宗教や信仰や霊界観について述べると、「生きる意味もまだわからないうちから、どうしてその先の死後のことまでわかり得るものか」と言う人もいます。
これは、孔子が語った言葉だと思います。
しかし、これによって「私たちは無神論者で構わないのだ」と納得してしまってはいけないのです。
なぜなら、孔子は、宗教家ではないからです。
現代の日本でも、物理学者が「死後の世界なんてそんなものないの!」などと大っぴらに言ってますが、彼は物理学者であって、宗教者ではありません。
はっきり言って、孔子も、物理学者も、宗教や信仰については、門外漢なのです。
餅は餅屋と言うんですから、やはり、宗教のことは宗教者でなければわからないことです。
専門外の人が言うことを、鵜呑みにすべきではありません。歴史上の偉人とてそうです。
だいいち、必ず死にゆく、私たち人間が、「死」のテーマから目を逸らしていていいはずがないのです。
そうではないでしょうか?
その辺の動物は死について考えたりはしないでしょう。しかし、人間は単なる下等な動物ではありません。立派な頭脳を戴いてるものです。
やらない理由を探すのではなくて、やる理由を見つけていただきたいのです。
宗教で説かれていることは、何万巻の小説を読破したところで、学べないのです。それは、小説に書いてあることではなく、宗教書に書いてあることだからです。
はっきり言って、話題の本なんか読んでる暇があるなら、その中にひとつでも宗教書を割り込ませて読みなさいと言うのです。
僕なんかには、宗教に無知・無縁な人というのは、かたわな人間にしか見えないのです。他でどんなに優秀だろうが、宗教に無知な部分が、そこだけざっくりとえぐれているようにしか見えないのです。
世間の人々は、意図的に宗教を遠ざけて、宗教以外のコンテンツで人生をエンジョイしようとし過ぎなのです。
これは、主食を食べないで、お菓子ばかり食べているようなものです。あるいは、野菜を食べないで、肉ばかり食べているようなものです。栄養が偏っているのです。
たとえば、私たちが、生まれてから何年か何十年後か、7~80年後に、誰もがみんな、必ずアメリカに渡ることが決まっているとしましょうか。
だとしたら、どうでしょうか。
ほとんどすべての人が、前もって英会話を勉強したり、英語辞典を買ったり、アメリカのガイドブックをめくったり、現地ガイドに話を聞いておいたりするのではないでしょうか。念入りに下調べをしておくのではないでしょうか。
ほったらかしの人はいないでしょう。
それなのに、なぜ、死の準備だけはしないのでしょうか。
私たちは、生まれてから何年後か何十年後か、あるいは7~80年後には、必ず死ぬことが決まっているのにです。
なぜ、前もって死後の世界のことを調べておかないんでしょうか。なぜ、宗教書を買わないんでしょうか。なぜ、宗教書をひもとかないんでしょうか。なぜ、宗教家の話を聞きに行かないんでしょうか。なぜ、下調べをしておかないんでしょうか。
なぜでしょうか。
どうしてですか。
僕にはまったくわからないのです。
その「心」が。
おそらく、本人も自分でもよくわからないはずです。
これを、やらないでいい理由などなく、やるべき理由しかないからです。
頭ではなんとなくわかっているが、直視できないのです。
私たちは、一人残らず死ぬのです。
この事をほんとうにわかっていますか。
宗教というのは、人間の必修科目なのですよ。
僕は一度たりとも、「宗教の信者になれ」とは一言も言っていません。
宗教の信者になるかどうかはともかく、死後の世界を事前に知っておくことは非常に大事なことです。
「生きる意味も知らないうちから、どうして死の意味がわかるだろうか」と言うよりも、死の意味を知ることによって、そこから生の意味もよくわかって来るのです。
ゴール地点の「死」の観点に立って、現在の自分の「生」を眺めてみることには、大きな意味があります。
「死」から逆算することで、はじめて「生」をどう生きるべきか、どんな「生」にしたらよいのかが、わかって来ます。
時おり「死」の側に立ってみて、そこから「生」を逆照射することによって、生が充実するのです。
色々な見地を知ることで人は学ぶのです。