研究の個人史みたいなもので若い頃影響を受けたことがあり,また学会の状況がどういうものだったのか,個人の視点からの記録が残っていれば,学会史や研究史を考える上でも有用だろうとおもっている.ただ,個人史は公的な文章として残されることは少ない.

今日,鳴門のM.Murata先生から,「鳴門教育大学地学教室村田研究室小史」鳴門教育大学紀要,34,270-322,2019を送って頂いた.早速読み始めたら,知った先生方の裏話もてんこ盛りで,一気に読めた.本文(12ページ)の後に,業績リストが付いているが,学術論文だけでも239編,教育大学で学生を指導しながら,ISOの耐火物分析の日本代表や,JICAでの学生引き受け等々,並の大学教員の数倍の仕事をしてこられたように思う.

いくつか印象的な文章など.
・マグマミキシングは現象論で成因論ではないという立場をとっていた.
・(青木謙一郎先生が)博士課程に残してくれたのは,ボコボコにされながらもカウンターパンチを繰り出すところを評価してもらったとしか思えない.
・青木先生からは何時も「花崗岩なんかやっていても意味が無い.車に轢かれて死んだ犬みたいなものだ」と云われていた.
・B先生から「君の岩鉱の論文は評価するが,Contributionの論文は評価しない」と云われた.
・東北大でItayaさんとの共同研究について書かれているが,Itayaさんは2回,個人研究史に近いものを発表されていた.*
・1986年のStanfordのIMA(国際鉱物学会)の花崗岩のシンポジウムで10人の招待講演者に選ばれている.EAZenとかMahood, Pichavant, Papike, Londonなど錚々たるメンバ.
・学位取得の後,PDを少しされて理学電気に就職したけれど,2件の国際会議に招待され,その他多くの経験を積まれた.
・鳴門教育大のスタッフの中でNishimura先生は緒方研出身でSIMSをされていた.
・多くの学位を出し,孫弟子ができつつあること.
・「Publish or perishの厳しい環境下にはなかったが,研究者として自らを律することはできたと思う.」

日本の岩石学研究の中で東北大学は特別な位置を占めると思うが,その人間関係の一部をはじめて知ることができた.