皆様、こんばんは!

本日は夜遅くの更新となってしまいましたが、戸泉信明が担当いたします!


本日は久しぶりに、おもてなしの歴史についてです。

「三椀の才」という言葉を、耳にされた事のある方は、いらっしゃいますか?



天正2年(1574年)、長浜城主であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は、

鷹狩の途中で領地内にある観音寺に立ち寄ったところ、

その寺小姓だった石田三成は、汗だくの秀吉を見て飲み物を用意しました。


1杯目は、大きな湯飲みに白湯をたっぷり入れて差し出しました。

秀吉が2杯目を所望すると、三成は1杯目より少し熱いお湯を湯飲みに半分だけ入れて差し出しました。

3杯目を求めると、今度は熱いお湯を小さな湯飲みに入れて持ってきました。


これは、三成が汗だくの秀吉を見て、熱いお湯を出してさらに暑い思いをさせてはいけない、また、喉の渇きに応じてお茶の熱さと量を変えるという知恵と思いやりから生まれた行動だったのです!

後世に伝わる三成流のおもてなしです。


この機転と相手を思いやる心に感心した秀吉は三成を召し抱えることにしたそうです。

しっかりと相手の立場に立っておもてなしをした三成も素晴らしいですし、

即座にスカウトを実行した秀吉もまた、人を見る目があったんですね!



余談ですが、三成にはもう一つエピソードが残っています。

三成は秀吉に召し抱えられた後、豊臣家の支配体制を確立しようと懸命に働きます。

しかし、秀吉の死後、牙をむいた徳川家康に関が原の戦いで敗れてしまい、捕らえられて処刑されることになります。

処刑の日、京の市中を引きまわされ、六条河原に運ばれる途中、三成はのどの渇きをおぼえ、警護の侍に白湯を求めます。

しかし、侍は白湯など持ち合わせていなかったので、代わりに「干し柿ならあるぞ」と言って差し出すと、三成は「ありがたいが、柿は痰の毒で体に悪い」と断ったのです。

周りの者が「これから首を刎ねられる人間がどうして体の心配をするのだ」と嘲笑すると、

三成は「大義を思う者は、志を成し遂げるために、死の寸前まで命を大事にするものだ」と言ったそうです。

三成の死後、家康は敵ながら三成のことを褒め称えたと言います。


秀吉と同じ施しを受けたくても受けられなかった三成。

しかし、彼の残した「三椀の才」の逸話は、時代を超えて今もなお、「伝説のおもてなし」として現代に伝わっています。

この、おもてなしの極意、おもてなしの心向上委員会も見習っていきます!

最後までお読み下さり、ありがとうございました!


$おもてなしの心向上委員会のおもてなし日記