産経新聞「正論」への寄稿に猛烈に反応した橋下大阪市長。
https://twitter.com/#!/t_ishin
藤井教授によると、「正論」の別稿があったが某メディアから掲載を拒否されたとのこと。
以下、全文を引用。
行きすぎた分権,今求められる集権
http://trans.kuciv.kyoto-u.ac.jp/tba/index.php/b4/job/143-bunken.html
(本稿は、某メディアから原稿依頼を受けて入稿した所、内容確認後に、その掲載を拒否されたものです。ついては取り急ぎ、当研究室のHPに掲載いたします。 平成24年1月25日 藤井聡)
行きすぎた分権,今求められる集権
京都大学教授 藤井聡
高まる現政権に対する国民の不満
平成24年には,政局の流れによっては総選挙があり得るのではないかと言うことが,政界筋から様々に漏れ聞こえている.
多くの国民が大きく反発し,多くの学者等の知識人が日本の国益を大幅に棄損することが明白であることを繰り返し指摘しているTPPを推進しようとし,同じく様々な論者が日本のデフレをさらに加速すると指摘する増税を不退転の決意でもって進めようとしている一方で,震災復興に対しては大方の国民が不満を抱く程の不十分な対応しか図ろうとせず,沖縄基地問題や尖閣諸島や竹島問題をはじめとした外交国防問題についても解決の糸口すら見い出し得ぬ現政権に対して,多くの国民は絶望的な気持をもって眺めているのが実情であろうと思う.
しかも,政権を奪取した時に掲げたマニフェストの根幹であった「政治主導」はほとんど有名無実化され,今や,前政権下よりもより過激な「官僚主導」がまかり通っている.いわば,「票を入れてくれたら,これをやります」という「約束」を公に公表し,その「約束」を耳にした多くの国民が票を入れたにもかかわらず,今になってその「約束」の多くを「反故」し続けている訳である.これでは胡散臭いツボやハンコを売りつける悪徳商法との間の構造的差異を見いだすことが難しい程の不道徳だと言われても致し方なき所であろう.
こうした中,国民の不満は徐々に高まりつつある.
無論,諸種の事情から,現政権の政策方針に基本的に「賛同」している大手メディア各社の偏向した報道のためか,政府の支持率は一桁にまでは落ち込んではいないものの,それでもなお,その支持率は低下の一途を辿っている.国民もメディアに完全にだまされる程には愚かではないのである.
より過激な「自民的ならざるもの」としての「維新の会」
そんな中,今,大きく注目を集めているのが,橋下大阪市長が代表を務める「大阪維新の会」である.
言うまでもなく,「維新の会」は地方政党であり,国政に関わる政策指針を綱領に掲げるものではない.しかし,テレビ,新聞等の大手メディアは,こぞって橋下氏を大きく取り上げ,この平成日本全体の閉塞感を打ち破る可能性を橋下氏の中に見いだす論調を繰り返し発信し続けている.さらには,多くの政党も橋下氏に大きな期待を寄せ,直接間接の協力を維新の会に申し出ている.
こうした状況には,上記の現政権に対する失望感のみでなく,野党第一党である自民党に対する国民の不信感も色濃く反映されている.
そもそも,民主党を批判する常套句は「それじゃ自民党と同じじゃないか」というものである.これはつまり,「民主党」なるものは「自民党的なるものに対するアンチテーゼ」という一点にこそ存在意義があったことを示している.だからこそ世論においては,「民主がだめだから自民」とはならないのである.多くの国民は,いつの頃からか民主とは別の,反自民的,非自民的なるもの(さらに言うなら,反田中派的なるもの)を探し求めるようになったのであり,その受け皿として「維新の会」がスッポリとはまり込む格好となったのである.いわば,これまでかつて「民主党」が演じ,次に「みんなの党」が演じていた役割をより国民の皆様のご期待に添う格好で上手に演じている党,それが,維新の会なのである
実際,橋下氏のテレビでの発言は,政治家特有の曖昧模糊な物言いが全く無く,極めて歯切れ良いものである.弁護士という職業の中で鍛え抜かれ,しかも,一般国民がいとも容易く納得できる様な発言をし続けなければレギュラー枠を取ることなど絶対にできない民法のゴールデンタイムの高視聴率番組で出演し続けることを可能にせしめた「話術」がある.橋下氏は,この類い希なる話術を駆使しつつ,多くの国民が期待している「自民的ならざるもの」を徹底的に演じ続けていると言うことができよう.
ところでもしもその演技が,日本の国益に叶うのなら,国民は皆,その役を演ずる橋下氏に最大限の敬意を表し,彼と彼率いる維新の会を徹底的に応援することこそが,日本国民として正しき振る舞いなのだと言わねばならぬであろう.
しかしもしも万一,それとは逆にその演技が,国益を損ね,国民の安寧と誇りある暮らしを根底から破壊するものであるのなら,どれだけ国民的支持が集まろうとも,世間の風潮に抗いつつ批判を差し向け続けることが,日本国民として正当なる振る舞いと言うことができるだろう.
では,橋下氏の演技は日本の国益に叶うものなのか否か───.
「地方主権論」の愚かしさ
この点について筆者は残念ながら,維新の会が主張する考え方の諸政策をマニフェストに掲げるような政党が(それが維新の会そのものであるか,また別の党であるかはさておき),次の総選挙にて大きく勝利する様なことがあれば,国益は大きく損なわれるであろうことを確信している.
なぜならその政策綱領を精読すれば明らかな様に,その考え方の中心に位置しているのが,「地域主権」というキーワードが暗示している「中央集権の抑止と地方分権の推進」だからである.
しかし考えてみれば当たり前であるが,中央の権限を極端に地方に分権してしまえば,日本中の「地方」は不幸のどん底に沈み込むこととなる.
例えば,強いサッカーチームには,個々人の才能も個々人の自由奔放なプレイも必要であるが,それにもまして必要なのは,優秀で,しかも強い権限を持つ「監督」である.そんな監督が不在であれば,どれだけ選手が優秀でもそのチームは連戦連敗とならざるを得ない.
無論,地方主権論者は「監督に権力が集中している!それを分散化して,選手がもっと自由に動けるようにすべきなのだ!!」と主張することだろう.
しかし,今の日本は,首都直下地震や東海南海東南海地震や日本のマクロ経済のデフレ不況,早晩生ずるであろう世界大恐慌等,多くの国民と多くの自治体に対する中央の「指揮」が不可欠な,国家的問題が目白押しとなっているのである.これらの問題に対処するには,迅速な国土強靱化のための国土計画の策定と推進,何十兆円という財政出動や積極的な金融政策であるが,これらはいずれも,昨今の改革に次ぐ改革によってもたらされた「中央の権限の弱体化」によって不能となってしまっている.例えば国土構造の「分散化」一つとってみても,その実行のためには「強力な中央の権限」が求められているのだ.つまり,国土の「分散化」のためには逆説的にも「集権化」が不可欠なのである.
すなわち,今,求められているのは,地方分権の過激な推進などではなく,適正な中央集権と地方分権のバランスを,一つ一つの項目について専門的,かつ,鳥瞰的長期的な視点から調整していくことなのである.
ところが,「道州制」や「地方主権」の議論には,国というものを「協力すべき対象」というよりは,「地方に敵対する対象」と見なしつつ,中央集権が「悪」であり地方分権が「善」だと考える傾きを,拭いがたく胚胎している.
言うまでもなく,「兎に角,地方分権が善い」という態度は,「兎に角,中央集権が善い」という態度と同じく,度し難く愚かしいものだ.
だからこそ,筆者は大いに危惧しているのである.
一ローカルから始まった「維新の会」の運動ではあるが,それが国政にまで影響を及ぼす迄に成長していく中で民主党が政権交代の際に掲げた「地方主権」の路線がさらに過激に推進され,それを通じて国と地方の適切なバランスがより大きく乱れ,その結果,国家的な取り組みの多くが座礁し,日本の国益が大きく棄損され,最終的に日本全国の諸地域と日本国民全員がさらなる不幸のどん底にたたき落とされてしまうことを───.
そうした最悪の帰結を避けるためにも,一人でも多くの国民が,思考を停止するかの様に「地方分権!」「地方主権!」と声高に叫び続けることを差し控え,適正な国と地方のあり方を一つ一つの項目毎に是々非々で判断していく節度ある態度を取り戻すことが求められているのである.そしてその上で,早晩行われるであろう総選挙にて,今度こそ日本国民は節度ある判断を下さねばならないのである.
もしそれが出来ぬのなら───「地方分権」によって丸裸にされた我が国日本は巨大災害や世界恐慌の直撃を受け,二度と立ち上がれぬ貧国へと凋落する危惧が極大化してしまうこととなる事は避けられない.つまり我々は好むと好まざるとに関わらず,我々日本国民自身のために,そして孫子の代の日本国民のために,適正で節度ある政治的判断を下さねばならぬ重大な瞬間に,今まさに直面せんとしているのである.
以上、引用おわり。