さて今回、こうやってアイヌ協会を筆頭とした、アイヌ擁護派。そしてコレのシリーズ化が決定化した切っ掛けを作った『伊藤浩士氏』、そしてこの記事を見ている皆さんに、前々からの『疑問』を投げてみたい。

🔵アイヌは本当に皆が皆、貧窮していたのか

確かに大昔から『半奴隷制度』があるアイヌは、そのアイヌ社会内で『格差』はあったが、(アイヌ擁護派は全くこの事実を無視しているが)

それは明治政府によって、奴隷制度は撤廃された。だが、近代化を目指す日本の社会と考えに、多くのアイヌは戸惑い、立ち遅れ、結果として政府が看過出来ないレベルの貧困が蔓延し、それが続いていた。そこでアイヌ民族救済措置として【北海道旧土人保護法】が誕生するのだが……。

取り敢えず、これまで紹介したアイヌの先人の経歴を見てもらおう。


バチェラー八重子(やえこ)

出生地: 北海道 伊達市

生年月日: 1884年6月13日

死亡日: 1962年4月29日(77歳)

民族: アイヌ民族


出生地は北海道伊達町有珠。戸籍名(和名)は「向井八重子」、幼名は「フチ」。

父はアイヌ豪族の向井富蔵で、アイヌ名はモコッチャロ。母はフッチセであった。なお弟に向井山雄がいる。


吉田菊太郎(よしだ きくたろう)

出生地: 北海道 十勝 幕別村

生年月日: 1896年7月20日 

死亡日: 1965年1月8日(69歳)

民族: アイヌ民族


経歴
吉田 菊太郎(よしだ きくたろう、1896年7月20日 - 1965年1月8日)は、昭和時代のアイヌ民族運動家。

十勝国中川郡幕別村字白人(チロット)村に、父で幕別村のアイヌの首長トイペウク(庄吉)・母アシマツ(マツ)の長男として生まれる。白人小学校・幕別高等小学校を卒業し、父を継ぎ農業を営む。


知里 真志保(ちり ましほ)

出生地: 北海道 幌別郡(現 登別市)

生年月日: 1909年2月24日

死亡日: 1961年6月9日(52歳)

民族: アイヌ民族

アイヌの言語学者。文学博士。北海道大学名誉教授。専攻はアイヌ語学。出身校・東京帝国大学(現東京大学)

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🔵彼らの『バックグラウンド』に注目せよ


アイヌの偉大な先人達の生い立ち・経歴を読んでお気付きになっただろか?

バチェラー八重子は…
父・アイヌ豪族の向井富蔵の娘で、

吉田菊太郎は…
十勝国中川郡幕別村字白人(チロット)村に、父は幕別村のアイヌの首長トイペウク(庄吉)の息子であり

知里真志保は…
北海道大学名誉教授で、東京帝国大学(現東京大学)出身なのである。

そう3人共々『金持ち(裕福)』の家の出なのである。

これに『知里真志保は学歴だけで、両親が富豪かどうかわからないじゃないか』という向きもあるだろうが、では彼の姉でありアイヌ語研究を大いに飛躍させるも19歳で夭折した『知里幸恵』を紹介しよう。


知里 幸恵(ちり ゆきえ)
写真は逝去する2ヶ月前の最後の写真

出生地: 北海道 幌別郡(現 登別市)

生年月日: 1903年6月8日

死亡日: 1922年9月18日(19歳)

民族: アイヌ民族

知里幸恵は、北海道登別市出身のアイヌ女性。19年という短い生涯ではあったが、(死因は重度の心臓病だったと目される)その著書『アイヌ神謡集』の出版が、絶滅の危機に追い込まれていたアイヌ伝統文化の復権復活へ重大な転機をもたらしたことで知られる。


🔵知里幸恵と知里家の系譜

1884(明治17)年4月15日

幸恵の父の高吉(たかきち)は、北海道幌別(登別)の酋長チリパ・ハエプト(和名は知里波ヱ登)と、母・加之の息子として生まれる。

1902(明治35)年4月
知里高吉と金成(かんなり)ナミ結婚。

1903(明治36)年6月8日
幸恵生まれる。

1904(明治37)年 幸恵1歳
祖父ハエプト、熊狩りの仕掛矢(アマッポ)に誤あたり死亡。この時、父高吉は日露戦争に出征中。

1909(明治42)年 6歳2月24日
弟・真志保生まれる(東京帝大出身、後にアイヌ語研究の言語学者となる。)

この秋、幸恵は旭川近文の聖公会伝道所にいる金成マツのもとに領けられる。伯母の金成マツの養女となり、育てられる事になる。この時、幸恵6歳。

長女の幸恵を何故伯母のマツが養女にしたのか?の理由では、元からナミと知里高吉との結婚条件の中に、金成家を絶やさない為、知里家の娘を養女に貰い受ける約束があったという話、幸恵の父が事故を起こして知里家の生活が困窮したとの話があるが、真相ははっきり分かっていない。

そして金成マツと知里真志保の父・高吉の妻でマツの妹のナミ、そこから金成一族も調べたが、金成一族は旭川の豪族。つまり、金成一族もまた『酋長、アイヌ名【カンナリキ】の子孫』なのだ。


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今回は知里幸恵・真志保のストーリーを最後まで追う趣旨ではないのでここまでにする。 見ての通り、知里姉弟(兄弟)の父親・高吉の親であり、幸恵の祖父も幌別(登別)アイヌを取り仕切る裕福な酋長だったのだ。



結論から言おう。彼らアイヌを取り扱った学問や文学の先人達は、『各地のアイヌの酋長とその一族の子孫』で、既に当時のそこらの日本人では到底叶わない『資産と資本力を持った実力者の一族』でもあったということだ。 そういった彼らをアイヌだからと言って日本政府は弾圧などしてかったというのが事実で、アイヌ協会を筆頭としたアイヌ差別、一方的にアイヌを日本は弾圧してきたのだ!と訴える事は、大きな嘘である。


こうした事は読んでれば、遅かれ早かれ気付く事なのだが、こうした事をアイヌ協会を筆頭としたアイヌを擁護する勢力は、彼らの功績は語れども、彼らの生い立ちの背景に付いては、評価もしなければ、一切語ろうともしない。



🔵アイヌはどこまで差別されていたのか?

上記の偉大なアイヌの先人というべき4人はいずれも『高学歴』である。

アイヌ協会やアイヌ擁護派は『アイヌは大昔からひどい差別を受けており、和人(日本人)に虐殺されたのだ。』と盛んに喧伝しているが、それが事実ならば、『全てのアイヌは人間扱いされていなかった』となる。

そうならばこのアイヌの4人はまともな教育どころか、高い教育を施す学校になど行ける筈もない。 ないのに、彼・彼女らは立派な教育を受け、知里真志保に至っては東京の帝大(現・東大)に入学し卒業しているのだ。

しかも知里真志保は結婚離婚を都合3回も繰り返しているが、その彼の奥さん3人とも皆、『日本人』なのだ。もし『アイヌは人間以下』の扱いだったのならば、知里真志保は日本人女性との3回もの結婚・離婚は天地がひっくり返っても不可能な筈だ。


もしアイヌがアイヌ協会を筆頭とした擁護派の訴え通りなら、日本人は『アイヌは獣(けだもの)人間以下』の取り扱いを明治になってもやっていたという事になる。


だが実際は全くの真逆なのだ。

つまり、アイヌの酋長とその一族は江戸時代から、確実に『莫大な収益』を得る術を持ち、更に時代が進み明治期に入ると自分の子供達を日本の学校に積極的に通わせ、元手となった資力を子への学業という『投資』で更に財を成し、当時のそこらの日本人には及びもつかない財力を称えるほど隆盛しており、

その一方で、長らくその酋長とその一族に被支配されていた一般・半奴隷だったアイヌは知恵も金になるやり方の術もロクに知らず、日本の経済のやり方や、それに必要な知識も知る術も知らずで、それによって陥った貧乏の沼からの脱出も出来ないという、


つまり明治期の北海道のアイヌ社会は
江戸時代以前の酋長一族と奴隷アイヌという、格差社会から、

明治期はその資力を子への学業という『投資』で、相変わらず勢力を保った元酋長一族の富裕層と、その知恵すらも持てずに貧困にあえぐ一般・元奴隷アイヌという『新たな格差社会』の構図となっていたのだ。


ついでにいえば『金持ちは金持ちと友達になる』という、つまりそれぞれのステージ(階級)のコミュニティ(集団)が出来上がってしまうのは、どの時代でも当然の流れで、北海道内各地方で前々から資力を蓄え、明治になってからは子供らの教育が金になる。と子供達への投資を惜しまない『元酋長の家柄である富豪アイヌ』は、明治になると元酋長一族達お互いが集まり、元酋長一族コミュニティを形成。 そのコミュニティの中で『最新の儲け話』の情報交換を盛んにやっていた。と考えられる。昔も現在も上流階級の集まりは正にソレだからだ。

その証拠に、登別市の元酋長一族の末の息子アイヌ(知里家)と、旭川の元酋長一族の末の娘アイヌ(金成家)の婚姻なんて互いの住まいの距離からしてあり得ない。