資本主義の本質を露骨にするとギスギスした感じが益々ギスギスしてくるので国家(政府)はアレコレ手を打って国民に『 愛国心 』を植え付け、育てようとする。 

 

 

 

 

丸ブルー国民の一体化と神格化させるシステム作りは欠かせないのが国家

 

ところが国家はこういう資本主義を徹底させるほど顕在化し噴出する『 非情な原理 』を露骨に採用などできない。なぜなら国家は別の国家と境界線によって明確に分かれていて、区別されている。 グローバルでなはい。 いまのグローバル時代に乗った資本主義をそのまんま採用し、資本主義の非情な部分を国民にぶつけ、その状態をほったらかしにして『  まだ見ぬ新しい世界に目を向ける 』なんて訳にはいかないからだ。 ほったらかしにすれば国民の国への帰属意識はアッという間に地に落ちる。

 

 

 

だから国の政府は一応、中に属する『 国民 』には同等の福利を保証しなければならない。 そうしないと、いざというとき( たとえば国家間の戦争・未曽有の大災害など )国家のメンバーとして動員できない。

 

逆に『 ここは私たちの愛すべき国 』といった国民意識を皆が持っているところは強い。ナポレンオンが全盛期連戦連勝だったのは戦いの末に民衆が政治のかじ取りの権利を勝ち取る、しかし周辺はまだ王国制度の国が多く、フランスのこの動きを潰そうと武力による圧力をかけた。それらの圧力を跳ね返すためフランスは民主主義国史上初の「 国民皆兵による徴兵制度 」に踏み切り、ほとんどの民衆が賛同した。

 

 

ナポレオンのいた時代、君主制から民主制度に移ったこういったキラキラ国民一体の感情 ナショナリズム nationalism 』が盛り上った。

 

 

 

こういう国家的な統合のときによく使われるのが 『 供犠( 犠牲 サクリファイス ) 』システムだ。

 

 

政治の基本は『 友と敵の区別 』だ。

政治集団である国家も『 この国の為に死ねるか? どうだ? 』と所属メンバーの『 国民 』に迫る。

 

 

勿論国家に忠誠を誓うのなら、その答えは『 Yes 』に決まっている。 愛するもの・守るものの為に敵を殺し、必要なら自ら犠牲になること。 この二者択一をすることでメンバーは国家の一員となる。

 

こういった『 決意表明 』に金持ち・貧乏は関係ない。 『 国の為に戦う 』であれば出自がどこであれ、どうであれ『 国を愛し守る 』でみんな『 国の一員 』となる。 だから平等意識ももてる。

 

 

たとえ同じ国民の中に『 勝ち組 』『 負け犬 』という区別はあっても、この決意が共有されていれば、とりあえず『 等しく同じ国民 』だ。 これを更に盛り上げるために

 

 

星国家は『 友 』の為に進んで犠牲になる、あるいは犠牲になった人間を大げさな儀式で褒め称える。   逆に言えば国家はそういう犠牲を要求出来る至上の原理として自らそういう意味をつける。のだ。

 

 

 

靖国神社はこの『 供犠システム 』の典型だろう。

国家の為に戦死した故人は『 英雄 』あるいは『 神 』として祀られる。

 

『 死ぬ 』という個人にとってはこれ以上ない程の不幸にあっても靖国で丁重に扱われてくれれば、悲しいけれど慰めて貰ったことで『 これで良かったのだ 』と思えてくる。

 

 

それどころか、そういう装置を動かす国のやり方次第では、『 死ぬことで特別な幸福を得られる 』なんて事も出来る。  そういう特別な死を作り出すことも可能な国家も当然、偉大な存在となり、個人に死を命じる権威を持つ。

 

 

死んだ故人はその至高の命令に従ったということでさらに神格化され、そういう特別な死を作り出す国家も・・・・と相乗的に持ち上げが持ち上げを呼びながら循環し、双方ともに神格化される構造になっている。

 

 

こんな仕組みは政治の信条など問わず、どんな政治集団でも利用される。

ほぼすべての国家や地域がそこの国民や地域の為に死んだ者らを英雄として祭り上げる施設を作り、管理・運営をしている。

 

 

社会・共産主義国家でも運動の為に、自ら死を選んだ国民は神格化され、社会・共産主義の絶対性を際立たせている。  北朝鮮が対外国への憎悪を煽り立てる構造が 戦前・戦中のかつての日本にダブッて見えるのは、こういった理由からだ。

 

 

星国家は供犠のシステムを利用して、国民の一体化を図る。

 

 

靖国批判に見えることを書いたけど、そういうもんでもあるし、ドコの国でもあるもんだよ。社会・共産主義国でもドコでも。と いっておこう

 

 

 

次回は『 悪いコトは外からやってくる! 』の『 排外主義 』を

 

つづく