その1️⃣
スペインのカトリックにおける異端者(間違ったキリスト教を信仰するキリスト教徒)は火あぶりの刑である。

その2️⃣
人対人の大規模な戦争では基本『風上が有利』である。ましてや風を動力とする帆船時代の海戦では風上が有利は言わずもがな。である。



🔵オランダの独立戦争と『アルマダの海戦』

オランダは昔はスペインの飛び地領(王族の婚姻云々の関係)の位置で、つまりスペイン配下で世界と貿易をしていた。彼らは営々と干潟を堤防で囲い、海水を吐き出させて干拓地を作り、畑を国土を広げ、その広げた地が嵐で海に呑まれてもまた堤防を積み上げ続ける『勤勉の民。』 だった。

その中で『働く事は良い事。勤勉に働く事自体が神の教えに従っているのだ』のカルヴァン派(プロテスタント)がそのオランダ内で台頭。忽ち勤勉なオランダ人達の中でこの信仰が広がり、代わりにスペインが推すカトリックの教会へ行く者は激減した。

熱心なカトリックのスペイン王・フェリペ2世はこのオランダにガチ切れして、『オランダは今や異端者で溢れかえってしまった。我はこの異端の者共を全員火あぶりにしてやる』とオランダに攻め込み、オランダの金持ちを(カトリックの大商人すらも)火あぶりにして彼らの財産を全部没収をする。(実際はスペインに酷いインフレ。毎年毎年2%の物価上昇が常態化してからとも考えられる)

このスペインの横暴にオランダがガチ切れし、戦争となる(オランダ独立戦争の勃発)

だが、やはり強いスペインにオランダは負けそうになる。その時、当時、小国だったイギリスのエリザベス女王(一世)の鶴の一声でオランダへの武器支援が決定。このイギリスのオランダ支援の報を聞いたスペイン王フェリペ2世はまたガチ切れて『イギリスも異端!ぶっ潰す』となる。

そもそもスペインとイギリスは大国と小国という関係ながら、エリザベス女王の海賊を使ったスペイン商船への攻撃と略奪に腹を立て、海賊を取り締まるよう厳重に抗議をしても、『心が痛むことです。取り締まるよう努力します。』といいながら一向に努力しない『とぼけた態度』をとる。

実は海賊がスペイン商船を襲って得た財宝の半分はイギリスの国庫に納める代わりに海賊行為を認める、私掠船許可証(しりゃくせんきょかしょう)発行していた。小国イギリスとしても非常に旨味のあるビジネスであり、だから海賊の行為を当然だが黙認。

このエリザベス女王の『とぼけ』を当然、フェリペ2世は感づいていて、イギリスとそこにいる女王に、怒りを募らせていた。

さらに、フェリペ2世はエリザベスは庶子(正妻の子ではない)、対してイギリスにはメアリー(スコットランド)女王(正妻の子)がいて、しかもメアリー女王はフェリペが信じるカトリック教徒である事に目を付け、『エリザベスを暗殺しメアリー女王をイギリスの女王に据える』という謀略を画策。この計画が、決行に移る手前でバレてしまい、メアリー女王は処刑に。

これが後に『スペイン無敵艦隊』と名付けられた艦隊とイギリス艦隊との激戦(アルマダの海戦)による大敗北の1年ほど前の出来事で、このエリザベス暗殺計画も頓挫し、フェリペ2世のエリザベスへの怒りは爆発寸前。

そこへきてのオランダ独立戦争にイギリスが加担。となってフェリペ2世は完全にキレる。


🔵アルマダの海戦

アルマダの海戦で起こった各戦闘の位置と沈没・座標が起こった場所。赤く大きな矢印は当時の大まかな風向きと潮流(メキシコ湾流)を表す。


こうしてイギリス本土攻撃・殲滅を担わされた『スペイン無敵艦隊』130隻が動き出す。この大艦隊には約180名の司祭や宗教顧問が同行していた。 イギリスに上陸、勝利た暁には、エリザベス女王も宗教裁判にかけ、火あぶりの刑に処す事が目的だった。

だがスペインが勝利、イギリスの負けは確定だろうと見込まれたイギリス・オランダ連合軍が勝利する。北上していたスペイン艦隊は、当初からスペイン艦隊の風上に回り、小型ながら機動性が高く、威力は低いながらも長射程砲を積んだイギリス艦船のアウトレンジからの攻撃に苦しみ、一番狭いドーバー海峡ではイギリス艦隊側の火計によってイギリス本土上陸も叶わないまま、海峡を抜けてしまい、さらに北に追いやられ、一番狭いドーバー海峡はイギリス艦隊が封鎖。この時点でイギリスに勝てない事を認識し、艦隊はスペインへの帰投を決めるも、そのドーバー海峡に吹く風より既に下手(しもて)の位置にいて、さらにドーバー海峡に流れる潮流も南から北へ流れるものだから、最短ルートで帰る事は不可能となり、イギリス本土とアイルランドの外を大きく回る『荒れ狂う北海ルート』で帰投する以外の術が見つからず、この大回りの中で更に艦隊の船は次々と沈没や座礁の被害を出し続け、艦隊は敗北の上にボロボロの体で帰国という惨憺たる結果となる。

これがスペイン凋落の一途の始まりとなる。対してオランダとイギリスはスペインの縄張りを分捕る事となり一気に隆盛していく。この戦いを『アルマダの海戦』この時、大敗北をしたスペイン艦隊をのちに『スペイン無敵艦隊という。

つまりスペイン無敵艦隊は編成されてからの初戦で大敗した。

このスペインが大敗する前の1580年、ポルトガルは次の王となる後継者(子供)がいなくて、(当時のポルトガル王は遠征先で戦死)結局の所スペイン王フェリペ二世の母がポルトガル人だったから血縁がある!とゴリ押ししスペイン王フェリペ二世がポルトガル王も兼任していた。というわけでポルトガルも凋落することになる。これが1588年の事だ。



🔵家康とウィリアム・アダムス

そして1600年
アルマダの戦いで大勝利を収めスペイン・ポルトガルに割って入れる力を得たオランダの船のリーフデ号が日本に漂着。奇しくも関ヶ原の戦いに直前の家康と接触することになる。この時、家康と接触したオランダ船乗組員で航海士だったイギリス人、ウィリアム・アダムスと家康が出会う。

このアダムスがスペインとは?カトリックとは?そしてポルトガル商人たちからは『世界一』と聞かされ続けていた『スペインの大敗北』を知る。

実はウィリアム・アダムスはスペイン大敗北の『アルマダの海戦』にイギリス軍兵士として参戦していた。


こうした世界の情勢の詳細をアダムスは語り、そのうえで『私達は奴らとは違います。布教はしません。貿易だけを望みます』と明言する。これで家康はポルトガルの『嘘(カトリックの恐ろしさと海戦大敗北の情報をポルトガルが隠蔽していたこと)』を知り、これは将来、益を上回る不利益をもたらすに違いないポルトガルと完全に手を切る事を決断する。

その家康は関ヶ原の戦いで東軍を率いてこれに勝利。天下の統一に成功した家康は、未だ巨大な残党勢力と、それを纏める要(かなめ)となるであろう豊臣家の殲滅に動き出し、この結果『大阪冬の陣・夏の陣』が勃発。

そして大阪冬の陣・夏の陣ではポルトガルが持ち込んだ大砲(フランキ砲)より100m有効射程が長いイギリスの砲(カルバリン砲)が使われ、籠城の強みが全く無くなり裸にされた豊臣家は滅ぶ。こうした流れの中、ウィリアム・アダムスは家康から信頼を得て、外国人として初めて旗本という武士の身分を得て、自分の本来の職業であった『航海長』が日本では『按針(あんじん)』である事から『三浦按針』の名を賜る。

その後、今度はイギリスとオランダが商売上で仲が悪くなり、イギリスは日本に来れなくなり、日本の世界の窓口はオランダだけ。となる。


次は『島原の乱』になる。