日本ではディズニープラスで放映されている『SHOGUN(将軍)』は世界中で大絶賛となっているが、その作中で当時のキリスト教(カトリック)の、現代では考えられない実態に、キリスト教信者の多いアメリカとヨーロッパの視聴者は信じられないと驚き、困惑している欧米人も少なくなく、このドラマ内で描かれた実態も大きな反響を呼ぶこととなっている。今回はその当時のカトリックの実態の『一部の記述』について取り上げる。


勿論、現代のカトリックは『当時とは違う』ということは、ここに記しておく。


 🔵奴隷というものの始まりと現実


当時の宗教観では『奴隷の存在は当然のこと』としていた。



太古より『奴隷』は存在していた。奴隷は集団と集団の対立と戦争によって生じる『戦利品』である。戦勝した集団が敗戦した集団を『好きなように扱う』は当時は当然の権利である。


が、これには問題がある。やはり相手は同じ人間なのだ。となると、『相手を支配するための当然の理由』が必要になる。ここで『奴らは劣等である』『蛮族である』などの『差別するのが正当である理由』が生み出される。その正当な理由の中に『信じるもの』つまり『信教するものが違うからという理由』も当然加わるのだ。我が信じる宗教と違うモノを信じている者、我が宗教に帰依しない者は人間ではない。だから好きに使役しても良いし、何なら『食っても良い』となる。


(支配する者も使役される奴隷も人間である。つまり奴隷を使役する為には奴隷を生かす為に自分の懐から食料を提供せねばならない。(彼らはそこらの草を食わせておけば満足する牛ではない。支配者が食うものと同じ物を食べねば死ぬ生き物だ。)


この『奴隷を扶養する能力』は太古の部族社会だと非常に脆弱になるから使役すらも難しい局面の方が多い。となると『奴隷を食う』も選択肢としてあったと考えるは妥当だろう。



国としての社会が奴隷を囲い、使役出来るほどの体力を持つと『食うの選択肢』は自ずと減るのだが、その後の奴隷に対する考えは調べる限り、15世紀のヨーロッパ・イスラム世界では『(奴隷という存在は)至極当然、当たり前のこと』であった。キリスト教の国と異教徒の国が戦い、勝敗が付けば、キリスト教を信ずる国の論理だと、負けた宗教の側の者は捕らえ、奴隷にし、売買する。キリスト教圏では『異教徒の人間は劣る・家畜のいる領域に位置するもの』で、それは当然として扱われた。この考えが同じ時代の『異教徒(仏教・神道を信じる)』日本人にも適用される。 


こうした時代背景のもと『西欧人が行った日本人奴隷の歴史』は始まる。



 🔵日本人奴隷に関し、よく引用される『日本使節の見聞対話録』と『デ・サンデ天正遣欧使節記(日本語訳)』





 大航海時代に世界に散在したと言われる日本人奴隷に関し、その惨状を語るとしてよく引用される書物がある。1590年マカオで印刷、刊行された『日本使節の見聞対話録(ラテン語)』と、その日本語訳の『デ・サンデ天正遣欧使節記(新異国叢書-雄松堂)』として出版されている。 


 その書物が書かれた経緯については、以下のような解説がされている。 


 🔵「日本使節の見聞対話録」が書かれた経緯 


 1582年

遣欧使節派遣を企画・断行し少年たちを引率したイエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノは、往路インドにおいてローマ本部からの指示によって少年たちと離れ、その地に留まってインド管区長の職に就いた。そして、5年後の1587年5月ヨーロッパから戻って来た少年使節たちとインドのゴアで再会。その翌年1588年8月マカオに到着している。その際、一行から見聞や体験を聴取し、旅先での記録として整理しマカオ滞在中に編纂して、同じイエズス会の司祭ドゥアルテ・デ・サンデにラテン語で書かせた。それが、「日本使節の見聞対話録」であり、その内容は、千々石ミゲルが二人の従兄弟(いとこ)リノ(大村喜前の弟)、レオ(有馬晴信の弟)を相手に帰国後に旅先での見聞を語る「対話録」の形式で書かれている。



 🔵「対話録」の虚構性 


 この「対話録」は上述の通り、日本にいたはずの従兄弟たちとまだ帰国前の千々石ミゲルがあたかも面談し語り合っているかのように書かれているという点で既に虚構(フィクション)である。従って、そこに書かれてある事柄もそのまま歴史的事実と考え論ずることは出来ないものだが、日本人奴隷の実態と、当時のカトリック側の『抗弁(理屈)』がよく現れている。




 🔵『見聞対話録」(ラテン語)』・『遣欧使節記」(日本語訳)』の抜粋とは言え、「対話録」・「使節記」にどのようなことが書かれているかを先ず確かめて頂くことが肝要だと思うので、「使節記」のうちの日本人奴隷に関する記述(232~235ページ)を抜粋




 レオ ちょうどよい機会だからお尋ねするが、捕虜または降参者はどういう目に遭わされるのだろう。わが日本で通例やるように死刑か、それとも長の苦役か。


 ミゲル キリスト教徒間の戦争で捕虜となったり、やむをえず降伏する者は、そういう羽目のいずれにも陥ることはない。つまり、すべてこれらの者は先方にも捕虜があればそれと交換されるとか、また釈放されるとか、あるいはなにがしの金額を支払っておのが身を受け戻すのだ。というのも、ヨ-ロッパ人の間では、古い慣習が法律的効力を有するように決められ、それによってキリスト教徒は戦争中に捕われの身となっても賤役を強いられない規定になっているからだ。だがマホメット教徒、すなわちサラセン人に属する者に対しては、別の処置が取られる。これらの者は野蛮人でキリストの御名の敵だから、交戦後も捕えられたまま、いつまでも賤役に従うのである。 


 レオ そうすると、キリスト教徒なら、その教徒間では戦争中に捕虜となっても、賤役に従えという法律に拘束される者は一人もいないわけだな。 



ミゲル そうしたことで市民権を失った者はただの一人もない。それはまた今もいったように、古来の確定した習慣で固くまもられている。それどころか、日本人には慾心と金銭への執着がはなはなだしく、そのためたがいに身を売るようなことをして、日本の名にきわめて醜い汚れをかぶせているのを、ポルトガル人やヨ-ロッパ人はみな、不思議に思っているのである。そのうえ、われわれとしてもこのたびの旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、道義をいっさい忘れて、血と言語を同じうする同国人をさながら家畜か駄獣かのように、こんな安い値で手放すわが民族への義憤の激しい怒りに燃え立たざるを得なかった。 


マンショ ミゲルよ、わが民族についてその慨きをなさるのはしごく当然だ。かの人たちはほかのことでは文明と人道とをなかなか重んずるのだが、どうもこのことにかけては人道なり、高尚な教養なりを一向に顧みないようだ。そしてほとんど世界中におのれの欲心の深さを宣伝しているようなものだ。



マルチノ まったくだ。実際わが民族中のあれほど多数の男女やら、童男・童女が、世界中の、あれほどさまざまな地域へあんな安い値で攫(さら)って行かれて売り捌かれ、みじめな賎役に身を屈しているのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか。単にポルトガル人に売られるだけではない。それだけならまだしも我慢ができる。というのはポルトガルの国民は奴隷に対して慈悲深くもあり親切でもあって、彼らにキリスト教の教条を教え込んでもくれるからだ。しかし日本人が贋の宗教を奉ずる劣等な諸民族がいる諸方の国に散らばって行って、そこで野蛮な、色の黒い人間の間で悲惨な奴隷の境涯を忍ぶのはもとより、虚偽の迷妄をも吹き込まれるのを誰が平気で忍び得ようか。



レオ いかにも仰せのとおりだ。実際、日本では日本人を売るというのような習慣をわれわれは常に背徳的な行為として非難していたのだが、しかし人によってはこの罪の責任を全部、ポルトガル人や会のパドレ(宣教師)方へ負わせ、これらの人々のうち、ポルトガル人は日本人を慾張って買うのだし、他方、パドレたちはこうした買入れを自己の権威でやめさせようともしないのだといっている。



ミゲル いや、この点でポルトガル人にはいささかの罪もない。何といっても商人のことだから、たとえ利益を見込んで日本人を買い取り、その後、インドやその他の土地で彼らを売って金儲けをするからとて、彼らを責めるのは当たらない。とすれば、罪はすべて日本人にあるわけで、当たり前なら大切にして慈しんでやらなければならない実の子を、わずかばかりの代価と引き替えに、母の懐から引き離されていくのを、あれほどこともなげに見ていられる人が悪い。また会のパドレ方についてだが、あの方々がこういう売買に対して本心からどれほど反対していられるかをあなた方にも知っていただくためには、この方々が百方苦心して、ポルトガル王から勅令をいただかれる運びになったが、それによれば日本に渡来する商人が日本人を奴隷として買うことを厳罰をもって禁じてあることを知ってもらいたい。しかしこのお布令ばかり厳重だからとて何になろう。日本人はいたって強慾であって兄弟、縁者、朋友、あるいはまたその他の者たちをも暴力や詭計を用いてかどわかし、こっそりと人目を忍んでポルトガル人の船へ連れ込み、ポルトガル人を哀願なり、値段の安いことで奴隷の買入れに誘うのだ。ポルトガル人は、これをもっけの幸いな口実として、法律を破る罪を知りながら、自分たちには一種の暴力が日本人の執拗な嘆願によって加えられたのだと主張して、自分の犯した罪を隠すのである。だがポルトガル人は日本人を悪くは扱っていない。というのは、これらの売られた者たちはキリスト教の教義を教えられるばかりか、ポルトガルではさながら自由人のような待遇を受けてねんごろしごくに扱われ、そして数年もすれば自由の身となって解放されるからである。さればといって、日本人がこうい賎役に陥るきっかけをみずからつくることによってこうむる汚点は、拭われるものではない。したがってこの罪の犯人は誰かれの容赦なく、日本において厳重に罰せられてよいわけだ。



レオ 全日本の覇者なる関白殿が裁可された法律がほかにもいろいろある中に、日本人を売ることを禁ずる法律は決してつまらぬものではない。



ミゲル そうだ。その法律はもしその遵守に当たる下役人がその励行に目を閉じたり、売り手を無刑のまま放免したりしなかったら、しごく結構なものだが。だから必要なことは、一方では役人自身が法律を峻厳に励行するように心掛け、他方では権家なり、また船が入ってくる港々の寵なりがそれを監視し、きわめて厳重な刑を課して違反者を取り締ることだ。



レオ それが日本にとって特に有益で必要なこととして、あなた方から権家や領主方にお勧めになるとよい。



ミゲル われわれとしては勧めもし諭しもすることに心掛けねばなるまい。しかし私は心配するのだが、わが国では公益を重んずることよりも、私利を望む心の方が強いのではなかろうか。実際ヨ-ロッパ人には常にこの殊勝な心掛けがあるものだから、こうした悪習が自国内に入ることを断じて許さない。



🔵「対話録」の内容とその背景


①1570年、

ポルトガル国王は日本人奴隷取引禁止の勅令を布告している。これは 1567年以前に平戸・横瀬浦・福田経由日本人が輸出されていたことに対し、「布教に支障をきたす」としてイエズス会がポルトガル国王へ働きかけたことによるものと考えられている。ところが、その勅令はその後実施・履行されなかった。その理由のひとつとしては、イエズス会の考え方が、自己の布教事業に不都合であるというだけで、奴隷売買自体が社会倫理に反するという強固なものでなかったことがあげられている。さらに、それだけでなくイエズス会士自身が奴隷貿易に関与していたことも指摘されている。



こんな抗弁や言い方が400年前からあったということも興味深い。



②イエズス会の屁理屈

秀吉は日本の中央政権として初めて正式なキリシタン禁令を発布するが、その直前にイエズス会日本準管区長ガスパル・コエリョのもとに使者を送り詰問を突き付けた。その中に「何故にポルトガル人は多数の日本人を買い、奴隷としてその国に連れ行くか。」という内容が含まれていた。これに対するコエリョの回答は、「日本側の諸領主に対し禁止を勧告すべし。」というものだった。つまり、「奴隷を売る者(日本人)がいるから買う者(ポルトガル人)も出て来るのだから、日本の当局が奴隷を売ることを禁止すればよい。」とコエリョは秀吉に反論したことになる。「対話録」でのミゲルの発言は、そのコエリョの回答をそのままなぞっている。



③『キリシタン禁令』について

上記の「キリシタン禁令」の条令文としては、天正15年6月18日付け「覚」と翌日6月19日付け「定」と呼ばれる二通りの内容のものが残されており、その内容はかなり異なるがどちらも正文であると認められている。「覚」には、日本人を海外に売却することを咎め日本人奴隷の売買を禁止する条項があり、「定」には、宣教師に20日間以内に国外退去を求める条項がある。1588年6月、アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノと少年使節たちはマカオに到着し、前年7月の秀吉による「キリシタン禁令」発布を知らされる。その時点からマカオを出発する1590年5月までの約2年間、ヴァリニャ-ノは少年使節たちと自身の日本への再入国を安全に果たすとともに、危機に瀕しているキリシタン勢力を挽回するための方策を必死で探ることを余儀なくされる。特に、「キリシタン禁令」に示された「日本人奴隷売買問題」と「宣教師国外退去要求」はヴァリニャ-ノに重くのしかかったことだろう。当然、「対話録」の内容にはそれが色濃く反映されたはずである。


1590年7月、

ヴァリニャ-ノは少年使節たちと共に長崎に帰着し、翌年3月ポルトガル国インド副王使節として京都聚楽第において関白秀吉に謁見する。




🔵「対話」の内容について思うこと


1️⃣ヨーロッパ社会を理想的なものとし、日本人の考え方や行動を恥ずべきものとする発言は、現在でも時々出くわす日本社会や日本人を日本人自身が卑下する意見に似ていて面白い。また、そういう考え方、 こんな抗弁や言い方が400年前からあったということも興味深い。


 (社会・共産主義に狂信し、己の信ずる共産主義に異を唱える者、己の考えに従わぬ者をあからさまに卑下・差別し、その者達に鉄槌を下すためなら何でもする反日な現在の日本人共産主義(左翼)にもこれと酷似した傾向があるのを私は知っている。)


その時代の宣教師たちは、日本人が日本人の国民性とでも呼ぶべきものに引け目を感じて、自分たちにとって都合の良い考え方になびいてくれることを望んでいたということだろうか。その他の「対話」の内容も、そもそもこの「対話録」が当時のイエズス会の立場を擁護し弁明するために書かれたものである以上、その意図を臆面もなく表しただけのことであり、彼ら側の勝手な一方的見解と言わざるを得ない。



2️⃣ただ、ヴァリニャ-ノが「日本人奴隷売買問題」について、イエズス会主導のキリシタン教会にとって有利な理解を日本人信徒たちから得ようとしたことは当然ではあっても、日本人信徒も甘く見られたものだと思うと気分は良くない。当時は日本人信徒が内外の情勢を知る機会は極端に乏しかっただろうと考えると、なおさら彼らが哀れである。


これは現在の日本だとアイヌ問題に似ている。

アイヌ問題はアイヌの方々が悪いのではなく、『悪い考えを持つアイヌ』が集まった協会とそれを取り巻く同和団体、擁護派、特に日本の左翼が悪い。このアイヌ問題の事の起こりは勝手な見解で日本の左翼らが定めた『日本にいる奴隷(主にアイヌ・沖縄)』を被差別階級とし、彼らを日本転覆とそして新たな各々の民族国家独立の戦士として尖兵として立ち上がらせるのだ。……という『左翼の欲望(我が国家を作りたい)』から、生まれたものだ。左翼が定めた彼ら(アイヌ・沖縄人)は左翼勢力の『死ぬも含まれる尖兵』にしようと画策していたし、今も彼らを利用しようと、左翼と今度は権利・権力を欲する一部のアイヌ自身が、アイヌを利用しようとしている。



3️⃣それにしても、「対話」において世界各地での日本人奴隷の悲惨な状況を印象付けるような発言をここまでさせている点は意外であった。と言っても、常に権謀術数に満ちていたであろうヴァリニャ-ノの言動を考えれば、彼が日本人奴隷の真実の姿を伝えようとしたなどと考える訳にはいかないことは言うまでもない。それでは、何のためにこのような悲惨さを強調するような発言がされたように書かせたのか。



自分は、そういう表現を選んだというより、こう書かざるを得ないとヴァリニャ-ノに判断させるような状況になってしまっていたのだろう。それくらい、相当数の日本人奴隷が世界中に拡散してしまい、彼らの境遇が悲惨を極めていることが既に世界中に知れており、日本人に対しても隠しようがないと考えたのではなかろうか。



4️⃣日本人奴隷拡散の規模とその境遇の悲惨さを日本人が知るための客観的な資料は、その時代はもちろん、つい最近までほとんど無かった。難しいのはその数…当時の日本人奴隷の実態の数なのだが、一説には推定約5万人の日本人奴隷が、ポルトガルとの関わりで発生したともいう。 


実態の詳細を知るのは非常に困難で、分析は不可能と考える者もいる。 というのも日本人奴隷達は奴隷にされるとすぐに、日本名を捨てさせられ、洗礼名…つまり『ポルトガル語の名前』に変えられ、その名前で世界中に売買させられているからだ。これでは名前で何人の誰で、どこまで売り飛ばされ流されて行ったのか、初手から追跡が難しくなるからだ。



「対話録」を読んで、恐らく当時、日本人奴隷拡散の規模・程度が世界的に周知の事実となっていて、もはやこれを日本人に対して隠し通すことは不可能と感じたキリシタン教会側はそれを認めた上で『我々は関係がない』という組織の防衛の為の反論を秀吉ー豊臣政権に対してこしらえたのであろうと判じている。



🔵日本人性奴隷に関する事とカトリック宣教師の見解 


 中国・日本で数多くの淫行を行ったポルトガル商人 1538年のこと、ポルトガル船がマカオを出発しインドへ向かったが、マラッカに近いジョホール沖で座礁した。

この報告を耳にした宣教師のコウトは、ポルトガル商人が日本や中国で行った放逸(=淫ら)な行為に原因があると考え、それゆえに神罰が下ったと手厳しく評価した。ポルトガル商人が行った「放逸な行為」は、次のように記述されている



(岡本良知『改訂増補 十六世紀日欧交通史の研究』引用史料より)。 ⇩


『神はポルトガル商人らが神を恐れることなく、色白く美しき捕らわれの少女らを伴い、多年その妻のように船室で妾(めかけ)として同棲した破廉恥な行為を罰したのである。
この明らかな大罪は、神からも明白に大罰を加えられたのであった。それゆえ、彼らに神の厳しい力を恐れさせるため、中国・日本の航海中に多数の物資を積載した船を失わせ、もってこれを知らしめようとしたのだ。

また、中国・日本方面では、ほかの国々よりもポルトガル人の淫靡(いんび)な行為がはるかに多いので、神はそこに数度の台風によりそれらの者を威嚇・懲罰し、その恐ろしい悪天候により怒りを十分に示そうとしたことは疑いない。』 


 ポルトガル商人は少女を捕らえて妾とし、船室で「破廉恥な行為」に及んだ。「破廉恥な行為」とは何かついては、もはや言うまでもない。ポルトガル商人は神をも恐れぬ行為に及んだので、神から天罰を下されたのである。

天罰とは、船を座礁させることにより、船舶に積んだ貴重な品々を無駄にするというものだった。しかもポルトガル商人は、ほかの国々の人々よりも、中国・日本で数多くの淫行に及んだという。

ポルトガル商人が破廉恥な行為に及んだ原因の一つには、その大半が独身者であったという指摘がある。ただ、仮に妻帯者であっても、妻を同伴して航海することは不可能に違いない。彼らは寄港地で女性奴隷を買い、己の性的な欲求を満たしていたのである。

彼らの破廉恥行為は、後年に至っても問題視された。しかし、ポルトガル商人が購入した奴隷の少女と破廉恥な行為に及んだり、渡航中に彼女らを船室に連れ込んだりしたことは、決して止むことがなかったのである。

要するに、女性の奴隷の場合は、労働力の問題ではなく、ポルトガル商人の性的欲求を満たす目的という側面があったのだ。