『信じる事・疑わない事の強さ』と、その裏に潜む『恐ろしさ』を皆さんは知っておく必要がある。『信じ、疑わない者』は『信じず、疑う者』に対した時、どこまでも残虐に酷薄になれる。これは宗教に限らない。どこででも起こる。それが現実だ。


🔵鉄砲伝来とポルトガルの予想外の『誤算』と『カトリックにかぶれた大名』

『火縄銃(鉄砲)は種ヶ島に漂着した船にいたポルトガル人によって伝えられた。』が、一般的は日本の中・高の教科書での説明だが、実は明らかに乗船してたポルトガル商人は『日本に鉄砲を高額で売り込む目的』でこの船に乗っており、船を操船していたのは『中国(明国)人の倭寇(海賊)』に違いない『王直』という者だった。

で、この鉄砲をポルトガル商人は当時の種子島の領主に『目の玉が飛び出る高額』で売り付けた。

日本が戦国時代と知っていたポルトガルはこれで大儲けが出来るし、これをきっかけに大名に取り入り、この新兵器の銃で大名を骨抜きにしながら、大名を改宗させ、大名の命令一下でカトリックの神を信ずる信徒を作り広げれば、いずれポルトガルに平伏す日本が出来るであろうと目論む。


ところがである。
莫大な値段で火縄銃を買った種子島の領主が鍛冶屋にこの火縄銃を分解して、コピーを作ってみよと発注。そしたら翌年にコピーされた『日本製火縄銃』が完成してしまう。

この新兵器・火縄銃のコピー完成をどこで聞きつけたか?この情報はすぐに日本中に伝わり、どういう丁々発止があったのか、すぐに種子島どころか、日本中の鍛冶技術の有名どころが火縄銃製作をしだし、数年後には日本のあちこちで銃の量産体制を整えてしまう。

こんな簡単に素早くコピーするほどの技術は瞠目に値する。こんな見たこともない複雑な物、構造が分かっても素材である銃に適した鉄を作り出す技術、更にそれを形にする技術が無ければ、銃のコピーなど、夢のまた夢で、当時、発祥のヨーロッパ以外どこの国も銃の製造など出来なかった。中東も中国など、軍事力がそなわっていた国でさえも、大砲と銃器に関してはポルトガルやスペインからの輸入に頼り切りだったのだ。


ポルトガルもスペインも短期間でコピーを成功させた日本の技術力に仰天。武力と金銭での日本支配は諦めざるを得なくなる。ただし、日本側は火縄銃を使うにあたり燃焼促進剤になる『硝石(しょうせき)』だけは国内では手に入れられず、ポルトガルがインドで採ってきた硝石を輸出する事で、すぐ後にやって来たスペインも、硝石をはじめヨーロッパや東南アジアの産物を持ち込む事で、日本の戦国大名に取り入ることは続き、今度は『布教』悪い言い方でいえば『布教という洗脳』による信徒拡大による覇権を画策する。



🔵キリスト教に『かぶれた』キリシタン大名。

そんな日本の戦国時代、すっかり『キリスト教(カトリック)』にかぶれた日本初のキリシタン大名が現れる。長崎の『大村純忠(おおむらすみただ)』である。


彼はすっかりカトリックにかぶれ洗礼を受けて『殉教者』となり、『パードレ(宣教師)の勧め』で、領地の神社仏閣を焼き払い、自分の祖先を収める墓所も破壊。逆らう現地の氏子・信者を殺し、捕まえた氏子・信者はイエズス会に売り、イエズス会は奴隷として『海外に売り飛ばした』。 そして残された領民はかなり無理矢理にカトリックに改宗させ、最盛期の大村領のカトリック信者はおよそ6万人に達する。

挙げ句に寄港地として自領の横瀬浦をイエズス会を通してローマ教皇に『寄進(さしあげ)』してしまった。日本国内初の『植民地』の誕生である。 その後に長崎を寄進。ローマ教皇の覚えめでたい大村純忠は隣の佐賀の龍造寺が大村攻めを仕掛けた時、船を貸して欲しいと願い、ポルトガルの軍船がマカオからやってきて龍造寺軍を攻撃。これの感謝にまた領地を寄進と、都合3回領地寄進をしている。

大村純忠は東隣に龍造寺(佐賀)、北隣りに松浦(佐賀)、南に島津(鹿児島)、と、有力な九州の戦国大名と対峙していたので、これらに対抗するために武器を欲し、そのためにポルトガルと接触したのが切っ掛けだったが、彼らが持ち込む武器や舶来の商品と交易で莫大な利益を生む魅力に惹かれるうちに、カトリックに『かぶれ』、九州初の大名がキリシタンになったと考えられるのだが、ある意味この大村純忠はポルトガルにとっては『大名を我が宗教に取り込む事で、宗教の力で地域一帯を支配する力を得る』という、『日本支配に向けての理想のロールモデル』となったと言える。

そして大村純忠ほどではないが、九州は豊前の大友宗麟や小西行長など有力な大名が洗礼を受け、カトリック改宗。気がつけば九州は『キリシタンの住まう国家』に変貌してきていた。


ちなみに大村純忠の3回目の土地寄進の頃、ポルトガル王が後継者を成さないまま遠征中のモロッコの戦地で逝去(正確には生死不明)し、ポルトガル王が率いたポルトガル軍もモロッコ遠征に失敗。そこに母親がポルトガル人のフェリペ二世が『俺には(ポルトガル王の)王位継承権がある!』と軍隊を引き連れて威圧し、ポルトガルを併合する。(1580年)こうしてフェリペ二世は『世界の王』の位置を獲得している。

次回はこの日本の動きに対する当時の『日本の王』の対応などの巻。を予定。