無欲とは普通、欲のないことをいいます。世の中で生きていく上で、欲がなければ人間として生きていく価値がないです。生きていて、本能のままに生きていくと、どこかで障害が起こりますね。
無欲

 ここで言う無欲とは、心を無にすることです。「無心」です。「欲望がなければ、人間として成長がない」と言われますが、欲がない人なんかいません。普通、無心とは「深く思う心のないこと」とか「無情なこと」など、世の中で生きていく上で、人間としてつまらない人と評価されます。また、無欲は、スポーツなどで「無欲の勝利」という称賛の言葉にも使われます。これは、多くの欲を排除して、精神的に集中し「無心」になることにあたる。仏教では、無心のことを「凡夫の一切の妄念がとりはらわれた心」と言われています。無心とは、注意深く心を働かせ、物事の道理・善悪・損得などを判断すること、「思慮分別」です。物事の道理・善悪・損得は、自分自身に持ち合わせるのではなく、他方からの情報を得ること。人間誰しも、仕入れてきた情報を総括して、注意深く心を働かせて、「物事の道理はこうだ、ああだ……」とか「それはよいこと、悪いこと」とか「それは損だ、得だ」などの判断する。情報社会において、多くの情報が存在する。その情報の真相を見極め、自分の心の迷いを絶ち、真実を見つけ出すことができる能力を「無心」という。そのような無心の境地に達した時に「無欲」の状態になる。

欲求と欲望

 無欲の対義語は、「欲求」と「欲望」のあたる。欲求は、「ある物を得たいと強く願うこと」であり、いろいろな情報得て、他の人と比較し、自分自身の欠乏していたところを満たそうとすること。この気持ちが満たされないこと、即ち、心理的要求が外部の条件によって妨げられる状態により、「欲求不満(フラストレーション」を起こす。自己意識が強い人ほど、「自分を認めて貰いたい」とか「人よりも優位にtちたい」という気持ちがあるが、それが実現しなかった時に「欲求不満」になる。強い欲求不満をもったとき、「いじめ」や「意地悪」や「暴言・暴力」となってしまう。欲望は、意識的であれ、無意識的であれ、欲求が願望に変わるときに生じる。即ち、欲望とは、欲しがる心です。「お金が欲しい」「物が欲しい」「美味しいものが食べたい」「好きなことがやりたい」「男が欲しい」「女が欲しい」「愛されたい」「理解されたい」「認められたい」「他人に勝ちたい」と限りなく求め続ける心です。「性的欲望」などのように道徳的に抑制されるものが多い。サルトルによれば、欲望が理性主義者により、卑しい行為と決めつけているのに対して、「自分に欠けているものを求め、欠けていない存在になろうとすること」と解いている。禅宗の僧侶は、自ら持っている欲望を断つために座禅をし、比叡山の「千日回峯行」や大峰山の「百日回峰行」をして、人間の持つ欲望を断つために修行をする。

 昔、欲望のことを本能と同意語のように使われていた。人間が生まれた時から持っているものとして、「欲望」と「本能」は同じように使われていた。アメリカの哲学者のウィリアム・ジェームズは、「本能とは、結果についての見通しをもたず、事前訓練もなしに特定の目的を達するように行動する能力」であるといっている。本能は、自然界のすべての動物に備わったもの。人間はその本能プラス感情や意思を備えた「欲望」を所持している。最近では、「本能」という言葉は使われなくなった。本能は、少し差別用語として扱われ、心理的欲求と表現される。また、頭脳解説で「本能」という言葉を、科学的用語として使われることがある。