お元気様です!
この度ブログ担当はバーチこと、千葉久美子です。
今回取り上げます内容は…ずばり茶道についてです。

私が小学校の頃に授業で学びました。

覚えてる事と言えば…授業中にお菓子が食べれて嬉しかった!思ったよりお茶は苦くなかった!』
そんな思い出です。

今改めて調べてみると…すごく素敵な発見ばかりでした。

茶道入門こちらのサイトを参考にさせていただきました。

茶道(さどう、ちゃどう)とは、一定の作法にのっとってお茶を点てそれを一定の作法で飲むものと思われがちですが、茶をいれて飲むだけでなく、美術、工芸、詩歌、書画、生花、茶室建築や造園、懐石料理や菓子などにまで至る幅広い分野にまたがる総合芸術であり、茶道はまた詩的な技芸であるという人もいます。

茶道では、季節や趣向、客に応じて道具や料理・菓子を選び、床にかける掛軸、茶室に飾る茶花、道具の取り合わせや調和を考え、茶席や庭の掃除は勿論、塵一つにも気を配り、客はその思い入れや趣向を感じ、ともに楽しむというように、主客の対話立ち居振る舞いまでのすべてが茶道なのです。


素敵ですね…!!!
相手が喜んでくれるだろうな?楽しんでもらいたいな…
そう相手を想う気持ちと行動がおもてなしの心そのものかとおもいました!


茶室

バーチの独り言:畳の香りがしてきそう!!

茶花
季節に応じてそれぞれ花を選び



バーチの独り言:花っていいですね…一輪での存在感!それと葉っぱのバランス、私の母は実は華道の資格もってます。今から習おうかな母に!


掛軸

バーチの独り言:一期一会って書いてある?いいわぁー、好きな言葉です!


茶菓

バーチの独り言:秋のうさぎかな~?3つ食べていい?


道具


バーチの独り言:この道具ひとつひとつに想いがこめられてるんだろーなぁー…

バーチの独り言:器ってたくさんあって…今日も何でも鑑定団みてたらExpensiveな器でてました!割れても直して直して受け継がれていくってステキっ



茶道の歴史
赤字の所の画像を載せました。歴史の教科書、資料集で見た事ありますねぇ~♬)

日本にお茶がもたらされたのは、遣唐使として唐に留学した僧侶たちが持ち帰ったのが始まりとされます。しかし、当時は根付かず喫茶は廃れてしまいます。 

茶道は、鎌倉時代に栄西(えいさい)が臨済禅とともに抹茶法を伝えたことに始まり、時代が下がって南北朝のころには、一定の場所に集まって茶の「本非(ほんぴ)」を当てる遊技である闘茶が流行しました。
茶道は、室町中期になると、貴族の建築であった書院造りが住宅として普及し、会所で催されていた茶会が書院の広間で行われるようになり、足利義満・足利義教の同朋衆の能阿弥(のうあみ)は書院茶の作法を完成させました。

能阿弥に書院茶を学んだ村田珠光(むらたじゅこう)は、当時庶民のあいだに伝わっていた地味で簡素な「地下茶の湯」の様式を取り入れ、さらに大徳寺の一休宗純(いっきゅうそうじゅん)から学んだ禅の精神を加味して、精神的・芸術的内容をもつ茶道を作ります。


村田珠光が他界したあと、武野紹鴎(たけのじょうおう)が唐物の茶器のかわりに日常雑器を茶の湯に取り入れ、「わび茶」を完成させ、単なる遊興や儀式・作法でしかなかった茶の湯が、わびと云う精神を持った「道」に昇華していきます。

茶道はその後、武野紹鴎の弟子の
(せんのりきゅう)によって安土桃山時代に完成されます。

利休の茶道は、蒲生氏郷(がもううじさと)、細川三斎(ほそかわさんさい)、牧村兵部(まきむらひょうぶ)、瀬田掃部(せたかもん)、古田織部(ふるたおりべ)、芝山監物(しばやまけんもつ)、高山右近(たかやまうこん)ら利休七哲と呼ばれる弟子たちを生み、さらには、小堀遠州(こぼりえんしゅう)、片桐石州(かたぎりせきしゅう)、織田有楽(おだうらく)ら茶道流派をなす大名も現われます。これを武家茶道、或いは大名茶などと呼ぶこともあります。

千利休の死後、二代少庵宗淳(しょうあんそうじゅん)を経て、千利休の孫になる三代元伯宗旦(げんぱくそうたん)の次男の一翁宗守(いちおうそうしゅ)、三男の江岑宗左(こうしんそうさ)、四男の仙叟宗室(せんそうそうしつ)がそれぞれ、官休庵、不審庵、今日庵として千利休以来の道統を継ぎ、官休庵は武者小路千家、不審庵は表千家、今日庵は裏千家三千家に分かれました。

と、長くなりましたが、茶道を知るきっかけになっていただければ幸いです!
最後まで読んでくださりありがとうごじました!