(警察)に目をつけられたので赤城山に逃げるが、そこに居座っていた山賊たちをてなずけて治安を良くする。その頃には全国的に大親分として認知される。その後仇討ちのために二回関所破りを実施。当時は関所破りは大罪であったため、関東取締役から再度取締り。捕まった仲間を奪回しようとするが失敗。その後、放浪の旅にでるが(各地で民衆を助ける)、戻った群馬で信じていた仲間に裏切られたため泣く泣く殺害(赤城の子守歌)。再度、関東取締役が取締り。仲間とも別れ逃亡(赤城の山も今宵限り)。仲間がどんどん死んでいくなか、最後は捕まって磔となった。
民衆に人気が本当にあったのかは何とも言えませんが、天保の大飢饉で民衆を救った記録はあるそうです。
また、任侠人になろうとする人で向かない(ならない方がよい)人は追い返すなど、その辺の常識も兼ね備えていたようです。
身長はなかったそうですが、ガッチリした体格で細くてつりあがった目、長い眉毛が周りを威圧していたようで、そういうところも人気に輪をかけたようです。
国定忠治は群馬の名産、忠治漬け(わさび漬け)や旅がらす(鉱泉せんべい)の包み紙なんかにも描かれていますので、機会があったら是非購入してみてください(^ー^)