ダニエル・キイス 「アルジャーノンに花束を」

この本は不朽の名作と言われていて読みたかった本だ。読後、やっぱり名作と呼ばれるだけあってとても良いものだった。今では大好きな本のひとつだ。話は、知的障害を有する主人公チャーリィがひょんなことから賢くなる手術を受ける。それにより次第に理解力、記憶力が強化されていき、周囲のものたちの反応やいじめ、両親の苦悩や家族間でのいざこざなど知的障害を有する者への風当たりの強い現実を思い出す。それからどんどん賢くなっていき、ついには天才と呼ばれる域まで達したが、そこでもまた妬み嫉みや孤独、周りへの軽蔑感などに苛まれていく。唯一の友達は、賢くなる手術を一緒に受けたネズミのアルジャーノンだけだった。という話だ。この本で語られていることはいくつかあるが、まずは知的障害など障害を有する者への周囲の反応だ。僕たち人間は、何かしらの集団に属して生活していることが多い。となるとその集団にとって異色とされるものは排除される傾向にある。出る杭は打たれるとはよく言ったものだ。そうなるといじめや差別が起こってくるわけだ。子供たちは学校という小さなコミュニティでいじめや差別を繰り返し、大人たちは世間という大きな枠組みで苦悩する。周りの目を気にすることも少しは大切だが、本当に大切なのは自分自身の考え、周りの人たちへの寛容さであると僕は思う。主人公チャーリィも作中で「障害のある人でも一人の人間とみてくれ」と言っている。障害もその人のひとつの個性だ。個性を尊重し合える関係を築くことが真の人間関係の構築と言えるだろう。

僕は医療従事者を目指すものとして、周囲の人たちへの寛容さを磨きたいと思う。この本に出会えてよかった。

 

 

JDサリンジャー 「ライ麦畑でつかまえて」

この本はとても有名で読みたかった。話は、中学、高校生くらいの男の子が度重なる学業不振による退学を繰り返し、学校を転々としていた。その中で、学業に励まない理由、学校が嫌な理由、嫌な奴らたちとの話、ちょっと羽目を外したり、家出を企てたりと思春期の子供の苦悩や葛藤を描いている。ちょっと背伸びしてみたかったり、周りの大人やクラスメイトへの苛立ちだったり、世の中を斜に構えた感じだったりと僕もそんな時期があったなと思わせるような内容でとても大好きな本だ。主人公は学校に行かず、数日間放浪していくが、僕もがっこうが大嫌いだった時期があったのでとても共感できる。学校という小さなコミュニティで威張っている奴らが本当に嫌いだった。しかもそういう奴らに限って、顔はあんまりよくないくせに口だけは達者で、はっきり言って人間のクズみてえな奴らがいた。人間はとても欲深い生き物だ。特に中学、高校生くらいの年頃は、妬み嫉み、弱い者いじめ、自己顕示欲などあらゆる欲求に忠実でいとも簡単に他者を傷つけることができる。僕はそんな奴らが大嫌いだった。子供だけではない。大人でさえそんな幼稚な考えで他者を傷つける奴らばかりだ。僕は人間が嫌いだ。シェイクスピアは、「赤ん坊が泣いて生まれるのはこの阿呆ばかりの世界に絶望しているからだ」と書いた。どいつもこいつも阿呆だらけだ。僕は、人間も、人間が作る社会も、その社会によって動いている世界も本当は嫌いなんだ。だから僕が本を読むのは現実逃避をするためでもある。僕も含めて人間なんて等しく愚かしい。

 

 

JDサリンジャー 「ナインストーリーズ」

この本は、サリンジャーの短編集である。その中でも印象的な「バナナフィッシュにうってつけの日」を紹介しよう。話は、戦争から帰ってきた男が、のほほんと戦争など無かったように暮らしている家族との心の乖離から、PTSDに似たものを発症し、最後は拳銃自殺してしまうというとても衝撃的なものだ。表題からは想像もつかないような内容だ。しかも隠喩が数多く使われており、一回読んだだけじゃなんのこっちゃ分からない。解説を見て本当の内容の意味を知ることになる。こういった考察のし甲斐がある作品はなかなか珍しいのでその点も面白い。戦争は経験してはいないけれど、たくさんのご老人の方々から話を聞いてある程度は想像できるようになった。だがやはり実際の戦場は当人にしかわからないし、戦争が終わってもなおPTSDなど心の病に苦しむ人がいることを受け止め、二度と起こさないようにしなければならない。

 

 

森見登美彦 「ペンギン・ハイウェイ」

森見登美彦三冊目となる本で、今回はよりファンタジー要素が強めだった。話は、小学生の主人公が、ペンギンを作り出すことが出来るお姉さんと出会う。その謎を友達と一緒に解決していくというものだ。正直期待していたほど面白いとも思わなかったし、台詞回しも今回は小学生が主人公とあってかそんな突出していなかった。でも小学生のころの雰囲気を味わえて懐かしい気分になった。背伸びしたい、色々なことに興味を持つところなど小学生のときの自分を思い出して懐かしかった。

 

 

寺山修司 「書を捨てよ、町へ出よう」

寺山修司は昭和後期、平成初期くらいの評論家、脚本家である。今回の本は、昭和の世の中を批評したような内容だった。第一章の「書を捨てよ、町へ出よう」は老人たちが実権を握っている今の世の中を嘆いていた。若者は、何事にも挑戦し自立することが大切だみたいなことを言っていた。印象に残った文は、「道徳などというものは、所詮は権力者が秩序と保身のために作り出すものに過ぎない」という文だ。第四章の「不良少年入門」では自殺のことについて書いてあった。昨今の自殺とは、何か外的なものに思い悩み死ぬことが多いが、それは他殺であって自殺ではない。自殺は、自分の内的なものでこの世に満足し悔いなく死のうかと思うことだみたいなことが書かれていた。確かに、他者やそれに関する出来事に思い悩み死んでしまうことはとても勿体無い。この人の本は面白い。

 

 

寺山修司「戯曲集 毛皮のマリー 血は立ったまま眠っている」

この本は寺山修司の戯曲集だ。印象に残ったものをいくつか挙げようと思う。まずは「さらば、映画よ」だ。僕たち人間はみんなだれかの代理人で、代理し、代理されている関係なのだ。と語っている。仕事も消費も誰かの代理で成り立っているのだ。その後、映画の中で演じている人間たちも自分たちが代理人だと気づいてしまう。というメタ的内容になっている。メタフィクションは時々使われる技法であるが、僕たち自身も誰かの代理人だというメッセージを伝えてくることがとても印象に残った。劇で見てみたい。

次は「毛皮のマリー」だ。これはオカマであるマリーとその子供である少年の苦悩を描いた作品だ。ゲイ、バイセクシャルなど性一致していない人たちは昔から差別の対象になる。その苦悩が書いてあった。そしてマリーは自分の子供もオカマに仕立て上げようというのだ。それに気づいた子供は性一致に混乱し、友達であった女の子を殺してしまうという最後の最後に悲劇を持ってくる物語だった。

最後に「血は立ったまま眠っている」だ。これは世の中に不満のある若者たちの話が交錯しながら進んでいくというちょっと読みづらい内容だった。印象的なのは、仲間内でいざこざが起き、間違って姉を殺してしまうというところだ。正直話の内容はややこしくていまいちだった。

という感じで紹介してきたが、やっぱり戯曲はほかのジャンルよりも読みづらいことが再確認できた。でも面白いものもあるので、これからもたまに読んでいきたい。