






オレが「荘子」を読んだのは、高2の時だった。
倫理社会の授業で荘子をやったんだ。
その時に、母親が買ってくれたのが、この本。もう36年も一緒。
「現代語訳荘子」。
荘子関連本は、どうせいっぱい出てるんだろうけど、どれを見ても、これを上回るものはないね。訳がね、自然じゃないんだよ。荘子は、「無為自然」なのに。それから、おおざっぱでいいんだ。荘子本は、堅くなりがち。
オレも荘子は読めてないけど、荘子のエッセンスは、「さかしらを捨てよ」だと思う。「さかしら」っていうのは、「わざとらしさ」とか「能動性」とか「人為」ね。
頑張っちゃいけないんだよ。
頭のなかであれこれ考えるのもだめ。
頑張らないから、悩みもない、ね。
オレの人生観は、全部じゃないけど、半分ぐらいは荘子かなあ。
荘子の思想そのままでは生きていけないからね。
前やってたんだけど、また荘子の引用を再開しようと思って。
まずは、これ。荘子は、「まじめな人間も不まじめな人間も同じだ」、「聖人君子として死んでも、泥棒として死んでも、どっちも死んだ事実は同じだよな」と言うんだよね。
三代からこのかた、世をあげてみな、なにかのために、その生まれつきを、変えてきている。
庶民は、わが身をはって、利を追い求め、士は、わが身をはって、名を追い求め、大夫は、わが身をはって、領地を追い求める。
こういう人々は、する仕事が同じでなく、名声の立ちかたもちがうが、それぞれの生まれつきを傷つけ、わが身を物のためにすてている点では、まったく同じである。
下男と下女とふたり、いっしょにヒツジかいをしていて、どちらも、ヒツジを逃がしてしまった。
下男に、どうしたんだと問うと、
むちをわきにはさんで本を読んでいた、
とこたえた。
下女に、どうしたんだと問うと、
ばくちをしてあそんでいた、とこたえた。
このふたりは、した事は同じではないが、ヒツジを逃がした点では、まったく同じである。
伯夷は、首陽山のふもとで死んで、名を得、盗跖は、東綾のうえで死んで、利を得ている。
このふたりは、その死にかたは同じではないが、生をそこない、生まれつきを傷つけている点では、まったく同じである。
なにも伯夷を是とし、盗跖を非としなければならぬことはない。
世をあげて、みな、なにかのために、その身をすてている。
そのために身をすてているところが仁義であると、世俗はその人を君子という。そのために身をすてているところが貨財であると、世俗はその人を小人という。
けれども、自分以外のもののためにわが身をすてていることにかわりはない。
そこでは、なにも君子と小人の区別をつけることはない。
わたしのいう「善」は、ひたすらその生と命のままにまかせることである。
わたしのいう「さとさ」とは、ひたすらみずからに聞くことである。
わたしのいう「あきらかさ」とは、ひたすらみずからを見ることである。
いったい、みずからを見ないで、ひとを見、みずからに得ないで、ひとのまねをするのは、みずからわが身を得るのではない。ひとの都合に合わせるというだけで、みずからわが身に合わせるのではない。
わたしは、このようでは、道徳にはじる、と思う。だから、あえて仁義のために操をたてることもしないが、また、あえてふけりおぼれたおこないもしないのである。
参考文献・「現代語訳 荘子」 外篇 併拇 第八(原富男、春秋社)