世の大人には二種類いる。ためになる面白い話をする人間と、何の役にも立たない
つまらない話をする人間と。
まあ私は、つねづねこう思いつつ、生きてきたわけです。

自分で言ってしまいますが、真理だと思います。否定したいのは後者にいる人間だけ
でしょう。

そして世の中の”校長先生”などとよばれる職種は、ほぼ全て、後者に当てはまる生き物だと
言っても過言ではない。あくまでも私の経験上ですが。

長くてつまらない。しかも本当になんの役にも立たない。

いや、たとえ長かろうが、多少つまらなかろうが、それが役に立つなら仕方がないことだ
と思います。学問系の話は、興味をもてるときなら非常に面白いことも、人により、
時により、場合によって、その感じ方は変わってしまうからです。


しかしまぁ、これがよりにもよって、遊ぶ以外なんにも興味をもてず、人生で一番
集中力もない時期の子供たちが集うところで、発揮されてしまっているという冗談か
嫌がらせのような現実。

そら、話も聞きまへんわ。聞けるはずない。大人だって、そんな話をまともに聞ける人は
稀でしょう。面白くない&役に立つ知識でもない→覚えてられない→大人になっても
その記憶が残ってない  という、時間の浪費が、ここにあるわけです。

そう、面白くない話を聞かされるのは、人生の浪費。これに尽きます。

為にならなくともせめて、面白ければ、ひまをつぶす、あるいは娯楽になるでしょう。

私はその効果は認めます。世の中は広いですから、”面白かろうと役に立たないのは
ムダ話。やめてほしい”と思う人もいるようですが。


ここで考えてみましょう。ではなぜ、世の校長先生の話は、みなこぞってつまらなくなって
しまうのか。


”校長”というのは、真面目一辺倒、バカ正直に上の指示に従って、何の問題も起こさず
先生としての模範を示してきた、いわば”先生の中の先生”がなれる職です。

長い年月を教師という狭い世界で過ごし、人の言うことをすなおに聞いてそのとおりに
動いて、”いつか校長になるぞ”みたいな小さい夢を抱きながら真面目にやってきた。

長い年月を経て、そんな先生に残っているのは、校長になる、という小さい夢とささやか
な野心だけ。誰かに話したくなるような面白いことも、当然ながらない。

くたびれた達成感と、長年培った”従う”生活の余韻漂う校長先生は、在任中問題が
起こらないようにという希望を抱きながら、ことなかれで平安に生きたいでしょう。


ひとに話せることなんて、実はなんにも持っていないんです。歳を食っているからって、
誰もが経験豊富なワケじゃない。


校長先生の話のつまらなさは、日本の”ふるきよきお国柄”と、そんな真実を、
含んでいる最たる例ではないかと、私は最近思うのです。