最新➡「韓国と軽自動車」の項を追加

 

 

儒教は学べば分かるが、説明となると難しい。しかし「我らが一番」と何の根拠もなしに思い込み、現実を見ない民族主義な思想で、この思想は中国、韓国国民に刷り込まれている。

 

 

丸ブルー儒教は世界観を貧しくさせる思想。

 

 儒教の説明は順序だてれば分かるものだが、歴史から語る必要もあるので非常に面倒。 「教」の字がついているので、宗教という考えもあるが、神らしい神は存在しない。どちらかといえば「○○主義」の方に近しい「イデオロギー」といえる。

 

宗教もイデオロギー(○○主義)もそうだが、「神の存在を証明しろだと!? 神の存在をどうこう言うこと自体が神に対する不敬である!! けしからん!! 」

 

…と怒鳴り散らす神を信じて疑わず、神を疑う者に激怒する人物がいるように、イデオロギーを熱狂的に信奉する者も「無批判に信じる考え」に発展する性質があり、「思い込む」と、イデオロギーは宗教のように、宗教はイデオロギーのように振る舞う。 


神ありきだろうと、神抜きであろうと、確信する(ソレ➡宗教・思想・主義を信じて疑わないコト)というのはそういうものだ。

 

 

身もふたもなく言おう。宗教も主義も「どちらも似たり寄ったり」なものなのだ。

 

 

そのなかで『イデオロギー』に自分はカテゴライズしている儒教の歴史も酷い話として読むと面白いのだが、その儒教の説く世界観は今の中国と韓国に政府レベル・人民レベルに「世界の潮流の思想と相いれない考え」を作り出し、両国は大分、世界から嫌われている。

 

 

丸ブルー差別意識をはぐくむ思想

 

 

儒教は漢民族の中で育まれた思想。その根本の思想は結果として「我らは世界の中心に座している者たちだ」という意識を生み、結果、中国では「我が漢民族は一番」韓国も「我が朝鮮民族が世界一」という「民族思想」を常に喚起させる。それが儒教だ。

 

中国の事情はよく分からないが、韓国人は外国人との結婚に抵抗感が強い。

 

自分たちの民族が一番だから、その優れた民族の血に「余計な血が混じる」ということに抵抗があるのだ。

 

さらに「我らが一番」という思い込みから「差別意識」が生まれ、自分たちが「格下」と見ている国の人物が家族の「婿候補」「嫁候補」として現れると、それに対する拒否反応も増す。つまり「差別意識」が増すのだ。

 

 

 

両国は形は違えど「差別思想」を常に抱え、それによる問題を起こしている。

 

 

 

丸ブルー亡霊に縛られた国

 

 

儒教には死後、魂が行き着く世界は言及されてない。仏教のような「成仏」の概念もないし、天国も地獄もないし、魂が生前の行いの良し悪しで六道のいずれかに向かうという概念もない。

 

肉体から離れた魂は千年も万年も億年も現世を漂う。(魂のイメージとしてはガス)

 

だから家族の系譜(先祖)が「亡霊」として常に隣にいるわけで、その亡霊が常に今生きている者に語り掛ける。だから先祖が抱いた「恨み」は絶対忘れないし、忘れてはならない。 忘れるものは親を先祖を蔑ろにしていると激怒される。

 

だから何百年も昔の事でも、先祖の恨みに関することは今起こっていることのように、今の者が怒れる。韓国人が豊臣秀吉が指揮した日本軍が朝鮮に軍事侵攻したことを昨日のことのように怒れるのはそういう理由だ。

 

また「極悪人」のレッテルを張られた歴史に名を残すものは、いつでも罵倒・侮蔑の対象となる。 歴史に名を遺した悪人の像は今でも蹴られ、罵声を浴びせかけられ、唾を吐かれ、墓を壊される。 悪人の魂も今もこの瞬間、今の世界を漂っているからだ。

 

 

「嫌な事を水に流す」「関係を仕切り直す」という感覚意識は両国の国民の大半にはない。

 

 

 

丸ブルーまとまっているように見えて「まとまれない国」

 

韓国も中国も「抗議行動」と称して、何万人も集まり泣き叫び、憎いものを燃やし、引きちぎり、燃やし、ヒートアップして大暴動。といったことをやるので「 (中国と韓国は)ある意味まとまっているなぁ( 同じ考えの人がこんなのにもいるのか )」と思うだろうが、実は個々は「全然まとまっていない」

 

 

儒教で大事なのは「徳」で、その徳を積むのに最も大事なのはまず「親へ、先祖へ孝(こう)を尽くすこと」と説いている。 親と先祖へ自分の心を砕き、親や先祖に己を捧げることこそが大事とされる。

 

昔の中国の文献には戦争の最中というのに、将軍クラスが親の病気を理由に戦線を離脱したりしているが、「これこそが親への孝である」と許されていたし、これを利用して政争から逃れるため、あるいは兵役を逃れるために親の病気を利用している話も残されている。

 

つまり家族・親族への孝行が国の一大事よりも大事なのが儒教の教えなのだ。 そして現在の韓国の話となると、儒教では大事にすべきとされる家族や親族と過ごす行事が年に何十回もあるという。

 

 

つまり家族、親族との付き合いに毎年毎年忙殺され、地域社会とはまるで繋がれない状態が当たり前となっている。

 

 

そのためか世界の情勢、社会の問題、政治問題などなどがすべて「家族・親族の視点」でしか見れなくなる。

 

つまり「我が国の威信が汚(けが)された」「馬鹿にされた」というのはそのまま「自分が馬鹿にされた」「家族の威信が汚された」に直結し、だから国際問題で腹が立つことがあると日本でも世界でも考えられないくらいに、中国、韓国では国民が「短絡的」に「爆発」する。 両国では国家間の問題も「家族親族問題」と同レベルなのだ。(当人たちにその自覚はない)

 

 

当然だが、政治も世界の問題も「家族親族レベルの問題と同じであるはずがない」

 

 


しかし儒教の教えに染まると、国家の問題も家族親族問題と同等となってしまうのだ。だから国の威信が穢されたと感じると後先も考えすに短絡的に激怒・暴発する。

 

そして腹が立つから、国際条約だというのに、それを平気で無視して交わした条約を反故にしてくる。

 

 

個々の家族の中には「特異なルール」があるものだが、そのルールは文字に書き起こされていないし、いつでも家族内で「ルールの追加」「ルールの撤廃」「ルールの変更」は日々行われる。儒教国家では「家族内のルール≒世界のルール」なので、この特異な家族内ルールが国際間でも平気で適用されるのだ。

 

 

これでは儒教国家の中国・韓国・北朝鮮以外の他国はこれらの国々とは付き合えない。

 

 

 

 

丸ブルーでも個々の問題だからすぐに冷める

 

中国も韓国も「家族・親族」がいの一番となるのだが、裏を返せば地域間・自分たちの身内ではない者達へとの繋がりが希薄なので、すぐに「冷める」。

 

 

加えてパワー( 力、お金、権力 )に弱いので、当然これらのパワーへの渇望に由来する「欲望」に抗えない。だから国中で怒号のような怒りの雄たけびを上げても、日がたつと、その怒りから離脱するものが直ぐに出てきて、いつの間にか怒りが立ち消えとなる。

 

近年の韓国の「ノージャパン運動」がよい例だ。

 

あれだけ日本の製品のあらゆるものが、怒りを込めての「買うんじゃない!」だったのに、いつの間にか立ち消えとなった。日本の商品を欲する己の中の欲望に結局はあらがえなかったのだ。

 

韓国ではこういう国民の性質を鍋根性(鉄鍋はすぐ熱くなるが、すぐ冷める)」と、韓国人達は自分たちの気質の事を自虐的にこう表現するのだが、韓国人が鍋根性なのは、そもそも『皆で一緒に』の連帯意識がそもそも希薄で、結局は自分に甘い『個人』の葛藤レベルに落ちるからだ。


中国人もお金(マネー)に根本的に弱い。自分が儲かるならば、得するのならばプライドはすぐ引っ込む。

 

 

丸ブルー地域社会に特色がないのも儒教のせい

 

先に述べたように家族・親族を第一義とする儒教は結果的に地域間の繋がりを恐ろしく希薄にした。 そのため地域愛というものが希薄になるし、地域の交流がないから、地域独特の食べ物、文化、行事といったものが、なかなか生まれない。

 

そのため地域固有の特色がなくなってしまう。

 

韓国人が露骨に日本をヘイト(憎む)する言葉をあらゆるメディアで飛ばす一方で、日本に観光しに来る韓国人が多いのも、リピーターの数が多い訳も大きな理由の一つは「 自国(韓国)の国内に見どころ、面白いもの、食べたいものがない。 」 つまり『自国の地方に面白みがない』からだ。

 

 

 

韓国における地方・地域の面白みのなさも儒教が作り上げたもの。といってよい。

 

 

 

 

丸ブルー力の大小、強弱でしか世界を見れなくなる。

 

 

儒教には「あの世」の定義がない、

一方でこの世での「聖人への道」を説く。

そしてあの世がないから生まれ変わりがないので、「聖人への道は」生まれた自分一代で成就させるしかない。つまり徳の成った、聖人への道は「時間制限付き(自分が生まれてから死ぬまで)」なのだ。

 

 

聖人に必要なのは「徳」である。

徳は先ずは「先祖への畏敬と」「両親への孝行」がいの一番で、次いで「親族への孝行」、そして勉学し、知識・知見を得て、身に修めることである。 しかし親達への「孝」を尽くし、知を得るのは人生を考えると到底足りない。 働いてなどはいられない。

 

だから「一刻でも早く働かなくても良い身分を目指す」に行き着く。

 

その最高の自分を得るために、ある者は勉強勉強勉強付けの人生に明け暮れ、ある者は出世の先にある「権力獲得」に奔走し、ある者は「金持ち」になるための道を走りだす。

 

金さえあれば、強い権力さえあれば、他者に自分の時間を拘束されず、逆に他者の時間を自分が縛れる力を得られる。

 

そのため、両国民は金持ち、権力者、つまり「パワー」に憧れ、「パワーのあるものに」に取り憑かれている。

 

そういう人生観だから「パワーを得る術があるというのなら、不正をしたって構わない。」となる。なにせ先祖・両親・親族を大事にし、それ以外はアカの他人(余所者)が儒教によって刷り込まれているから、アカの他人を出し抜いても良い、不正をしても良い、足を引っ張っても良いの考えに傾き易い。

 

こうして『勝者になれる手段があるのなら何をおいてもその手段を活用すべきで、しないのは阿呆である。』の考えを育てる土壌が儒教によって作られた。

 

 

 

丸ブルーかくして儒教国家では「不正・腐敗」が横行する。

 

五輪での両国選手のあからさまな「不正行為」がニュースに上ったのは、そういう勝つためなら手段を選ばす。が韓国人や中国人のマインドとして常態化しているからだ。

 

敗者は本当に「敗者」。両国では「負けたら(人生の)終わり」で負けたらアウト。だから負けられない。負けないためには「不正もアリ」となる。

 

 

結果的に物事すべてが「力の強弱」「力の大小」という貧しい眼鏡越しでしか世界を見られなくなるのだ

 

 

韓国政府も公共放送も平気で「不正な画像・映像」をでっちあげ「我が国は世界に冠たる先進国」の方向に誘導するような画像・映像を垂れ流す。文言を切り取り、実際は自分たちが頭を下げたのに「日本が頭を下げた」と文章を作り変える。 自分たちの思い通りにコトを運ばせるために不正なにするものぞ。と道徳的にも法律的にも「悪い事」なのに、その悪いことに対する心のハードルが低い。

 

 

 

丸ブルー罪は絶対認めない

 

自分に降りかかる災難は人生の終わりを意味する。儒教の世界観ではあの世がない以上、「徳の高み(聖人)への道」は自分一代のうちに成し遂げねばならないから、犯罪で捕まることは、その戦いの舞台からの退場、人生の終わりを意味する。罪人となったら下手をすると二度と立ち上がれない。だから何があっても自分の非は認めない。認めない代わりに他の誰かに罪を擦(なすり)り付け、自分だけは逃れようとする。

 

 

丸ブルー自責の回路がない、もしくは非常に小さい



ミスや失敗など、これらの責任逃れが普段から当たり前だから、恥じるポイントは常にズレて、そのズレが大勢を占める。この恥じるポイントのズレ感も中国、そして韓国では非常に見かける。


例えば韓国の企業が、外国の工事を引き受けるも、杜撰な工事で結果、現地の国民がその建造物が原因の事件事故が起こり、そのニュースに対して「我が国の恥だ」といった趣旨のコメントはそれこそ溢れかえるが、事故で死傷した現地の方々に対する悼むコメントやお詫びするコメントは本当にごくごく少数。このような自国の問題のニュースに対するコメントが韓国・中国では、その情報の中で1番辛い立場に思いを馳せるコメより、自国の立場に気を揉むコメントで埋まる光景を当たり前のように見かける。 


コメントを投げた者達にとって、事件は自分の事ではない他人事で、死傷した方よりも自国企業の杜撰な工事を暴かれたことが、あるいは自国の政権の失態が世界にバレた事の恥ずかしい思いばかりに気を取られるのだ。これは「自分が恥をかかされた」由来の怒りだ。かかせたのは杜撰な工事をした韓国企業。



だが本来、我が事ではないので、このような自国の問題も、それがどんな問題だったかもすぐ忘れる。問題の本質は何なのだろうとか、本質を追及するコメントも滅多に見ない。結果「誰が悪いんだ」の責任の追求ばかりに終始する。そして杜撰な工事をした企業も企業で「責任逃れ」をする。


一言で言うと、一事が万事「他人事(ひとごと)」。

思いやりは身内には向くが、他には向かない。

そしてあくまで責任は自分には無い。つまり「他責」なのだ。




丸ブルー常にパワーを基準にした序列を気にする社会


儒教は「徳」を積んだ頂点の「聖人」への道を説いたもの。その徳は先ず何よりも「祖先」「祖父母」「両親」と目上に孝行することであると説く。(その次が親族)


そして「祖先」「祖父母」「両親」は子らにこれに従う事を求める。「従う」は自分の思いは押し殺しても従う事(見も蓋もなく言うと盲従)が良しとされる。



ちなみに儒教は男女にも格差を作り出した。『血脈・血族 血のルーツ』を教義の結果として重視するからだ。儒教では常に女性は男性より「格下」扱いとなる。夫に先立たれた寡婦(未亡人)は亡くなった夫との間に子がいたら、その子が独り立ちするまで再婚は許されない。


子がいなかったら、嫁ぎ先の両親の面倒を死ぬまでみなければならない。


両親もいなかったら、夫の死を泣き叫び悲しんで食事も摂らず、飢えて死ぬ「殉死」が求められた。


中世の中国・朝鮮では上記の事が当たり前に断行されていた。


儒教社会が女性に求められるこれらは苛烈で、中国では2度目の夫を得ず一生を終えた、あるいは殉死した寡婦を「烈婦」「烈女」として褒め称え、名前とともに石に刻んだ石碑があり、その石碑に残された人数を推定すると百年の間に控えめで全国で数十万人。多くて百万人以上が死んだ(死なされた)可能性があるという。


これは男性には全く適用されず、男系社会故に男児を次代に残すのが祖先崇拝の存続(血脈の存続)が絶対条件なので、夫が妾を囲うことは当然のこととして認められた。


その妾の子は本妻の子より「格下」と決まっており、たとえ才能があっても本妻の子より、本妻の子の同僚より上の地位を得ることは不可能だった。


こうした考えが家族・親族を域を越え、社会に適用されると、自分より「年齢が上」「地位が上」「権力が上」に盲従するが当然となる。


こうした儒教による家族間の厳格な序列が社会にも適用された結果、序列社会を生み出した。




丸ブループライドは通常の3倍


韓国も中国もプライドだけは高い。その高さはシャア大佐の搭乗機並。もしくは世界最高峰のエベレストより高い。


韓国にコロナが再び蔓延し始めた2020年3月。警戒感を抱いた日本は韓国への出入国に「(韓国からの日本への)入国制限強化をする」を実施すると発表。すると韓国政府は激怒。即日、日本人への短期滞在用(90日以内)の査証(ビザ)免除の停止を発表するなど、もはや"報復"措置といえる露骨な報復措置を行う。


結果、余りの早さに韓国在住の日本人留学生や日本人ビジネスマンなどは困惑・混乱に陥る。


だがこの時、すでに100以上の国と地域が韓国に対して日本の取った措置ど同様のことをしており、同日には、オーストラリアも韓国からの入国制限措置実施を発表していたが、こちらには韓国はなんの反応も見せなかった。


プライドと反日と「相手国のパワーのある・なし」の眼鏡越しに世界を見ている結果、情けないほどのチグハグ対応をする韓国。と馬鹿にされる。が、韓国メディアは日本への報復のニュースは流すもオーストラリアの事は報ぜず。と、しらんぷり。国民に向けては意図的な情報操作を行っている。



同じく


2022年12月8月

コロナのコントロールに完全に失敗した中国は、民衆のデモに屈し、今までのロックダウン(ゼロコロナ政策)を撤廃。しかも患者数も感染の広がりも観測しないという放棄という無法・無責任措置に転換。 これでは、14億人の民の中でコロナの新たな変異種が誕生、パンデミックの恐れがあるとみた日本は2022年12月30日、中国の入国を制限を実施すると発表。7日以内に中国本土へ渡航歴がある人に入国時検査を義務付けた。




これに激怒した中国は翌2023年1月10日、水際対策を強化した日本と韓国にビザ(査証)の発給手続きを停止する報復措置に出た。日本などの水際強化は感染の実態すら公表しない中国への当然の防疫対策だが、中国側は事実上の入国禁止措置ともいえる過剰反応を見せる。「ゼロコロナ」に失敗した習近平政権が、外交でも醜態をさらし、この中国の〝逆ギレ〟措置に対し、日本政府関係者は「極めて身勝手だ」と反発、林芳正外相は訪問先のアルゼンチンで10日(日本時間11日)、「新型コロナウイルス対策とは別の理由で発給制限を行ったことは極めて遺憾だ」と述べた。 そして韓国外務省当局者は中国の短絡的な反応に「科学的で客観的な根拠に基づいた措置」と反論した。この中国の怒りに任せた嫌がらせがいつ終わるのか?


現時点では全く見通しは立っていない。



両国ともプライドの高さと短絡的な仕返しという反応が全く同じ。自分達では何も出来ずで手をこまねいているから、こっちが制限をせざるを得ないというのに、他国に何かされると「舐めている!」と激高し、短絡的な仕返しをする。



これも儒教の影響と見られる。(日本は何が何でも格下。だから日本の行為は自動で舐めた態度という認知になる。)


ちなみにその後、韓国も中国も日本以外の国々から次々と入国制限措置を受け、シュンとなってしょげ返る。


ここで得られる見解はやはり両国とも「相手の力のある・なし」の眼鏡(フィルター)越しに世界を見ていて、弱いと見た国には強硬な態度をとり、強いと見た国には何の反応もしない・出来ない。という、ハタから見たら、プライドは異常に高いくせに、みっともこの上ない恥ずかしい事をやっているのだが、当の両国はそこら辺が恥ずかしい事だとは全く感じでいないところだ。 


因みに中国。

アメリカがやった中国に対する入国制限には何の反撃も取らなかった。これを恥ずかしいとは思って無いようだ。


常々思ってるのだが、あの2つの国の住民は「異星人」。多くの地球人のルールからは明らかに逸脱している。




丸ブルー序列社会がファッション・スタイルに影響


常に気に病む程、序列を気にする儒教化社会の中国・韓国では「裸になれば皆一緒」の感覚は困難である。自分のステージが上がったのなら(出世・栄達したのなら)、そのステージに見合う衣装、食事に切り替えなければならない。という思考になる。


衣装は誰が見ても「良いモノを纏っている」なければならない。結果、日本人なら「野暮天(ダサい)」とされる有名ブランドの柄や、ブランドロゴがデカデカと描かれたもの着るのを中国人も韓国人も好む。ロゴが大きければ遠くからでも金持ちか?そうでないかが一目瞭然でだからだ。一目で分かるブランドモノを纏うは自分の『力』を周りに見せつける為……という訳だ。



一度韓国の自転車クラブに誘われて、バイクを持って韓国に行ったことがあるが、迎えた韓国のライダー達の自転車は高級ブランドのピッカピカ。ヘルメットがどれもプロモデル、グラスはオークリー、ウェアもオークリー、グラブはトロイ・リー・デザインのトップモデル、(いずれも自転車業界では、お高めの有名ブランド)あとは価格はよく分からないが、それら全てにデカデカとブランドロゴが付いていて、全体はダサい金持ち。これに「うわぁ…」と「引いた」ことがある。



中国ではディーラーに自動車を買いに来る富裕層の客は、買うとき「ここで1番(値段の)高いモデルはどれだ?」と聞いてくると言う。性能に惚れていて買いに来たんだ。と思いたいが違う。兎に角1番高い物(最高級品)を求めるのだ。 当然、車の会社を表すヘッドマーク&車名は大きものが好まれる。



🔵韓国における「軽自動車レイシズム」



韓国は軽自動車を中国と同じ価値観から「格が低い」「貧乏人」「運転下手な女・老人の乗るもの」買うこと・乗ることは恥。と思っており、韓国の経済が不況の時は軽自動車の売れ行きは伸び、好況の時はあからさまに落ち込み、結果として何時までも自動車業界に於いて確固たる地位を得られない「日陰者」な存在。という実に分かりやすいデータが出ている。




「軽自動車乗り=貧民・格下」のイメージは、そのまま乗っている人物への差別に発展しており、軽自動車でホテルに乗り付けたら、ホテル側に無視される、飲食店に冷遇される、普通車を追い越したら「軽の癖に生意気だ!」と抜いた車が「煽り車」に変貌して追い回す。といった軽自動車への侮蔑からくる差別が起きている。



丸ブルー技術力がないのも儒教のせい

 

韓国も中国も「技術力がない」。

ここで言う技術とは「創造する最先端の技術」のことだ。

 

韓国がこれまで半導体王国であったことは事実だが、自ら画期的な発明はしたことがない。さらにこの半導体を作る機械、精密な半導体を作る上で必須な高純度の「フッ化ポリイミド、レジスト、フッ化水素」を作れない。 中国も半導体の自国製作に取り組んでいるが、高性能のモノを作る技術がまだない。 なぜこうなっているのか? これも儒教観に照らせば分かる。

 

儒教の高みの頂点は「徳」。その徳を得るために必要な材料は金・権力・地位などのパワーである。会社内の製作の現場に長年いるプロと呼ばれる技術陣もこの儒教の考えに染まっているので、昇進や出世のチャンスがあると、さっさと現場を離れ、手にした工具を手放し、かわりに持ち場のボスとして、ペンを握る「管理職の側」へと転向してしまうのである。

 

 

このような状況だから「プロの極みに到達した者」が生まれない。

 

 

会社内で最高の腕をもっていた人物が、昇進を機に、さっさと手に持っていた工具・道具を手放し、代わりに部下を管理するためのペンを握る。 だから人が育たない。

 


社内一番の人間が現場を抜けるから、技術の進歩が止まって停滞どころかダウンするのだ。

 

そしてこの昇進の競争に負けた同輩のプロ達も、素晴らしい儲け話があれば、今自分が手に持っている技術も容易にほっぽり出して、別の仕事に就く。

 

この傾向は中国・韓国の両国にみられる。

 

 

 

丸ブルーだから「技術は盗めばいい」となる

 

儒教の考えに染まっている両国は新技術の創造力が育つ力がない。だから「技術は他国から盗め」「儲かっていそうなモノはパクれ」となって平気で窃盗をする。他国のプロフェッショナルをヘッドハントして、技術を吸い上げる。誰でも窃盗をするから、よそ様の何がしかを盗むことに対する道徳のハードルが低い。それどころか「盗まれるようなワキの甘さを見せたあっちが悪い」と盗まれた方を嘲笑(あざわら)う。盗挙げ句に盗んできたことを手柄として自慢する。 こうした荒んだ文化が儒教の世界では育つ。

 


中国のインターネットにウィルスを仕込んでの窃盗は勿論だが、韓国などは米国戦闘機の最重要&韓国軍は分解してはならぬと禁止していた重要部品の技術をパクりたいがために分解を試み、(リーバースエンジニアリングという)それがアメリカに知れてしまい、激怒されたなど。盗窃エピソードを上げればきりがない。

 

 

丸ブルー記憶にある韓国の「潜水艦」

 

韓国は自国生産で潜水艦を作った。

型番は孫元一(ソン・ウォニル)級潜水艦。

3番艦が安重根(アン・ジュングン)という名前だった奴。これが酷い造りで、1番艦の孫元一を始め、孫元一級潜水艦はどれもまともに動けていない。

 

原因は「韓国造船技術陣の技術力のなさ」これに尽きる。

 

設計図はホヴァルツヴェルケ=ドイツ造船(HDW)であり、設計図通りに作れば、この会社が示した能力の潜水艦が誕生するはずだった。韓国はこの会社から設計図を買い付け、船体の製作は自国で行なう方法をとった。

 

しかし、潜水艦の船殻の溶接技術が劣っていたため、潜航のたびにボルトが緩む、折れるの事故が発生。ほかの部分も問題が頻発。そういった問題が2番艦、3番艦にも波及。結果どれもまともに動いていない。

 

この状況を身もふたもなく言えば、日本やドイツ、アメリカの技術力で作られたものは「大人のプラモデル」韓国の技術力て作られたものは「子供のプラモデル」といったものになる。

 

接着剤のはみだし、下手糞な塗装、表面処理の不適切。 同じプラモなのに大人の作と子供の作みたいな出来栄えの差。これが起きるべくして起きるのが両国なのだ。

 

 

だが、北朝鮮は侮れない。 他国の設計図をパクって、それを元に作っているとはいえ、あそこまで弾道ミサイルを作り上げる技術は確実に韓国を上回っている。

 

 

 

丸ブルー潜水艦の話には不正も

 

孫元一級潜水艦の1番艦・孫元一の話だったか、海中の水圧に耐えるべくドイツの会社が指定した強度のボルトを使わず、同サイズの韓国製の安物ボルトが使用されていたとか。 高級ボルトと安物ボルトの値段の差額の分は、関係者が着服したという。儒教の世界観では詰まるところお金(資金)は必須となる。だから賄賂や着服も横行する社会となっている。

 

 

 

丸ブルーチング(親友)の意味

 

韓国だと気の合う人と出会うと、すぐにチング(親友)となるが、日本人の感覚からすると、その親友となる速度と接近の度合いが尋常ではない。気が合えば彼らはあっという間にチングになる。

 

友達同士でお菓子を「一緒に食べよう」で分け合うはよくある光景だが、韓国の場合、チングになると、友達のお菓子が美味しそうだったら、その友達が菓子の袋を開けるのではなく、お菓子の持ち主でもない友達が食べたいなと思ったら、勝手に開けて食べる。友達が不在なのに勝手にモノを借りる。 「君、日本に戻るんだろう」と先日チングになったばかりの者が高級カメラの購入を頼んでくる。

 

 

これは「友達という関係が怖いから」と考えられる。

 

 

つまり韓国でいうところの「チング(親友)」はイコール「(家族内の)兄弟・姉妹」になると同義なのだ。

 

なるほどチングが親友ではなく、チングとは自分の姉妹・兄弟になるような考えなのだと思えば、韓国人の異様な友達との付き合い方、接し方もなるほど。と思えるが、これがキツイ。 恐らく世界各国の友人の付き合いの仕方と比較してもキツイ。 だが韓国人はこれを当たり前としているし、 この付き合い方を分かってくれない日本人たちに「日本人がわからない」と歯噛みする日本に来た在日韓国人の嘆きもよく散見される。

 

儒教では家族・親族が一番で地域間の交流も別の家族との交流も希薄である。

 

それでいてパワーを求める競争社会で他者は押しのけなければいけない敵にもなりうる存在なので、「友人」だとて警戒すべき相手なのだ。

 

だからこそ逆にチング・チングといって「友達(という名の疑似家族)になりたがる」 家族となれば身内。身内であれば敵ではないから安心できるからだ。

 

でも、そういう付き合いも結局は他人なので、自分がそのチングを蹴落とすことで上に立つチャンスが巡ってきたら、あるいは自分に災難が降りかかる。チングに迷惑をかけてもその罪から逃れたい。となれば、そのチングも平気で裏切る。 ということになる。 これは中国でも見られる。  (受験会場の日時が変更になったことをライバル視した中国人の友人(日本へ来た留学生)が知っていてワザと教えなかった話をした当時、大学生だった日本人女性の話しを読んだことがある。)

 



丸ブルーかくして事業は「ファミリービジネス」となる。

 

儒教国家では他人を信じることができない。

だから事業を起こすとなれば結局は「家族経営」となり、役員・従業員は妻か子供か、そして親族か。でスタートとなる。 この事業が成功して巨大になると、一族・親族が、出世・儲けのチャンスだと続々集まる。大企業の社長・会長、重役クラスが軒並み家族・親族で占められることも良く見られる。


経営が上手くいくならこれでも良い。

 

 

だが、儒教の世界観に染まっていると、次の時代を継ぐ「後継者はだれか?」となればTOPは必然、自分の息子達からのチョイスしかなくなる。

 

後継者は中国の場合は兄・弟間での差別・区別は見られないとのことだが、韓国の場合は絶対に「長子(男性)」が大原則となる。この長子がボンクラであってもだ。

 

これが会社を不安定にさせる。

 

逆に長子が優秀でも、会社内の「次男」や「長女」がボンクラなのに重役身分ということもある。 西欧系思想の会社における後継者選びはとりあえず「全社員」から選ぶものだが、儒教社会ではこうはいかない。選択の幅のなさが(後継者はだれか?)会社という生命体の危うさを呼び込む。

 


これで話はすまない。

 

 

成功者の話を聞きつけた親族一同が次々と、伝手を頼って入社する。コネで重役になる。その人物がボンクラで、そのボンクラが儒教が作り出した世界観に基づき傲岸不遜の王様の振る舞いをし、儲け話に乗って自分の持つ権限を使い勝手をやった挙句、不祥事を起こす。

 

 

「ナッツ姫事件とその後の顛末は」とてもよい例だ。

 

 


そもそも大韓航空の社長とその一族は自社の航空機を使うときはまるで「王族扱い」だという。社員はこの航空会社の一族に家来のように、下僕のように傅(かしず)く。社長と一族・親族は社員達の下僕ぶりを当然の事と思っている。とのこと。


 

 ナッツ姫はこの事件を契機に表舞台から降りることは一応確定したのだが、すぐに別の役職を与えられている。社会的ペナルティも親が社長・会長だからペナルティが機能しない。


 

丸ブルー「今」しかないから「美容整形大国」

 

女性も儒教では今世しかないから「いつまでも咲き誇る花でなければ」の意識に縛られ、老いを恐れ、美容整形に走らせる。韓国が美容整形大国で有名、顔の形を変える行為に心理的抵抗が低いのはこのためだ。



一流ホテルのロビーの花が造花だった。という話もある。これは酷い!というかどうかは個人の判断だが、「枯れる・朽ちるの美」が理解出来ないところから発露したものだろう。


従って「侘び・寂び」という朽ちていく美に対する感覚は儒教国家では教えられないから理解できないし、後から学ばざるを得ない。



 

丸ブルー力の強弱・大小で自分のポジションを見る

 

中国・韓国 両国とも力の強弱・大小で自分のポジション(今の地位)を測る。

昨今中国が世界中の国をあらゆる方法で「脅し」屈服させようとしてる外交を「戦狼外交」と呼んでいるが、中国が脅す国は中国が「相手国を格下」と思っている時だ。 これが「相手が格上」だと思っている時は、その格上相手に常に媚びへつらう。その媚びへつらう相手が「同格」になると、その態度の変わりぶりに唖然とするほど。それまで媚びへつらっていた相手に対する態度が豹変、ペコペコしていたのが唐突に尊大・傲岸不遜になる。 中国の「同格の付き合い」は、ヤクザのボス同士の付き合いに似ている。相手に気は使うが舐めた事をしたら報復する。といった感じだ。リーマンショックとAIIB事件以後の中国のアメリカへの態度の豹変ぶりに世界中が唖然としたものだ。

 

それまでのペコペコは「ポーズ」で、ペコペコしてても、それは格上相手に対して尊敬とかリスペクト。そういったものではないのだ。

 

(中国は現在、アメリカを「我々と同格」と思い込んでいる。)

 

 

丸ブルー「日本は永遠の格下国家」「何をしても許される」と思っている。

 

儒教は我々こそが世界の中心・一番とする思想で、大昔から中国・韓国で認知されていた「日本」は「野蛮人」「原始人」「文明後進国」「文明が優れている我らの言うことに常にYESと言って従うべき。と考えている

 

 

韓国からは「日本は言うなれば我々(中国・韓国)の弟である。」というものがネットなどで散見されるが、彼らの言うところの兄弟は「仲の良い関係」などというものではない。弟は何の言うことに対して兄に盲目的に従うべき。の「下僕のような弟」という意味だ。

 

 

こういう認識だから、日本が自分達よりも「優れている」事が、どうにも我慢ができない許せない。だから日本を誹謗中傷・馬鹿にする。つけあがっていると感じると怒りを爆発させる。 

 

 

こうした差別意識があるから「弟(格下)の日本のものは俺のもの」「盗んでも許される」「盗まれるスキがあるマヌケ(日本)が悪いんだ」と思い込む。結果、「日本にはどんな事をしても許される」という「反日無罪」の意識が当たり前のように染みついている。

 

 

儒教の思想は結果として、世界のメインストリーム(主流)の思想とは相容れない、儒教は「 強い・弱いでしか世界を見切れない差別思想丸出しの思い込み 」を植え付ける歪んだ眼鏡であり、中国と韓国はこの眼鏡越しで世界をとらえていることが、中国・韓国が世界と摩擦を起こしている事の主な原因の一つなのだ。

 

 

 

丸ブルーそもそも「儒教を知らない」

 

儒教が作り上げた論理で両国民は動いているが、そもそも「徳への道」などを当人たちは意識していない。生まれた時から「親に従え」「先祖を忘れるな」「他人は信じるな」「だまされるな」「信じられるのは家族だけ」「負けてはならない」「何がなんでも勝て」「自分の非を認めるな」の社会に生まれた時から育っているので、それが日常。儒教とは何ぞや?と考えているわけではない。

 

儒教では「徳のある人間は滅多にいない。滅多にいないからこそ徳のある人物は貴重なのだ。 そんな徳を下々の者達に求めるのは無理な話だ。 しかし下々にも徳を積ませなければならない。 その為に「礼(れい)」を施そう。」

 

となり、礼(儒教における細々とした礼儀作法)を、時の皇帝たちが下々に示し、これを必ず行うように。と命令した。

 

つまり礼という「マニュアル(礼儀の仕方の説明書)」しか、両国民には施されていないのだ。

 

だから(儒教に照らした)礼儀作法(大半は上下関係)には恐ろしくこだわるが、徳そのものに、また「徳とは何だろう?」への意識が向かない・考察しない・思索の深堀りをしない。だから人として非道なことをするに対する心のハードルが低くなっている。



 先に

力の大小、強弱でしか世界を見れなくなる。

 と述べたが、儒教には「あの世」の定義がない、


一方でこの世での「聖人への道」を説く。

そしてあの世がないから生まれ変わりがないので、「聖人への道は」生まれた自分一代で成就させるしかない。つまり徳の成った、聖人への道は「時間制限付き(自分が生まれてから死ぬまで)」なのだ。

 

 

聖人に必要なのは「徳」である。

徳は先ずは「先祖への畏敬と」「両親への孝行」がいの一番で、次いで「親族への孝行」、そして勉学し、知識・知見を得て、身に修めることである。 しかし親達への「孝」を尽くし、知を得るのは人生を考えると到底足りない。 働いてなどはいられない。



と述べたが、この部分を学んでおらず、生まれたときから、他人を信じては駄目。他人に負けては駄目。何をしても勝てが常の社会に生まれ落ちるのだから、徳が何たるか? を考えて生きてはいない。



丸ブルー皆から尊敬されたいのが儒教国家


歴史も宗教も違うが、ロシアも力(パワー)を正義と思っていて、そこら辺は中国・韓国と気が合う。だが、中国・韓国は「文化でも我が国は素晴らしいのだ。」と思っているし、思いたいので、自分達の基準では当たり前と思った事が国際的に非常に失礼だと、ある国に指摘されるとまず「反論」する。この時点では失礼なことをされた国、一国から失礼だと怒られている程度だから怖くないのだ。


だが、実際に国際的にも非常に失礼で、如何に失礼なのかを世界各国が続々と中国・韓国批判をあからさまにし始めると、両国はここで「しゅん、、」としょげかえる。


実力は勿論、文化的にも素晴らしいと思われたいから、こういう事に精神的ダメージを受けるのだ。


中国・韓国は例えると『インテリ憧れヤクザ国家』なのだ。 …いや、韓国は『インテリ憧れチンピラ国家』か。


ここらへんロシアは違う。


ロシアは正に「力こそ正義だ」と思っている国。その力による恫喝を他国から非難・批判されても、力こそ正義と思っているから少しも気にしない。



そもそも他国からステキ・カッコいいと思われたがっている中国・韓国の様にしゃしゃり出て、余計&無粋なパフォーマンスをする、、、なんて無駄な事をロシアはしない。



 

丸ブルー北朝鮮?あそこはもう大分違う。

 

 

北朝鮮?・・あそこも儒教の要素はあるが、今のところは日本がかつて天皇を「神」として無批判に崇め、天皇は「頭脳」国民は末端の「手足」。 手足は頭脳を守るためなら、身を挺して死ぬべきとした「国体論」を本当に体現させてしまった国。 


国民たちのレベルでは儒教の世界観はだいぶん壊されているらしい。

 

(そうでなければ国がまとまらない)

 

しかし、金(キム)を筆頭とした神クラス(キムの一族とキムの親族を指す聖家族)

と、世襲化している北朝鮮の共産党幹部はしっかり儒教を受け継いでいるとも聞く。国民にはチュチェ思想を(日本にあった「国体論の完全完成形」→主体思想)強いておきながら、自分たちは儒教を続けるという矛盾をやっている。