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私たち人間がいがみ合うのは、お互いの心が見えないからです。
他人の心が手に取るようにわかれば、いさかいは起きないのです。
その人が、なぜそういう言葉を発し、なぜそういう行動を取るのかということがわからないから、憎しみが生まれます。
これが手に取るようにわかったら、他の人を許せるのです。
なぜなら、その人がなぜそういう言葉を投げかけ、なぜそういう行動の中にあるのかということが、そのわけが手に取るようにわかってくるからであります。
しかし、人間はそのようになってはいません。
人の心は見えません。人の心はわかりません。
しかし、人の心が見えず、わからないからといって、すぐに他人を信用しないということにはならないでしょう。
例えば、出来の悪い子どもがいたとします。
自分は出来の悪い子どもを持ったと思っているかも知れませんが、子どものほうは、出来の悪い親を持ったと思っているかも知れません。
現在、仲違いをしている人がいるかも知れません。
他人の心は見えませんが、見えないからと言って、信じないということではないでしょう。
ここでも、目には見えないが、「信じる」ということがあります。
心が見えないからと言って、簡単に匙を投げてしまったり、見切りをつけてしまったらそこでおしまいです。たとえ、約束・信義・期待に背かれたとしても、粘り強く信じていこうとするのではないでしょうか。
それでこそ、感動というものがあるのです。
困難を乗り越えたあとにわかり合えた時の喜びは、何物にも代えがたいものがあります。
お互いの絆を何倍にも強くします。
お互いの心が見えれば、なんの苦労もなくていいし、人間関係もスムーズにいくでしょう。
しかし、いつもいつもそんないいことだらけであったら、逆になんのありがたみも感じられないのです。
なんの苦労もなく、お互いの心が見えたらいいですが、そんないいことばかりだったら、ありがたみがなくなります。
自分の心を見せられず、他人の心も見れないというのは、不自由なことに思えますが、人間としての忍辱の修行もここにあるのです。



与える愛の中には、相手への思いを切り換えるということも入っているのです。
相手に対して裁くような目で見た、そういう貧しい心の自分ではなかったか。さすればその思いを圧倒的な善念に切り換えることはできないか。
これを思わないということは、その人自身の罪であります。それを思わなければいけない。
自分の目に映っている他人の姿はかならずしも完全ではないと同時に、他人の目に映っている自分もかならずしも完全ではないのであります。
「自分だけが他人に理解されていない」と思うかもしれないけれども、自分もまた他人を完全には理解していないのであります。
しかし、そのことを棚に上げて「自分だけが理解されていない。あの人は自分を誤解している」と、このように考えがちなのであります。
たとえば「あの人は自分のことを50パーセントしかわかっていない」と思うかもしれない。
では自分はいったい何パーセントわかっているのか。「100パーセントわかっているのか」、と言われた時にそこで詰まるのです。
「あなたは相手を理解していると言い切れるか」といったときに、かならずしも言い切れないのであります。
その、おたがいに理解できていないという面は、かならずしも相手だけの責任ではなくて、自分自身にも原因があるということであります。
少なくとも、自分が相手を理解していないのであるならば、自分も、相手に完全に理解されることを望んではならないわけであります。
相手に見えない自分の面があるように、自分にも見えない相手の面があるということです。



参考文献;「瞑想の極意」幸福の科学出版