🔵島原の乱に至るまでの道1️⃣有馬晴信の生涯


有馬晴信は日野江藩、今の天草・島原の初代藩主。

有馬晴信像(木像)

有馬晴信にとって日本初のキリシタン大名の大村純忠は叔父にあたる。

1580年に洗礼を受けてキリシタン大名となり、南蛮貿易で利益を上げる過程で叔父の大村純忠同様、晴信もカトリックにすっかり『かぶれ』た。

そして秀吉が禁教令を出すまでに晴信の領内は数万のカトリック信者を抱える程になっている。

晴信は秀吉の時代は秀吉側に付くが、関ヶ原では家康側に付くと上手く立ち回り、江戸の世になっても生き残りを果たす。

が、1610年に家康が命令して、晴信が率いる日野江藩(現島原)が起こした『ノセ・セニョーラ・ダグラサ号事件』の恩賞として、昔、肥前の龍造寺と戦った時に奪われ、今は鍋島藩に組み入れられている旧領三郡の日野江藩返還を欲している事を聞きつけた幕府の家臣・本多正純の部下で、当時、晴信がノセ・セニョーラ・ダ・グラサ号攻撃時、晴信の藩の監査役をしていた岡本大八(⬅彼もキリシタン)が幕府への口利き役を買って出て、晴信は大八に贈賄したが、大八にその金をそのまま横領され、大八に騙されたと悟った晴信が大八の上司であった本多正純に直訴した事で横領事件が露呈。

これにより岡本大八は罪を問われ投獄・死刑となるのだが、この岡本大八が獄中から、ポルトガルとの貿易において長崎奉行の長谷川藤広との利害関係で対立・悪化していた晴信が長谷川藤広を暗殺しようと画策していた事をバラし、晴信の罪も確定。甲斐の国に流された後、自害させられている。当然、晴信の治めていた日野江藩の領地は没収。晴信の家臣も解雇。大量解雇となった家臣達は浪人となるのだが、この解雇された晴信の家臣達は『もう武士は辞める』というものの、それぞれが武器を隠し持ったまま散らばり、今で言う便衣兵(ゲリラ)状態で領内潜伏するという格好になる。 そこに来た新領主が奈良から来た『松倉重政・勝家親子』が日野江の地を治める新領主となるのだが、この天草・日野江藩に新領主としておさまった松倉親子の統治が『島原の乱』を引き起こす原因となる。


🔵島原の乱に至るまでの道2️⃣松倉親子の島原圧政

有馬晴信の不始末で有馬の島原領は没収、有馬は取り潰しとなり、新たな島原の領主として、奈良から来た『松倉重政・勝家親子』が据えられるのだが、

この松倉重政が三代目将軍、徳川家光に『お前の領内まだキリシタン信徒だらけではないか。どうなっとるんだ!?』と叱責される。

これに恐慌した松倉親子は我らの実績を幕府に見せようと江戸城改築工事に必要以上の献金を始めるなど『過剰なアピール』を始める。こうした金の源泉は『領民』から。こうして島原の増税はどんどん重くなる。

これ以上の増税は耐えられないと農民が話し合い、代表で名主が松倉に訴えると、名主の妊娠中の妻が捕らえられ、水に浸す『水牢責め』をされ、妻も子も殺されたり、税を滞納している農民を捕らえて、雨をしのぐ蓑を着せて油かけて火をつける『蓑踊り(生きたまま身体に火をつければ踊っているように死ぬ様から)』の刑にかける。

ここまでは松倉重政がやったことだが、その重政が寿命で亡くなり、後を継いだ勝家の統治は、この親父の重政の圧政より『更に酷く』なる。

もう我慢の限界となった島原領民が立ち上がり、これに浪人となっていた有馬晴信の元家臣が隠し持った武器を手にしてこれに合流、こうしてもはや『一つの軍』が出来上がる大反乱が始まる。

これが『島原の乱』である。


🔵島原の乱に至るまでの道3️⃣島原の乱勃発、そして終焉。

島原を支配した新領主の松倉親子の圧政が島原の乱を生み出した。

4万弱に膨れ上がった反乱軍では旧有馬の家臣達が実務と軍略をリード。鎮圧軍の到来を予見し、松倉の領地内にあり、三方を海に囲まれた籠城戦にはもってこいの原城を選定し、そこを攻めて落として、この城に籠もる体制を執る。そこでこの反乱軍の『神輿=反乱軍の象徴』として担がれたのが、当時14歳の少年・天草四郎時貞である。

こうなると松倉の一軍だけでは全く鎮圧は不可能となり、この知らせを知った幕府は島原周辺の藩主に鎮圧するよう連合軍を編成し、鎮圧するよう命令を下す。 その連合軍の数は12万人となる。


このとき反乱軍が幕府軍に放った『矢文』が残っているが、この矢文の書き始めは『我々は異国の宗教を信仰して、こういう騒ぎ起こした事は心苦しく思っている。だがこの戦いを起こした原因は松倉の圧政が酷いから民衆は止むに止まれず、この信仰に縋って集まり、結果こういう事になったので、これは分かって欲しい。幕府に逆らうつもりではありませんので、今の松倉を何とかして下さい。我々は松倉の首級を見れたならば、全員死んでも構いません』と訴えるものの、『もしこのままの状況が続いたら、外国(ポルトガル)が我々の援軍を送って来るでしょう。』と最後に幕府を激怒させるに充分の一文を入れてしまう。


当然、この反乱軍の最後の一文に幕府は激怒。幕府は徹底した反乱軍殲滅に舵を切る。

この幕府連合軍の指揮を執る老中・松平信綱がオランダ商館長を呼び、『どうやらこの反乱軍の背後にはポルトガルがいるようだ。今、オランダに軍艦を要請したとして日本に送れるか?』と問う。


するとオランダ商館長のクーケバッケルは『もちろんです。ジャワのバタビアから軍艦を送れます。』と即答。そして実際にオランダ軍艦が島原の岬の先にある原城の洋上に現れる。

この海から来た外国船を見た反乱軍は『援軍が来た!』と間違え大喜び。

しかし援軍と思っていた異国船が海上から我が方に向かってまさかの砲撃を開始。陸は幕府軍の攻めの挟撃となり、反乱軍は完全に心が折れてしまい潰滅となる。

その後、この反乱を作り出した松倉勝家は領地没収、そして何と『斬首』。

切腹は『自らの意志で腹を切る』という行為を見届けさせる事により、死ぬ事にはなったがこれが我の意思だ。…を周りに示す事を許す『武士階級だけが許された死ぬ者の名誉を尊重した刑』だ。 だから不始末を犯した武士はほぼ間違いなく『切腹』を命じられる。

しかし、あろう事か松倉勝家は切腹も許されずの『斬首』となった。松倉親子の罪をどれだけ幕府が最悪で『松倉は恥さらし』と見ていたかが、この『勝家斬首』でよく分かる。

これを契機に幕府は『ポルトガル船来航禁止』貿易する西洋の国はオランダ一択と正式に決める。


ポルトガルは何故島原のキリシタンを助けなかったのか?ポルトガルはこの時、『それどころじゃなかった』。なかば強引にスペインの力に圧され、スペインの王・フェリペ二世をポルトガル王との兼任を受け入れたが、これに不満を持っていたポルトガル貴族がいて、フェリペ二世の死を契機にポルトガルの貴族達がスペイン出て行け!と立ちあがり、『スペイン・ポルトガル戦争(1637年)』が勃発。地球の真裏に軍艦を送るどころじゃ無かった。


こうして幕府はこれ以降日本のキリシタンを徹底した排除に動き、生き残ったキリシタンの根絶やしを目標に弾圧を更に強める。