さあ、前回の「物理学は宗教を証明し出している」の解説をしようかね。
僕は理系じゃないんで、数式も専門用語もなしでやるけどね。
物理学では、「二重スリット実験」っていうのが繰り返し行われたっていうんですよ。
二重スリット実験っていうのはどんな実験かというと、スリット(切れ目)が入った板と、的を用意するんだね。

で、まずは、1本のスリットが入った板を置いて、その先からボールを投げる。
そうすると、スリットを通って奥の的に当たったボールは、1本の線を描くね。


これを、2本のスリットが入った板でやっても、同じく2本の線を描く。

今度は、ボールじゃなくて、波を当ててみる。
波だと、1本のスリットの場合は、1本の線を描くけど、2本のスリットに替えると、2本のスリットを通った波同士が干渉しあって、いくつもの波の山ができて、その数だけの線が描かれる。


ここまではいいよね。
次に、これと同じ実験を、素粒子でやってみる。
素粒子っていうのは、分子→原子→電子、陽子、中性子→クォーク(素粒子)と限りなく分解してった、物質の最小単位とされるものだね。
その素粒子を、1本のスリットに当ててみたら、ボールの時と同じ、1本の線が描かれた。だけど、これを2本のスリットに替えた時に、問題が起きたんだな。
2本のスリットにしたら、なんと、いくつもの線を描いたからだ。

つまり、波と同じ現象になったわけだ。
この結果に、科学者は驚いた。だって、素粒子は「粒子」だと思ってたんだからね。
ここで、素粒子は、粒子でもあるが、波でもあるという解釈を立てた。
そして、粒子と波の性質をあわせ持つものであり、質量や体積を持つ粒子とは異なるという意味で、量子と呼んで区別するようになったんだな。
そのあとで、では粒子がどのようにスリットを通るのかを観測しようとして、横に観測機を置いて調べてみた。

そうしたら、なんと、さっきは波のような縞模様を描いてたのに、今度は、ボールの時のような、2つの線を描いたんだよ。
この時、実験材料で何を変えたかっていったら、観測機を置いたっていう、ただそれだけだった。
にもかかわらず、ただ観測機を置いただけで、まるでそれを感知したかのように、素粒子の性質が、波から粒子に激変したんですよ。
何がなんだか訳がわからないけど、物理学者は、とにかく、目の前で起きた現象を受け入れなければならない。
ここで、「量子は、観測によって物質化し、観測されないと、波動として散乱する」ことが発見された訳だ。
つまり、これは、「色即是空、空即是色」そのものなんですよ。
「物質(色)は即ち霊(空)であり、霊は即ち物質である」っていうことだね。
「この世は、バーチャル(仮に現れているに過ぎない世界)だ」っていうことです。
実は、量子力学の世界では、意識的な「観測」によって物質ができていて、「観測」以前において、物質はないんですよ。物質というのは、観測によって仮に現れているものに過ぎないということです。これが、「この世(物質)は虚の世界であって、あの世(意識)こそが実の世界である」ということの根拠です。
つまり、「意識」と「肉体、物質」は別物であって、意識こそが、肉体、物質を形成しているのだということです。前回のコラムの意味はそういうことです。
僕はさらに、これを、神の業としてとらえたいと思います。
意識が、物質に先んじるということは、これはまさに、聖書に言われる「はじめに言葉ありき」の世界だよね。
人間は、「人間よ、在れ」という意識によって、現れているに過ぎないものなの。
じゃあ、その、「人間よ、在れ」っていう意識を発信し、観測し続けている者はなにかっていったら、「神」だよね。
医学者のスチュワート・ハメロフは、これを、神という言葉の代わりに「原意識」って言ってるみたいだけど。
つまりね、人間も含めた、物質で出来上がった「この世」っていうのは、「神の観測によって、仮に現れている世界に過ぎず、神による観測が失われたら、波のように散乱して消えていくものだ」っていうことですよ。
何が言いたいかって言うと、「科学と宗教は、ここに来て同じ結論に辿り着こうとしている」って言うことです。
宗教によって、何千年も前に看破されているステージに、やっとこさ、科学が迫って来たっていうことです。
さあ、この事実を、人より早くのみ込めるか、のみ込めないかで、また頭のよさが分かれてくると思うぜ。