さて
第3回はこの日本にキリスト教(カトリック到来の)時代、日本を纒めようとした当時の『それぞれの為政者(信長・秀吉・家康)』はどう対応をしたのか?ざっくりと説明する。


🔵為政者・信長のカトリックに対する反応

1️⃣信長の場合

このカトリックのパードレ(宣教師)が説く宗教(カトリック)に対して織田信長は鷹揚だったと言える、舶来の品々をもたらしてくれるし、銃を使うには硝石輸入は相変わらず必要だったし、何より当時の信長の宗教上の大敵は死も厭わず、一つの国のように振る舞った『武闘派な仏教(特に一向宗など)』で、特に長篠の戦いで武田に勝利して以後は仏教の攻撃に傾倒し、その為、むしろポルトガルがもたらす力を利用、カトリックにも寛容さを示していた。

また織田家の先祖は神官なので神道には寛容だし、『我(信長)に従うならば』の条件付で仏教も容認している。『逆らい、一つの国となって軍事力を誇示して結束し、我に敵対する仏教教団が大嫌い』『敵対しないのなら耶蘇教(キリスト教)は別に良いのではないか』が信長の認識だったと考えられる。

2️⃣秀吉の場合

対して信長亡き後の秀吉は『神も仏も信じているタイプには見えない。』遺言として神道の神になろうとしていた話もあり、実際に秀吉を祭神とする『豊国(とよくに)神社』が死後すぐに建立されてる。

また木造だけど、京都に金箔で全身キラキラの大仏を建立(方広寺大仏)したのに、翌年の伏見大地震で、この大仏が倒壊。すると現場に来た秀吉は崩れて落ちた大仏の顔を見据え、『余は国家の安泰のためにお前を作ったんだ。お前は自分の身も保てないのか。』と言い放ち、大仏の眉間に矢を射る。神になることを願うが晩年の秀吉の本願というのが本当ならば、信長よりも秀吉の宗教への信心度はドライだったと言える。

(というか、恐ろしく優しい時と、酷薄な時、情熱的な時と、冷淡な時みたいな『彼の中の一線を越える・越えないで態度がガラリと変わる』エピソードが秀吉の記録には多く、『サイコパス』な所が秀吉には見える)



🔵秀吉、九州の現実を見てカトリック排除になる。

この秀吉が中国地方を平定したので、そのまま九州征伐に動き出し、圧倒的な軍勢と軍略で抵抗する九州の大名を圧倒。1年で九州全土を平定するのだが、先行した情報は既に秀吉の耳に入っていたと思うが、実際に九州のキリシタン大名の実態と、信仰せず抗う者は抹殺し、神社仏閣を破壊し、人身売買が当然のように行われている実態に激怒。

この秀吉が九州平定した同年(1587年)すぐさま
『バテレン追放令』を出す。バテレンは『パードレ(宣教師)』の事だから『宣教師追放令』ということ。

ただ秀吉はこの追放令の理由として『邪教(キリスト教)を持ち込むな』であって『貿易はする』と述べている。そして植民地となっていた長崎などは秀吉が『没収』、パードレは長崎に集めて監視。勝手に動けないようにした。

だが実際のポルトガルやスペインとの交易の魅力に抗えなかった秀吉が行った『バテレン追放令』のその後はゆるいもので、京都を住まいとする秀吉と接触出来る宣教師達は相変わらずいたし、日本人信徒もあからさまな迫害を受けたという記録はない。

この時に禁止されたのは布教活動であり、キリスト教の信仰自体も禁止されず、各地のキリシタンも公に迫害されたり、その信仰を制限されたりはしなかった。

当の秀吉も、イエズス会宣教師を通訳やポルトガル商人との貿易の仲介役として重視していたし、ガスパール・コエリョ(フランチェスコ会)とは対照的に秀吉の信任を得られたアレッサンドロ・ヴァリニャーノ(イエズス会)は1590年、2度目の来日を許されたが、この時、ロザリオとポルトガル服を着用し、聚楽第の黄金の間でぶらついている秀吉を見たことを記録に残している。


だが翌1591年
原田孫七郎はフィリピンの守りが手薄で征服が容易と上奏。

1592年5月
入貢と降伏を勧告する秀吉からの国書をフィリピン総督に渡す。

1593年
原田喜右衛門がフィリピンの征服を秀吉に要請。同4月22日にはフィリピン総督が服従せねば征伐するとの国書を渡すが、スペイン側は事前に船に同乗していた明人を詰問。

日本国王(秀吉)が九鬼嘉隆にフィリピン諸島の占領を任せたが、台湾の占領も別の人物に任せたから、当地の遠征はその次である等の情報を得ていた。宣戦布告にも近い軍事的脅迫を含む敵対的な最後通牒によって、スペインと日本の外交関係は緊迫し、スペイン人の対日感情も悪化の一途を辿る。


1593年6月1日
アントニオ・ロペスは日本で見たこと行ったことについて宣誓の上で綿密な質問を受けたが、そのほとんどは日本がフィリピンを攻撃をする計画についてどれだけ知っているかということだった。ロペスはまず秀吉が原田喜右衛門に征服を任せたと聞いたと述べ、日本側の侵略の動機についても答えた。

ロペスは、フィリピンに黄金が豊富にあるという話は万国共通であること。このため(日本の)兵士たちはここに来たがっており、貧しい国である朝鮮には行きたがっていない述べた。

ロペスはまた日本人にフィリピンの軍事力について尋問された事も述べている。ロペスはフィリピンには4、5千人のスペイン人がいると答えたら、これを聞いた日本人嘲笑い、彼らはこれらの島々の防衛の為の兵士が4、5千とは冗談であろう。百人の日本人は2、3千人のスペイン人と同等の力があると言った。と述べた。ロペスの会った誰もが、フィリピンが征服された暁には原田喜右衛門が総督になるであろうと言った。

その後、侵略軍の規模についてロペスは長谷川宗仁の指揮で10万人が送られると聞くが、ロペスがフィリピンには5、6千人の兵士しかおらず、そのうちマニラの警備は3、4千人以上だと言うと、では日本軍は1万人で十分と言ったとある。さらにその後、ロペスに10隻の大型船で輸送する兵士は5、6千人以下と決定。フィリピン侵攻の経路は琉球諸島を経由してやってくるだろうと告げたと報告している。


同年
フィリピン総督の使節としてフランシスコ会宣教師のペドロ・バプチスタが来日。肥前国名護屋で豊臣秀吉に謁見。豊臣秀次の配慮で前田玄以(まえだげんい)に命じ、京都の南蛮寺の跡地に修道院が建設されることになった。翌年にはフィリピンのマニラから新たに3名の宣教師(ということは宣教師達はスペイン・フランチェスコ会派)が来て、京阪地方での布教活動を活発化させ、信徒を1万人増やした。前田玄以の息子・秀以(ひでもち)や織田秀信、寺沢広高ら大名クラスもこの頃に洗礼を受けた。

文禄4(1595)年7月15日
秀吉の弟・秀次切腹と幼児も含めた一族39人の公開斬首が行われる。

文禄・慶長の役では朝鮮、明への侵略、征服計画が頓挫し和平交渉も難航、文禄5年/慶長元年1596年7月12日には慶長伏見地震で秀吉の居城である伏見城が倒壊(女﨟73名、中居500名が死亡)、

同9月2日には明・朝鮮との講和交渉が決裂、仏教や神道の在来宗教勢力も京都に進出していたキリスト教フランチェスコ会に警戒感を強める情勢にあった。サン・フェリペ号事件はこのような状況下で起こる。



🔵サン・フェリペ号事件。


1596年7月
フィリピンのマニラを出航し、財宝を大量に積み込みメキシコを目指し、スペインのガレオン船、サン・フェリペ号が出港。サン・フェリペ号には100万ペソの財宝が積み込まれていた。

この船の船長はマティアス・デ・ランデーチョであり、船員以外に当時の航海の通例として七名の司祭(フランチェック会員フェリペ・デ・ヘスースとファン・ポーブレ、四名のアウグスティノ会員、一名のドミニコ会員)が乗り組んでいた。

だが、サン・フェリペ号は東シナ海で複数の台風に襲われ、船員たちはメインマストを切り倒し、400個の積荷を海に放棄することでなんとか難局を乗り越えようとする。しかし船の損傷は甚大で、船員たちも満身創痍。日本に流れ着くことだけが唯一の希望であった。

そして1596年8月28日(同年10月19日)
船は四国土佐沖に漂着。知らせを聞いた長宗我部元親の指示で船は浦戸湾内へ強引に曳航され、湾内の砂州に座礁してしまう。大量の船荷は流出、船員たちは長浜(現高知市長浜)の町に留め置かれることになった。

長宗我部元親は投棄を免れ、船に残っていた60万ペソ分の積荷を没収した。長宗我部元親は、日本で座礁、難破した船は、積荷とともにその土地へ所有権が移るのが日本の海事法であり、通常の手続きだと主張する。

スペイン人乗組員がこれに抗議すると、元親は、秀吉の奉行のうち、個人的な友人である増田長盛に訴えるよう言い渡した。船長であるマティアス・デ・ランデーチョはこれをうけて、2人の部下を京に派遣し、フランシスコ会の修道士と落ち合うように指示した。


🔵豊臣政権の対応と国際情勢

船員一同で協議の上、船の修繕の許可と身柄の保全を求める使者に贈り物を持たせて秀吉の元に差し向け、船長のランデーチョは長浜に待機することにした。しかし差し向けた使者は秀吉に会うことを許されず、代わりに奉行の1人で長宗我部元親の友人である増田長盛が浦戸に派遣されることになる。

増田長盛はこの状況を利用して利益を得られると考え、秀吉にこの積荷を接収することを助言。土佐に着いた増田長盛はスペイン人に賄賂を要求したが断られたため、サン・フェリペ号の貨物を100隻の和船に積んで京都に送る作業を始めた。

それに先立って使者の1人ファン・ポーブレが一同の元に戻り、積荷が没収されること、自分たちは勾留され果ては処刑される可能性があることを伝える。先に秀吉はスペイン人の総督に「日本では遭難者を救助する」と通告していた筈なのに、まるで反対の対応をするかもしれないと知り、船員一同は驚愕した。

増田らは、白人船員と同伴の黒人奴隷との区別なく名簿を作成。積荷の一覧を作りすべてに太閤の印を押し、船員たちを町内に留め置かせ、所持品をすべて提出するよう命じた。増田らは更に「スペイン人たちは海賊であり、ペルー、メキシコ(ノビスパニア)、フィリピンを武力制圧したように日本も同じく武力制圧する為に、事前の測量に来たに違いない。このことは都にいる3名のポルトガル人ほか数名に聞いた」という秀吉の書状を告げる。この時、水先案内人(航海長)であったデ・オランディアは激しく憤(いきどお)り、長盛に世界地図を示し、スペインは広大な領土をもつ国であり、日本がどれだけ小さい国であるかを語った。

これに対し増田は「何故スペインがかくも広大な領土を持つに至ったか」と問うたところ、デ・オランディア(またはスペイン人船員)は次のような発言を行った。『スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服を事業としている。それは先ず、その土地の民を教化し、そうして後、その信徒を内応せしめ軍隊とし、その兵力をもってこれを併呑するにあり』。これにより秀吉はキリスト教の大規模な弾圧に踏み切ったとされる。この経緯はスペイン商人ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンが書いた『日本王国記』に、イエズス会士モレホンが注釈をつけたものであり、似たようなやり取りはあったものと見られている。だだこの応答については、直接目撃した証言や文書も残っていないため、史実であったかについて定まった評価はない。


🔵世界を覇権する国に忍び寄る影

だがサン・フェリペ号の航海長デ・オランディアの大言壮語とは対照的にスペイン国自体には、経済に翳りがでてきていた。原因は南米の金銀と、急拡大し過ぎとなったスペインの版図(領土)だ。


南米の金と銀の発見とスペイン本国への輸送は一時的に国に莫大な富をもたらした。だが、この金銀の流入が多過ぎた。これにより市場に金銀が流出。スペイン国内は金銀が急に溢れ・だぶつき、『インフレ状態』に。これで国内の商品の価格が高騰。しかし海外貿易に力は入れていたものの、対して国内産業を疎かにしていたスペインは、国産品より安易に輸入に頼るようになり、イギリスや中国から品々を多量に輸入する国に変貌。これにより、疎かだったスペイン国内の産業は更に疲弊した。

現代ならばこういう場合、中央銀行が市場の貨幣や金銀を吸収して、インフレを抑え込む働きをするのだが当時、このような中央銀行のシステムは当時は無かった。(というか世界中に無かった)そして、南米で得た金銀は結局、スペインに輸出していたイギリスや中国に力を付けさせる結果となる。

また、大陸からの疫病により、南米では南米で使役したい南米の民は激減しており、慢性的な労働者不足、そして領土急拡大による、兵士・水夫の不足も今後の領土拡大のブレーキとなり、手に入れた世界の各地の占拠と防衛も最小限のギリギリとなっており、強力な軍事力を持つ日本に戦争を仕掛けられる状況とは言いがたかった。

このためスペイン国王フェリペ2世は1586年には領土の急激な拡大によっておきた慢性的な兵の不足、莫大な負債等によって新たな領土の拡大に否定的になっており、領土維持・防衛策に早くから舵を切っていた。

こうしたスペインの事情の全て知っていたとは思えないが、少なくとも秀吉は原田孫七郎を通じて、スペインのアジア統治は脆弱であることは正確に把握していており、だからこそフィリピンを平らげようとスペインとの関係が悪くなる事にも、お構い無しの強気の態度に出て来ていた可能性は高く、であるなら、サン・フェリペ号の航海長デ・オランディアの大言壮語をまともに受け止めていたとは思えない。だがこの暴言が秀吉の支配する日本に怒りとスペインと布教するカトリックに不信感を与えた事は充分に考えられる。


このサン・フェリペ号の事件の後、秀吉の命令で主に京都と大阪にいた宣教師と信徒を捕らえ、冬の長崎の地で処刑するという事件が起きる。『二十六聖人の殉教』である。この一件でスペインは勿論、ポルトガルも日本に対して恐怖と怒りの感情を抱き、スペインとの関係は更に良くないものとなり、ポルトガルにもショックと日本に対する警戒感を与えた。これはより、あからさまに日本侵略の本意をちらつかせていたフランチェスコ会に対する罰と、イエズス会に対しての遠回しの『警告』と捉えると

確かに秀吉のとった態度と苛烈に見える行動は今の感覚に照らせば良くないものである。だが当時の感覚で推し計り、カトリックが日本で行っていた実態と、サン・フェリペ号の事件での顛末を勘案すれば、当時のカトリックに秀吉がしたことは全面的な悪の行いと言えるのか?

考えてしまうものがある。

『二十六聖人の殉教』における、殉教者達の処刑の図。長崎の西坂にて殉教者達を磔(はりつけ)にし、両の脇に槍を突き刺し処刑した。この26人中、外国人は6名。全てフランチェスコ会の者。他は日本人信徒である



🔵家康の場合

家康は浄土宗の信者。なので仏教に対しては柔軟な姿勢。逆に仏教を取り込んで区役所つまり(檀家制度)で土人(原住民)を管理させる職を、坊主に与える。幕府は日本全部の住民の把握が容易となるし、キリスト教は弾き出せる。坊主は檀家(=信者)が決まりとして組み込める事となり収入は安定。お互いWin Winとなる。この檀家制度で仏教は幕府の手先といえる『区役所化』し、お陰で『僧兵を抱えるような強硬な仏教』はなりを潜める。

信徒は居れど、真剣に熱を持って信心する『信者』はなりを潜め、親が亡くなってから『ウチは◯◯宗だったけど、あれ?連絡する寺はどこだっけ?』の今の日本人と寺との関係を作ったのはこの檀家制度が切っ掛けだ。

ざっくりと説明するはずが、秀吉のところで思わず、時間を食ってしまった。次回はこの時代あたりの世界、特に『オランダの立ち位置と事情』を紹介したい。