ノーベル文学賞が延期になったそうだ。
私には、このニュースはショックだった。
毎年、政治や地勢、トレンド、人気、
いろんなしがらみをかいくぐって、
どんな作者が選ばれるのか。
それはもちろん参考になったし、
古今東西、全ての作品を読むことは不可能である。
そして、その過程を経た上でないと、優れた作家に出会えないということも無茶である。
これはいいよ!って、
賞をもらったからって理由からで構わない。
私には、
世界的な賞をもらったことをきっかけで、
出会えたいろんな作家がいる。
ノーベル文学賞の延期の理由もショックであった。
世界的にミートゥー運動が広がっている。
いくら、男の方が体格が大きく、腕力で優れていたとしても、
世界の半分を占める女が結束することは威圧になるし、少なからず恐怖だろう。
衝動でことを起こして、
暴露されることに怯えて過ごしている人って割と多い。
これで浮き彫りになった事実に、
戦慄が走った。
こんなに沈黙を強いられた人が多かったなんて。
そして、自分は被害者でないとマインドコントロールされていた人も。
ハリウッドで行われているミートゥー運動。
これで隠されていた事実が浮き彫りになった映画監督の中には、
私が本当に心から愛した映画を作った人が、
少なからずいた。
私は、あまりこの事実に目を向けたくなかった。
私は女なのに。
何かを変えようと必死で戦っている女たちがいるのに。
芸術とは狂気と裏合わせで、
人間は間違いを起こす生き物。
きっと身近でそんなことがあったら、
そんなわかったようなセリフは決して言えないだろう。
間違いなく殺意を持つと思う。
映画『評決のとき』で、
主人公の弁護士が、
陪審員に訴えかけるラストシーン。
目を閉じていても、
耳を塞ぎたくなるような、
生々しい残虐な光景が思い浮かんでしまう。
心のどこかでは差別をしていて、
自分とは関係のないことだとはなから思っている自身の醜さに気づかされる。
数少ない、きっと選ばれたのだろう人間が、
狂気のリスクを冒して、
あちらの世界から持ち帰った作品を、
私は自分の小さな部屋で読んでいた。
部屋から出るときは、そこはもう別世界で、
自分は今までとは違う人間になっている。
そんな思い出と、
愛情を、
どう処理していいか一瞬わからなかった。
でも、できたら、
この運動が日常的になって、
男の横暴さと、
抑制できない部分もあるのだろう衝動への牽制になって、
陰で泣く女性が、減っていけばいい。
こういう暴力も、
一人の人間の一生を変えてしまうのだから。