常軌を逸した意志を持って突き進む者が善ならば『 英雄 』だが、悪心に染まってると『 暴王 』となり、その暴王に目を付けられた者達はひどい目に合うという実例だな。

 

 

丸ブルーソ連の『 赤いナポレオン 』  ミハイル・ニコラエヴィチ・トゥハチェフスキー

 

真ん中を抜かして一般的には『 ミハイル・トゥハチェフスキー 』 ニックネームは『 赤軍の至宝 』 そして『 赤いナポレオン 』と呼ばれた英雄だった。

 

写真をどーん

 

Tukhachevsky-mikhail-2.jpg

 

むっ。 顔からくる第一印象は『 知性 』。 中年期の写真だと温かみも感じるが、意志の強そうな濃く太い眉に、人を見据えるような目。 大きいが後ろに後退した耳 大きい鼻 そして薄めの唇。 顔のパーツの一個一個が冷静と冷徹・強い意志を感じさせる。

 

 

酒を酌み交わすにも、知的な会話を好みそうだし、酒の席での人の失言も、しっかり記憶していそう。、、、、と勝手な印象を抱く。

 

ハインツ・グデーリアンの写真に抱いた印象とは全然違う。

(グデーリアンは酒の席では『 ガハハ! 』と大笑いする感じだな)

 

 

この人もグデーリアンと同じく、機械化されたエンジン付きの戦闘兵器をどうやったら、うまく活用できるか考え抜いた天才に近い秀才の一人。 グデーリアンと比べると、この人の方がもう一歩天才の領域に近い。

 

 

幼少期

スモレンスク県のアレクサンドロフスコエ(サフォノヴォ近郊)に生まれ。  ロシア帝国の没落貴族の子として生まれたトゥハチェフスキー。 一家は困窮し、かれが生まれてすぐモスクワ南東ヴォルガ川流域の都市ペンザへ。 そこで中学まで過ごす。

 

 

帝国軍人期

1909年にモスクワへ引っ越し、陸軍幼年学校へ入学。幼年学校を首席で卒業した後、アレクサンドルの士官学校へ入る。1914年7月、ロシア帝国陸軍少尉に任官して、「近衛セミョーノフ連隊」に配属。 配属直後に始まった第一次世界大戦に従軍。最初の6ヶ月間で6個の勲章を授与される活躍をして大尉まで昇進したが、1915年2月にロムツァ郊外でドイツ軍の捕虜となる。

 

 

そこで5度にわたる脱走を試み、1917年に脱走に成功。パリ~ロンドンそして晩秋にロシアへ帰り着くも、すでにロシア国内では2月革命で帝政は崩壊。、アレクサンドル・ケレンスキーによる臨時政府が誕生しており、その臨時政府も10月革命でレーニンらボリシェヴィキに倒される。

 

 

 

そして赤軍軍人に

こうした情勢の中、祖国の新しい権力に従うことを決めたトゥハチェフスキーは、1918年4月にボリシェヴィキ党と赤軍に入る。

 

まっとうな軍事の教養を持たない農民などの被支配階級がほとんどの赤軍の中で元職業軍人は重用され、トゥハチェフスキーも中将・軍司令官の待遇で迎え入れられた。

 

1918年6月には第一革命軍司令官としてヴォルガ川流域まで破竹の勢いで侵攻してきたチェコスロヴァキア軍と戦い、9月にはシビルスクを占領してレーニンから賞賛され、1919年3月、シベリア政府(白軍)のコルチャーク軍の進攻があった際には( 社会主義勢力と反対勢力の内乱だな )主力である第五軍司令官を任せられ、見事にコルチャーク軍を撃破。この功績で赤旗勲章を授与された。

 

さらに1919年秋になると、今度はデニーキン将軍の軍勢が南方からモスクワに迫り、( これも社会主義勢力と反対勢力の内乱だな )トゥハチェフスキーは南方方面軍司令官としてこれと相対し、優れた戦争指導で1920年3月までにデニーキン軍を打ち破り、総崩れにする。

 

 

丸ブルー悪に目を付けられた出来事

 

デキーニン軍を打ち破った喜びもつかの間、1920年4月に今度は国境問題でロシアと対立していたポーランド軍が内乱に付け込んでロシア領へ侵攻してくる。トゥハチェフスキーは西部方面軍司令官として参戦、「我々の銃剣で勤労人類に幸福と平和をもたらす。西欧へ」と世界革命の前哨戦と主張し兵士達を鼓舞して、トゥハチェフスキーが率いる軍は見事ポーランド軍を敗退に追いやる。

 

この勝利の勢いに乗って同年6月には逆にロシア軍がポーランド領へと侵攻。しかしこの時、トゥハチェフスキーは首都ワルシャワの攻略を試みたが失敗。

 

レーニンはこれを隣接の南西方面軍の協力がなかったためであるとし、その責任を南西方面軍軍事委員だったヨシフ・スターリン一人に押し付けた。(これによりスターリンは革命軍事会議議員を罷免される)  一方、トゥハチェフスキーが罰せられることは無かった。しかしこれがスターリンのトゥハチェフスキーへの深い憎悪の発端となったという。

 

その後、ポーランド軍はフランスの支援を受けて反転攻勢に転じ、トゥハチェフスキー率いるロシア軍は惨敗して命からがら帰国した。トゥハチェフスキー唯一の敗北の戦争であった(ポーランド・ソビエト戦争)。

 

 

丸ブルー英雄へ ・・・そして悪の手がひたひたと迫る

 

1921年3月

クロンシュタットで水兵の反乱、5月にはタンボフ州での3万人の農民蜂起などがあったが、いずれもトゥハチェフスキーがこれを鎮圧。

 

1924年

レーニンが死去。スターリンがその後継として独裁権力を掌握しはじめる。

 

1925年

スターリンの腹心のクリメント・ヴォロシーロフが陸海軍人民委員(のちの国防人民委員)になり、反スターリン的またはその見なされる将校たちが多数追放されはじめ、ポーランド・ソビエト戦争でトゥハチェフスキーにイヤな目に合わされたレーニンはトゥハチェフスキーも『 追放すべき軍人 』として目を付けていたが、内戦時代からの多くの戦いで勝利をもたらした国家的英雄であるトゥハチェフスキーには、さすがのスターリンも手が出せず、1925年から1928年までの間、トゥハチェフスキーは赤軍参謀長に就任。

 

1931年

陸海軍人民委員代理兼兵器局長に就任。この間、赤軍再編成や機械化部隊・空挺部隊などの導入など、一貫して赤軍の機械化・近代化に注力し、その運用のための縦深作戦理論に基づく・縦深攻撃の確立に指導的役割を果たす。

 

1934年

これまでと、1931年からの活動による功績によって、共産党中央委員会委員候補に選出。

 

1935年

ヴォロシーロフら4名とともにソ連赤軍最初の元帥の一人となる。しかしスターリンは相変わらずポーランド・ソビエト戦争時の恨みを忘れておらず、またトゥハチェフスキーがソ連軍に多大な功績を残して国内どころか国外からもスターリンを差し置いて脚光を浴び、英雄視されている様子を見るたびにスターリンは自尊心を傷つけられ、自分の独裁者としての地位さえも脅かしかねない。と危機感を抱くようになってい。トゥハチェフスキーはスターリンにとってもっとも不愉快な人物となりついにスターリンはその抹殺を目論むようになる。

 

 

丸ブルー粛清と名の『 謀殺 』

 

1937年5月11日

トゥハチェフスキーは陸海軍人民委員代理の職を免ぜられ、ヴォルガ軍管区司令官に左遷される ( スターリンの圧力か? )

 

一方でナチス・ドイツの諜報機関SD(親衛隊情報部)の司令官ラインハルト・ハイドリヒは、独ソ戦があった場合もっとも強敵になるであろう名将トゥハチェフスキーを抹殺する絶好のチャンスを見逃さず、ドイツ国防軍の将軍たちとトゥハチェフスキーとが接触していたという偽造文書の作成を1936年末ごろから開始していた。

 

この作成された偽文書をドイツからの攻撃を恐れて親ソになっていたチェコスロヴァキアのベネシュ大統領に怪しまれないように入手させ、ソ連のチェコ公使アレクサンドロフスキーを通じて1937年5月上旬から半ば頃にモスクワのスターリンに送られたという。この事実関係についてはほぼ間違いないとされている。

 

 

スターリンは明らかなトゥハチェフスキー謀略の偽文書なのだが、この文書を口実にして、5月24日にソ連共産党政治局においてトゥハチェフスキーを「ドイツ参謀本部とゲシュタポのスパイ」とする決議を出し、1937年5月26日に彼を逮捕。

 

トハチェフスキーは拷問にかけられ、自白を強要させられた。トゥハチェフスキーの調書には拷問時の血痕が残されている。

 

6月11日

ヤキール一等軍司令官(キエフ軍管区司令官)

コルク二等軍司令官(フルンゼ陸軍大学校校長)

フェルトマン三等軍司令官(赤軍人事部長)

プリマコフ三等軍司令官(レニングラード軍管区副司令官)らと共に秘密軍法会議にかけて、即決で反逆罪により死刑判決が下され、その日の内にモスクワのルビヤンカ刑務所で銃殺される。

 

トゥハチェフスキーの家族(妻ニーナ、母マウラ、弟アレクサンドルとニコライ、4人の姉妹、娘2人)も「 陰謀に加担した 」と見なされ逮捕、強制収容所へ送りとなる。

 

彼の妻ニーナ、弟のアレクサンドルとニコライの3人はのちに銃殺。

母マウラと妹ソフィアは強制収容所内で死亡。

12歳の末娘スベトラーナは自殺。

姉妹3人と娘1人が大粛清を生き延びた。

 

 

以降、翌年までの間、いわゆる“赤軍大粛清”が吹き荒れ、赤軍の旅団長以上の者の45%が殺され、赤軍は壊滅状態に達した。

 

( これで、それまで知識と経験豊富で有能な職業軍人がソ連内でほとんど絶滅。ソ連の軍は良いも悪いもスターリンの思いのまま。 だけど、残った軍人は経験不足とスターリンにへつらうだけのボンクラばっかりとなり、後の第二次世界大戦で相当苦労するハメになる。 まぁ勝ったから『 勝てば官軍 』。  途中で起こした酷い仕打ちの歴史は長らく闇に葬られていた。 )

 

なおトゥハチェフスキー自身は、スターリンの死後、スターリン批判にともない名誉回復を受けた。1963年には、トゥハチェフスキーの肖像が描かれた切手がソ連で発行されている。

 

とまぁウィキペディアのおかげで編集は楽だったが、それでも読み込みと再編集にスゲー時間を喰い、しかも本題に全然たどり着けなてねーじゃん!、、、と、この時点で気が付き、愕然としている自分だった・・・orz

 

 

 

丸ブルー彼の考えた『 縦深攻撃 』てどんなの?

 

 

ざっくりいうと縦深攻撃(じゅうしんこうげき、Deep battle)とは、陸上戦闘における攻撃に関する戦闘教義の一種。

 

前線の敵部隊のみでなくその後方に展開する敵部隊までを連続的かつ同時的に目標として攻撃することで敵軍の防御を突破、その後に敵軍を包囲殲滅しようとする理論。 ミハイル・トゥハチェフスキーにより、ソ連軍の戦闘教義である縦深戦術理論(縦深戦略理論とも)として理論化された。

 

 

 

丸ブルーもう少し詳しく説明

 

まず主力部隊が敵勢力前線に対して幅広く正対して展開。 攻撃開始と同時に準備していた航空爆撃部隊と特化部隊( 大砲で長距離射撃を行う部隊 )は、前線の奥の兵站基地などに攻撃開始。敵前線への物資補給や連絡網を速やかに寸断させる。

 

 

前線を突破する部隊は『 第一梯団 』と『 第二梯団 』に分けられており、第二梯団は 最初に突入する第一梯団の後ろに控えている。

 

それぞれの梯団には『 正面突破距離 』なるノルマが課せられており、 突破距離(縦深)ゆうに100km以上になる。 梯団はそのノルマを達成するまで、決して、どんな損害・被害を被ろうとも、前進を止めないのが、縦深攻撃の肝となる。

 

 

敵からすると、第一・第二梯団の大部隊が次々と現れては、蹂躙・破壊してくる連続の波状攻撃を浴び、敵は同時に航空部隊・特化部隊によって後方に控える敵の予備兵力も失い、反撃の力を喪失させることができる。 その間に進撃した範囲を囲い込み、制圧。  その包囲網の中に、空挺部隊も投入し、残存の敵兵力も殲滅する。 

 

 

十分な兵力を準備し、同時に戦闘を開始するという連携が必須な作戦だが、この理論と理論を実際に成功させるための軍の機械化にトハチェフスキーは注力し、縦深攻撃の時に戦車が空からパラシュートで降ってきて、戦車のなかにいる空挺部隊員たちが、操縦残存勢力を速やかに掃討する、『 空挺戦車 』  海岸からの上陸や破壊された川の橋のせいで進軍停滞をものともせずに対岸に行ける『 水陸両用戦車 』など、トンデモ兵器まで思いつたのたが、これがうまく実現するのを見ることなく、悪王・スターリンによって殺された。

 

 

 

 

で、同じことを言うけれども、改めて

 

『 赤いナポレオン 』こと、トハチェフスキーの死などそれまで知識と経験豊富で有能な職業軍人がソ連内でほとんど絶滅。ソ連の軍は良いも悪いもスターリンの思いのまま、 そして残った軍人は経験不足とスターリンにへつらうボンクラばかりとなり、後の第二次世界大戦で相当苦労するハメになる。 まぁ最終的に第二次世界大戦に勝ったから『 勝てば官軍 』。  その途中で起こした酷い仕打ちの歴史は長らく闇に葬られていた。

 

 

この人、トゥハチェフスキーや経験豊富な職業軍人が生きていたら、 ソ連は第二次世界大戦でもっとずっとマシな戦い方ができたのは確実で、『 うわ~ こりゃ戦車兵すぐ死ぬわ・・・。 』な戦車が、次々作られた。兵士たちは『 致命的な欠点を抱えたボンクラ戦車 』のボンクラぶりを良く知らぬままに、戦場の露と消えた。

 

そういうヤバイ欠点と『 人の命をトコトン軽く見ている装備 』が共産主義らしく(命を含め、全ては国が生きのこる為のもので、個人は「国という体にある無数の細胞の一つ」。だから当然、人権は軽視。)ソ連の戦車には見受けられる。

 

まぁ戦争なんて『 お国の為 』の言葉一つで、どこの国も命の軽視は大なり小なりするし、それはそれで良くはないけれど有ることで武装兵力の一員になるなら

それは仕方がない事なんだけれども、ソ連の戦車の装備や装置をみると思わず『 うわー・・・ コレにゃチョット乗りたくないなぁ 』と思わずにはいられない。

 

 

かれの死後、彼がやった軍の機械化。 それと縦深戦術理論は残り、彼の理論をソ連軍は引き継ぎ、1944年6月22日に開始され、ドイツ軍に完膚なきまでの壊滅的な打撃による敗北をを与え、ドイツ国敗戦を確定させたといっても過言ではないバグラチオン作戦で現実の元なる。

 

 

 

そして、当時はトンデモ兵器と思われた、空挺戦車も第二次世界大戦後作られた。

 

惜しむらくは悪王・スターリンの謀略によるトゥハチェフスキーの死。これがなければ第二次世界大戦の経過はまた大きく変わっていただろうと思われる。

 

 

今日の一曲

懐かしいところで

C+C ミュージック ファクトリーの『  シングス ザット メイクユー ゴー フーム・・・ 』をチョイス。

 

 

C+C Music Factory - Things That Make You Go Hmmmm....