🔵ウィリアムアダムスの生涯 


ウィリアム・アダムス肖像画


1564年9月24日生まれ、1620年5月26日逝去 


 🔵生まれから日本への旅立ちまで時代 


 1564年

アダムスはイングランド南東部のケント州ジリンガムの生まれる。

船員だった父親を亡くして故郷を後にし、12歳でロンドンのテムズ川北岸にあるライムハウスに移り、船大工の棟梁ニコラス・ディギンズに弟子入りする。

1588年(24歳)

造船技師の道に進むも、航海術に興味を持ったアダムズは、1588年(24歳)に奉公の年限を終了と同時に海軍に入隊。フランシス・ドレークの指揮下にあった貨物補給船リチャード・ダフィールド号の船長としてアルマダの海戦に参加する。 


 翌1589年(25歳)

 メアリー・ハインと結婚。娘デリヴァレンスと息子ジョンを儲ける。しかし軍を離れてバーバリー会社ロンドン会社の航海士・船長として北方航路やアフリカへの航海で多忙だったアダムスは、ほとんど家に居つかなかったといわれている。 



 🔵リーフデ号の航海



アダムスの乗った船が取った航路。


17世紀のエングレービング。左から右方向にブライデ・ボートスハップ号、トラウ号、ヘローフ号、リーフデ号とホーぺ号 



 この時のオランダはスペインとの戦争を起こした直後で、スペインから『スペイン⇔オランダ間の航路の廃止』と『スペインの港へのオランダ船入港禁止』という経済戦争を仕掛けられ、これを打破せねばならない時で、目を付けたのが東南アジア香辛料と東アジアの品々の貿易だったが、東回り航路の拠点は敵対するポルトガルに抑えられ、困難な西回りの新航路の開拓をせねばならないという機運になっていた。そのためアルマダの海戦での勝利を機に、オランダの各会社の出資による新会社がいくつも立ち上がり、そうして生まれた会社の一つ『ファン・デル・ファーヘン社』が5隻の艦隊を組んで南米の突端を突破して東南アジアの交易ルートを確立する計画をし、この航海の為の船員募集がかかり、航海で共に仕事をする中でオランダ人船員たちと交流を深めたアダムスは、ロッテルダムから南米大陸南端を回って極東を目指す航海のためにベテランの航海士を探しているという噂を聞きつけ、弟のトマスらと共にロッテルダムに渡り志願。そして兄弟共々採用が決定し、船に乗り込むこととなる。


5隻の艦隊は……

旗艦ホーぺ号『"希望"の意』
リーフデ号『"愛"の意』
トラウ号『"忠誠"の意』
ヘローフ号『"信仰"の意』
ブライデ・ボートスハップ号『"良い予兆"あるいは"陽気な使者"の意』



で行われることになった。
しかし航路上の南米大陸も反対のアフリカ大陸も敵国のスペイン・ポルトガルの息が既にかかっており、交戦する可能性は高く、また現地住民との戦闘による食料・飲料の奪取も想定された為、各艦とも『重武装』の艦隊となる。

こうして組まれた艦隊5隻の司令官のジャック・マフはアダムスをホープ号の航海士として採用。こうして1598年6月24日、船団はロッテルダム港を出航。


しかし航海は惨憺たるもので、マゼラン海峡を抜けるまでにはウィリアムとトマスの兄弟はリーフデ号に配置転換されていたが、トマスが最初乗船していたトラウ号はポルトガルに拿捕。ブライデ・ボートスハップ号はスペインに拿捕され、1隻はぐれたヘローフ号は航行続行を断念。ロッテルダムに引き返した。

残った2隻で東南アジアの新航路開拓を続行するも、食料の補給も困難を極め、また壊血病や赤痢も発生。なんとか現在のチリに立ち寄り毛織物を入手するが、友好的であったはずの部族の裏切りで戦闘となり、このときウィリアムの弟・トマスは死亡。他にも多数の死傷者を出す。その後『毛織物を珍重し、高く買ってくれるらしい』という話から、東南アジアの島から目標を日本に変更。太平洋を横断する途中、ホープ号も行方不明となってしまい、極東に到達するという目的を果たしたのはリーフデ号ただ1隻となった。こうして出航時に110人だった乗組員は、日本漂着までには24人に減っていた。



1705年にオランダ・ライデンの地図出版者が作成した日本の地図、右下に将軍謁見図


関ヶ原の戦いの約半年前の1600年4月29日(慶長5年3月16日)、当時のアジア海域で使われていたジャンク船でもなく、ポルトガル人が毎年長崎に寄港させていた巨大なカラック船でもない、リーフデ号が豊後国臼杵の黒島に到達する。



翌日には臼杵城主・太田一吉が遣つかわした役人が船内を調査した。役人からの報告を受けた一吉は首を傾かしげた。貿易目的で来航した南蛮人の商船かとも思われたが、船には大砲19門(カルバリン砲)をはじめとする大量の武器が積み込まれ、船員たちも商人というより兵士の風体を帯びていたからである。アダムス達は臼杵城主・太田一吉の出した小舟でようやく日本の土を踏んだ。一方、一吉は長崎奉行の寺沢広高に通報した。

広高はアダムスらを拘束し、船内に積まれていた大砲や火縄銃、弾薬といった武器を没収したのち、大坂城の豊臣秀頼に指示を仰いだ。この間にイエズス会の宣教師たちが訪れる。


当初、彼らは最初スペイン船が漂着したと思い込んでいたが、船員と面会したところ、オランダ人であることを知った。イエズス会士はすぐに臼杵城に向かい、『あの船は海賊船だ。船員たちは即刻処刑すべきだ』と一吉に進言した。また、長崎にいたイエズス会士たちも奉行の広高に『漂着した船は海賊船であり、船員たちはポルトガル人とすべてのキリスト教徒の敵である』と訴えた。


検使の報告とイエズス会士の書状を受け取った広高は、その内容をまとめて、大坂城にいた徳川家康に報告書を送り、その処遇についての判断を委ねた。


この事件の2年ほど前、豊臣秀吉の死後、五大老の首座だった家康は権勢を強め、事実上の天下人として大坂城西の丸で政務を執っていた。この時期の日本の政治的状況は非常に不安定だった。いつ騒乱が起こっても不思議ではなかった。そうしたなか、謎の軍艦の来航についての情報が家康のもとに届いたのである。


🔵報告を受けた徳川家康、アダムスらを大坂に召し出す



海賊船であれば、直ちに処刑を宣告すべきである。しかし、どうやらこの船は普通の海賊船ではなさそうだ。スペイン・ポルトガルのほかにも、日本に来航できる「南蛮」の国があるようだ。そのように考えたであろう家康は長崎奉行に任せず自ら調査することに決める。さっそく家臣を豊後に遣わすとともに、当該船の主立った船員二人を大坂に連れて帰るよう命令する。



18人しか残っていなかった乗組員のうち、船長は病で動けなかったため、船長に次ぐ階級であった舵手(アダムス)と一人の商人(ヤン・ヨーステン)が代わりに大坂へ向かうことになった。大坂に到着してすぐにアダムスとヤン・ヨーステンは家康の前に召し出され、尋問を受けた。


このとき家康は報告にある別のところに注目する。リーフデ号の積み荷である。19門の大砲、500挺の火縄銃、5,000発の砲弾、300 発の連鎖弾、それに5,000ポンドの火薬などが家康の目に止まった。どれも世界最新鋭の軍備を備えていたことを家康は見逃さなかった。



最初は身振り手振りを交えて尋問したが、思うように伝わらないため、ポルトガル語が話せる人を通訳にして質問をすることにした。その尋問から家康の世界知識が一気に広がる。それまでアジア諸国についてはある程度の情報を得ていたが、そのほかの情報としては、さらに遠方にあるポルトガルとスペインという国々からアジアへ定期的に船が往来していること、ポルトガル人はインドのゴアや中国のマカオに拠点をもち、スペイン人はアメリカ大陸やフィリピンを植民地にしていることぐらいしか分かっていなかった。


そこから、さらに遠いところにイギリスとオランダという国々があり、それらの国々がイベリア諸国(スペイン・ポルトガル)と戦争状態にあるということをアダムスは家康に伝えた。ここで初めて軍艦が武装している理由も判明する。アダムスが乗っていた艦隊はアジアへ航海する途中、交戦相手国のスペインとポルトガルが支配する海域を通過する必要があり、敵と戦うために武装していたという。


徳川家康肖像画(切り抜き)〈伝 狩野探幽筆〉



実はこの間、イエズス会士たちは家康やその側近に、「リーフデ号の船員たちを生かしておけば家康や日本の不利益になる」とその処刑を訴え続けていた。疑い深い家康に対するこのような働きかけは逆効果を引き起こし、イエズス会士に対する不信感を募らせる結果を招く。

家康はついに「今のところ彼らは、私あるいは日本の誰にも危害や損害を与えていないので、彼らを処刑するのは道理や正義に反する。双方が互いに戦争をしているのであれば、それは彼らを死刑に処する理由にはならない」と回答した(アダムスより「未知の友人」宛書状)。

この回答から、家康が当時のカトリック諸国とプロテスタント諸国との対立状況をよく理解していたことが窺うかがえる。



この時期は日本を二分して争う関ヶ原の合戦の前夜だけ に、やすやすとスペイン人やポルトガル人の口車に乗る家康ではない。家康は関ヶ原の合戦のとき、リーフデ号の先端兵器を活用したという記述もある。アダムズとの会見で家康は、彼の人格と能力 を見抜いた。彼がそれまでのスペイン人やポルトガル人とは明らかに異なる人種であることや、オランダやイギリスとの外交や貿易の重要性もすでに視野に入れアダムズと接した。




🔵家康はアダムスを気に入って厚遇したが帰国は許さず……

アダムスに三度目の呼び出しがかかったのはそれから41日後のことである。家康は再び様々な質問をし、尋問が終わりに近づくとアダムスに「あの船に乗って同胞に会いたいか」と尋ねた。「ぜひとも喜んで」とアダムスが答えると、「では、そうしてくれ」と家康は言った。この瞬間、アダムスは何とも言えない安堵感を味わったことだろう。実はこの時、家康はリーフデ号とその船員たちを堺に移動させていた。アダムスたちは涙を流して再会を喜んだという。


とはいえ、その後も家康はアダムスの出国は禁じた。アダムスがいくら懇願しても許されなかった。それどころか、アダムスは家康の家庭教師のような存在となり、幾何学、数学やそのほかの学問の初歩を教えた。学問に少なからぬ関心を示していた家康は大変喜び、アダムスとの距離がどんどん縮んでいった。


また、アダムスの船大工としての経験を知った家康は、西洋式の帆船を建造することをアダムスに要請する。永らく造船の現場から遠ざかっていたアダムスは、当初は固辞したものの受け入れざるを得なくなり、伊東に日本で初めての造船ドックを設けて、リーフデ号に比べれば1/3以下ながら(リーフデ号は300t)、80tの帆船を建造に着手。これが1604年(慶長9年)に完成すると、気をよくした家康はさらなる大型船の建造を指示、1607年(慶長12年)には120tの船舶を完成させる。



この功績を賞した家康は、さらなる慰留の意味もあってアダムスを250石取りの旗本に取り立て、相模国逸見に采地も与える。また、三浦按針("按針"の名は、彼の職業である水先案内人の意。姓の"三浦"は領地のある三浦郡にちなむ)の名乗りを与えられ、異国人でありながら日本の武士として生きるという数奇な境遇を得たのである。

家康はアダムスを師として尊敬し、すべてをアダムスから言われた通りに受け取るようになったという(アダムスより「未知の友人」宛書状より)。こうして家康とアダムスのあいだに揺るぎない信頼関係が築かれた。


のちに、このアダムスの所領は息子のジョゼフが相続し、三浦按針の名もジョゼフに継承される。




🔵将軍相手でも忖度しないアダムスを家康は高く評価


この時代、家康に面会できる者といえば、旗本以上でないとまず不可能であった。船乗りだったイギリス人のアダムスが旗本の位と三浦半島にある逸見の領地を与えられ、常に家康の側に仕えるようになったことは並大抵のことではない。なぜそのようなことが可能だったのだろうか。


当時の史料から、アダムスは豊富な知識をもった真面目で誠実な人であったようだ。また相手が誰であろうと、納得がいかないことは受け入れず、自分の立場が悪くなってもそれを正直に相手に伝える性格の持ち主だった。人のために尽力と骨折りを惜しまず、最後まで使命を果たそうとする姿勢を示していた。



こうした気質を家康は高く評価していたようだ。有能な人材を自分の周りに置くことを心がけていた家康にとって是非ともアダムスは側近として迎えたい人物であった。家康はアダムスをあまりにも気に入ったため、晩年にアダムスによる出国のさらなる請願に屈した後でさえ、自分の側から離れないようにアダムスに懇願した。それほど家康はアダムスを寵愛していた。



🔵家康、世界の中の日本を見据えアダムスを活用

対外政策を進める家康にとってアダムスは必要な人材だった。グローバル化が進むなか、西洋列強が次々と船を日本に派遣し始めた。家康は自由貿易を促進することで国内経済を活性化しようとしていた。そのために、アダムスを通じて世界情勢について情報を収集したかった。

また、日本の造船技術を高めて、日本人によるさらなる海外進出を可能とする基盤をつくろうとした。アダムスとその仲間のオランダ人の船大工に2隻の洋式帆船を造らせることで、西洋の造船技術を積極的に採り入れ、朱印船貿易で使用されるジャンク船の造船にその技術を活用した。さらに、オランダやイギリスの使節が家康のいる駿府城を訪れると、アダムスがその仲介役をつとめ、両国とも平戸で商館を設立することになった。


🔵アダムス、国防の危機を家康に訴える

家康が特に熱望したのはスペインとの交易であった。スペイン使節は貿易の実現と引き換えに、当時スペインの戦争相手だったオランダ人を日本から追放することを家康に強く要請し、揺さぶりをかけた。家康はこのスペイン側からの揺さぶりをうまくかわしながら中立的姿勢を保った。


その過程でスペイン使節のセバスチャン・ビスカイノが「江戸湾の測量」を願い出た時には、その許可を与えた。これはスペイン船が安全に江戸湾に入ることが出来る為に必要な申し出だったが、これを知ったアダムスは、若かりし頃スペイン艦隊が母国イギリスを侵略しようとしたときのことを思い出した。そのスペイン艦隊との海戦の際、アダムスはイギリス艦隊の補給船の船長として戦いに参加していた。

アダムスは家康のもとに駆け付け、「スペイン人が江戸湾を測量する目的は、いずれ大艦隊を率いて侵略するための準備だ。私の母国であるイギリスならば、他国による海岸の測量は絶対に許さない」と進言した。家康が「今さら断るのは面目が立たない。たとえ攻め込まれても防衛のための兵力は十分にある」と弁明すると、

『まずパードレ(宣教師)を送り込み、その国の多数の国民をキリスト教徒に改宗させ、その後スペイン人がそのキリスト教徒と共謀してその国を征服し、スペイン国王の領有地とするのがスペイン人の策略なのである』とアダムスは訴えたという(スペイン使節ディエゴ・デ・サンタ・カテリーナの報告書)。

すでにキリスト教布教に疑念を抱いていた家康は、その直後に駿府城に多くのキリシタンが存在することを知り、禁教令の布告に踏み切った。のちに秀忠と家光が進めていく鎖国体制への第一歩であった。


🔵殆ど日本人だったアダムス



1613年(慶長18年)にイギリス東インド会社のクローブ号が交易を求めて日本に来航した際、一行に付き添い、家康らとの謁見を実現させ、貿易を許可する朱印状を取りつけるなどの手助けをした。1614年(慶長19年)のクローブ号帰還の際には、一緒に帰国できる許可が日英両方から出たが、同船司令官のジョン・セーリスと馬が合わず、帰国を見送った。

セーリスの航海日誌によると、
『イギリス東インド会社重役宛の書状では「現金を貯めてから帰りたい」と書いているが、日本に完全に馴染んでいたアダムスは同胞から「帰化した日本人」と呼ばれるほど日本人になっていた。』とある。

セーリスは何事も日本式を強要するアダムズが気に入らず、アダムズはセーリスを生意気で無礼な青二才として嫌っていた。その後の三浦按針は、名前と旗本の職を息子のジョゼフに譲り、それまでオランダ商館の手伝いをやめ、オランダ商館時代より低い給与の母国のイギリス商館を手伝う。



アダムスが平戸からロンドンの東インド会社本社へ宛てた手紙の一部。1613年12月1日付(画像=大英図書館)



🔵家康の死後

家康に信頼された按針(アダムス)だったが、1616年(元和2年)4月に家康が死去、跡を継いだ徳川秀忠をはじめ江戸幕府の幕臣たちが海外貿易を幕府に一元化する目的で貿易を長崎と平戸の二港のみに制限すると、幾度も幕府に方針(消極的外交)を積極的外交にすべきだと説いたが相手にされず、また秀忠との目通りも叶わず、按針の立場は不遇となった。以降の按針の役目は天文官のみとなったが、幕府や次期将軍候補の徳川家光らに警戒された。アダムスは憂鬱な状態のまま、1620年5月26日(元和6年4月24日)に平戸で病没。55歳であった。



🔵謎のアダムスの日本人妻について


帰国を諦めつつあったアダムスは、1602年(慶長7年)頃に大伝馬町の名主で家康の御用商人でもあった馬込勘解由平左衛門の娘・お雪(マリア)と結婚したとされてきた。

が、しかし、馬込勘解由の娘とする説は1888年(明治21年)の「横須賀新報」、1892年(明治25年)の菅沼貞風『日本商業史』が初出で、現実的に勘解由本人の娘とは考えられず、実際の出自は不明である。また、お雪という名前も1973年(昭和48年)石一郎の小説『海のサムライ』が初出で、牧野『青い目のサムライ三浦按針』の英訳書を通じて誤って広まったものであり、史料上アダムスの夫人の名前は残っていない。




🔵三浦按針の墓は?


神奈川県横須賀市の逸見には三浦按針の領地があった。同地(横須賀市西逸見)にある濤江山浄土寺が三浦按針の菩提寺となっており、按針が東南アジアからもたらしたという唄多羅葉や、念持仏が納められている。

横須賀市西逸見町の「塚山公園」には、按針夫妻の慰霊のために作られた2基の供養塔(宝筺印塔)があり、「安針塚(按針塚)」「三浦按針墓」と呼ばれる。江戸時代後期には浄土寺や日本橋按針町の人々によって、按針の法要が行われた。

日本の開国後、ウィリアム・アダムズの墓探しが行われた。1874年(明治7年)、横浜に住む実業家ジェームズ・ウォルター(James Walter, 1847 - 1909)によって、逸見の浄土寺から古い2基の宝筺印塔が見いだされた。ウォルターは「按針塚」周辺の荒廃を憂いて修復を行い、横浜居留のイギリス人や地元の人々などからも支援が行われた。

明治35(1902)年に結ばれた日英同盟を契機に「安針塚(按針塚)」周辺の大規模な整備が行われ、塚山公園が作られたが、これに際して発掘調査が行われ、ここがアダムスの埋葬地ではないことが確認された。

大正12(1923)年3月7日
「三浦按針墓」として国の史跡に指定された。

昭和15(1940)年
京浜急行(当時は湘南電気鉄道)の駅が、「安針塚駅」に改名されている。



🔵長崎・平戸にある『伝・安針墓』

記録によるとアダムスの死後、子供を連れた平戸の女性がイギリス商館を訪れたとある。この子供がアダムスと平戸の女性との間に生まれた『婚外子』の可能性はある。生前にアダムスからこの子供は『琥珀(宝石)』を分与されているらしいのだ。


(妻は当時の日本では遺産分与の対象ではない。その代わりに長男が親の余生の扶養するが当たり前だった。)



キリスト教弾圧の中で商館とともに外国人墓地の破壊が行われたため、埋葬地の正確な場所ははっきりしないのだが、1931年、平戸の崎方(さきかた)にほど近い三浦家で「安針墓」として伝えられてきた墓から、遺骨と遺品の一部が発掘される。三浦家は通詞の末裔であり、ひそかに按針の遺骨の一部をもらいうけて埋葬したという口伝があった。鑑識の結果2020年本人の遺骨である可能性が極めて高いと発表された。



昭和29(1954)年
イギリス商館跡近くの崎方公園(平戸市大久保町)に「三浦按針の墓」が建立された。

昭和39(1964)年
アダムスの生誕400年に際し、イングランドの妻の墓地より小石を取り寄せ、夫婦塚とした。毎年5月下旬には墓前で「按針忌」が催される。



🔵ジョセフ・アダムズ

ジョセフ・アダムス(Joseph Adams、1605年 - 没年不詳)は、江戸時代初期の旗本(禄高は相模国三浦郡逸見250石)。日本名は二代目 三浦 按針(にだいめ みうら あんじん)。ウィリアム・アダムス(初代三浦按針)の息子。


慶長10年(1605年)頃、江戸幕府将軍徳川家康や徳川秀忠に外交顧問として仕えた英国人船員ウィリアム・アダムス(初代三浦按針)の子として生まれる。母はウィリアムが日本で娶った日本人妻で、妹にスザンナがいる。また、父の故郷イングランドのケント州ジリンガムには、義理の母のメアリー・ハインと、異母姉のデリヴァレンスと異母兄のジョンがいた。



元和6(1620)年5月16日、父が死去すると家督と所領を相続。名乗りを継いで三浦按針となる。父からは佩刀の大半も相続した。ジョセフは父の手によって航海士としての訓練を施されており、寛永元(1624)年と寛永12(1635)年には船員としてコーチシナ(交趾支那)へと航海している。

その頃には、海外貿易に積極的な家康から消極的な秀忠の治世に代わっており、次代の徳川家光に至って徐々に朱印船貿易に対する制限が強化される。しかし、ジョセフは最後まで朱印状、奉書を給付され活動を保証されていた。寛永9(1632)年まで貿易を行っていた記録が残り、また、同13(1636)年付けの棟礼(むなふだ➡建物の建築や修復の際に、その建物の由緒や建築関係者、建築年月日などを記した札。)が現存すると言われ、鎖国直前までは活動が確認できる。

その後の消息は不明。死後は領地の三浦に埋葬されたとも言われる。ジョゼフの正確な死没年は不明だが、寛文3年(1663年)、ジョゼフの領地だった逸見村が、その当時の幕府老中・酒井忠清の領地となっているから、ジョセフはそれ以前に亡くなっているのは確かだ。


妹のスザンナの方はその後、江戸に出て優雅な暮らしをしていた記録はどうやら残っているようだが、その後の消息は不明である。