離婚訴訟おぼえがき : 境界性パーソナリティ障害(BPD)とDV冤罪の深い関係

離婚訴訟おぼえがき : 境界性パーソナリティ障害(BPD)とDV冤罪の深い関係

境界性パーソナリティ障害(Borderline Personality Disorder)と覚しき妻と「黒弁護士」から、事実無根のDV冤罪訴訟を提起されてしまった夫が、DV冤罪訴訟やBPD等についていろいろ書いていきます。

2012-09-30 23:59:59
現在、ブログエントリを一時休止中です(すみません)。近いうち?年内?には再開いたします。 m(_ _)m

2013-03-31 20:00:00
「一時」休止と言いながら、かなり長くなってしまいましたが、まだしばらく継続です。
Amebaでブログを始めよう!
ドメスティック・バイオレンスとは(再定義と再理解)その3

<その2から続く>

第五章 被害者と加害者の心理


被害者の心理と症状

<中略>
暴力から離れることのできた被害者の声を聞くと、最初に必要なものは「情報」であるということで一致していた。
話を理解してくれる人がいることや、生きていく方法があるということ、このような被害に遭ったのは自分一人ではないと知ることが、もっとも大切なことである。



被害を受けることの「意味」


しかし、まったく無意味に被害を受け続けることは、人間にとっては精神的なダメージが大きい。
というより、人はそういう無意味さには耐えられないのである。
犬ならラーンド・ヘルプレスネス(learned helplessness:学習された無力感)の状態でも生き続けるが、人間は完全にそんな状態になったら生きていけないのではないだろうか。

虐待を受けて大人になった人に「あなたは悪くなかった。虐待をした親が悪い」と励ますつもりで軽率に言うと、反発されることがある。
「私は自分が悪い子だから、殴られていた。親は私が悪い子だから、いい子にするために殴ったり蹴ったりした。もしそうではなくて、気まぐれにただ親が殴っていたのだとしたら、私は何のためにあんな苦しいことを我慢してきたのか。そんなことは受け入れられない。もし親がただ殴っていたのなら、私は生まれてこなければよかったし、いま生きている意味も無い」

被害者のこの問題は深刻である。トラウマを扱うセラピーでいちばん必要な、「生きている意味」にかかわることなのだから。「意味」は人が苦痛を乗り越えて生きるために、必要なものなのである。
これまでの生き延びることさえ難しかった時間について、突然「意味がなかった」と評価するのはとても残酷なことである。まず、本人が受け入れないだろう。

もちろん、この事態の責任を本人が取る必要は無いこと、あなたが悪いわけではないことはわかってもらう必要があるのだが(そうでないと「いつも私など死んだほうが世の中のためだ」といわれる)、でも、突然に過去の意味を奪い取ることも、相手を絶望のなかに放り出してしまうことなのである。


ドメスティック・バイオレンスの被害者も、ほかの人と同じように生きてきたことの意味を求め続けている。だからこそ、それが暴力から逃げることを躊躇させる。


「ええ、逃げ出す道があるってことはわかりました。でも、ここで逃げ出したら、私が暴力を我慢して、必死で生きてきた27年はすべて無駄だったってことになるんでしょうか。
また新しくはじめられるって言ったって、時間が帰ってくるわけじゃない。自分の一生のうちの一番大事なところがみんな間違いや無駄だなんて、受け入れられないですよ。
私は夫がいつか暴力をふるわなくなって、私に手をついて誤ってくれる日が来ると思って、それだけを希望にして生きてきたんです。すごく努力してきたんです。もう変わらないって言われても、どうしていいかわかりません」

「私は、こういう暴力の被害が私だけで止まるんなら、それでいいと思って我慢してきました。

外に暴力が向かったら誰かに迷惑をかけることになるし、子供が殴られたりしたらもう駄目だと思います。それなら、私一人が我慢すればいいや、って。
最初は口答えしたりしてましたけど、最近はもう黙っているだけです。終わるのを待っているだけです」

「私が一緒にいてやらなかったら、あの人は生活できないですよ。実際いなくなるのを怖がっています。

だって、私が見捨てたら終わりです。誰も相手にしてくれないで、もっともっと駄目になるでしょう。
見捨てることはできません」



このような気持ちは、被害者に多かれ少なかれ存在している。一種の喪失への恐れであると考えることもできるだろう。本書の冒頭に紹介した70歳の老人の妻も、また必死で自分の人生の身について考えている。
これらを簡単に切り捨てることはできない。しかし暴力の被害は、まず止めるところから、止まらないなら身を守るところから、虐待的な関係を変える第一歩がはじまる、というのも事実である。被害者にとって自分の行為の意味を確かめつつ進むのは、第三者が考えるよりずっと勇気を必要とすることなのである。「喪失」についても、注意深く敬意をもって扱う必要がある。この点についてはまた後で述べることにする。
<中略>


精神科とドメスティック・バイオレンス

ただし、ドメスティックバイオレンスの被害者が精神科を受診するときの状況を考えてみると、このような診断の前に大きな問題がある。私は普段は被害者相談に来た人たち等を診療しているので、そのときにドメスティックバイオレンスの被害そのものが隠されていることは少ない。被害を受けて体の具合が悪いと相談されることがほとんどである。

けれども、一般の精神科臨床ではそんなことはない。精神病院の外来診療をやっていて、ドメスティックバイオレンスの被害者を見つけたことがあったのだが、そのときに患者は、最初はドメスティックバイオレンスについて話さなかった。
その女性は最初、不定愁訴をたくさん抱えた五十代の女性としか見えなかった。

内科や心療内科を訪れて、腰の痛みや、吐き気や、めまいを訴え、検査をしても特に器質的な原因は発見されず、ちょっと温和精神安定剤をもらうか、対症療法の薬、頭痛薬や吐き気止めや降圧剤などを山のようにもらい、それでもよくならないという不満をもって精神科に来ても、また医者に相手にされず、よく話を聞いてもらえない人たちがいる。
典型的なのは中高年の女性であり、「更年期障害かも知れませんね」と言われて診察は終わりになることが多い。もちろん更年期障害が実際にあることもあるし、内科的な原因があることもあるから、医学的検索は必要だが、それが終わるとその先医者は興味を失ってしまう。
患者は相変わらず、毎回からだの不調を訴え、薬をもらっていく。
<中略>

もちろん、このような症状を訴えてくる人が、みんなドメスティックバイオレンスの被害者だというわけではない。けれどもこの人以外にも、体の症状だけを訴えて、医者に本人の苦痛や困難が伝わっていないドメスティックバイオレンスの被害者が多いのではないかと、最近私は感じている。
しかも身体症状が重い場合、被害者は「とにかくよくならない。体をよくしてほしい。頭痛薬がほしい。胃腸薬もほしい」と体の症状の苦しさを訴えることでいっぱいになってしまって、それ以上に話が進まない。
身体症状の重さはその人の抱える心の傷つきの大きさを示していると思われるのだが、本人自身もその二つの結びつきを無視していることもある。自分の解決できない苦痛の問題に対する、一種の否認だと言える。

ドメスティックバイオレンスの被害者は、ずっと自分の感情や判断を無視され続けてきている。
自分の都合など聞いてもらったこともなく、防ぎようのない暴力に晒され、それでも誰にも注意を払われていないとすれば、突然あった人とコミュニケーションがうまくできないのも当然だろう。
<中略>


加害者のタイプ

ドメスティックバイオレンスに関する古典的著作のひとつであるレノア・ウォーカーの『バタードウーマン ─ 虐待される妻たち』(金剛出版)では、ドメスティックバイオレンスにおいては暴力がサイクルになっていることが強調される。
パートナー間に緊張が高まり、暴力がふるわれる時期があり、さらにその後に加害者が許しを乞い、やさしさを示す時期があること、それらがあるために被害者は、やさしい時期が『ほんとうの』パートナーだと思い、逃げることを考えなくなることなども書かれている。
このようなタイプのドメスティックバイオレンスがあることも確かなのだが、近年ではドメスティックバイオレンスの加害者にはさまざまなタイプがあると考えるのが普通である。どちらといえば、はっきりとしたサイクルは見られないケースのほうを、多く経験する。
<中略>

すべての加害者をきれいに分類することは難しいようである。以下に四つの要素をあげてみよう。これは決して分類ではなく、このような要素がドメスティックバイオレンスにつながるというように理解したい。それぞれが重なっている部分がある。


(1) 共感性の欠如
他人への共感が欠如し、自己中心的で、かつルールを破ることが平気であるような人たち、アメリカ精神医学会の診断マニュアル(DSM-IV)によるなら、反社会性人格障害やその傾向があるとされる人たちが、妻に暴力をふるうことが多いのは確かだろう。

この人たちは、外の世界でも暴力をふるいやすく、犯罪者となりやすい。人とのコミュニケーションは表面的で、ただ利用するだけであり、人の痛みにも自分の痛みにも鈍感である。彼らの対人関係は基本的に暴力で彩られる。自分の利害のみのために人を平気で傷つける。
こういう人たちが犯した犯罪について本人が述べるのを聞いたり読んだりすると、事件が無彩色で描かれているような気がする。起こっていることは激しく人間の感情を刺激しそうなことなのに、表現のなかに感情が乏しいのである。
凶悪な犯罪を犯していても、他罰的で反省しない、というよりできない人たちである。
<中略>


(2) 情緒の不安定
特に怒りの感情や、衝動コントロールの悪さが暴力に結びつく。常にコントロールが悪く、ちょっとしたことで怒鳴り、暴力をふるう人、また普段は温厚なのだが、あるとき切れると怒りに我を忘れる人もいる。
<中略>
実際はそうではなくて、夫は自分のしたことを認めたくないのであろう。これは加害者全体に共通する否認の申請の表れである。妻を傷つけたのが自分であることを認めないで、酒を飲み続けることは、非常に無責任な行為である。無責任なこの言い訳が通ってしまい、それ以上の反論ができない妻との関係は決して平等ではない。飲酒だけが暴力の原因だと考えると、加害者の正当化のわなにはまってしまうケースである。やはり自己中心的な態度が見られる。


(3) 激しく不安定な対人関係と、見捨てられないための常軌を超えたふるまい
激しく不安定な対人関係と、見捨てられないための常軌を超えたふるまいは、精神科の臨床では、境界性人格障害に主に見られるものである。さらに言えば、女性患者に多いものである。
しかし、ドメスティックバイオレンスをふるう男性にも、このような状態が見られることがある。依存と攻撃が同時に存在するような状態での暴力行為や、女性が別れるそぶりを見せたときに、自殺すると脅すことである。包丁を持ち出したり、自傷行為を行ったり、また無理心中を図ったりする。実際に殺人事件や自殺が起こってしまうこともある。

この人たちは見捨てられることへの恐怖が強いが、また見捨てた相手への怒りも強い。
ストーキングの一部は、このような捨てられることができない人たちの強迫的な行動からなっているが、ドメスティックバイオレンスの加害者は、女性に逃げられるとストーキングをはじめることがある。ストーキングとドメスティックバイオレンスは近縁にある。加害者に聞くと「最初は愛していたが、言うことを聞かず、憎しみでいっぱいになった」というように感情が変化している。

最初から自分が愛されるか否かということにしか興味がなく、相手の人格に興味を持ったりしないが、やがては相手の感情さえ無視して、自分で支配するかあるいは失うかということだけになってしまう。これも相手の感情などまったく考えないという点では自己中心的な判断であることは間違いない。
ここでは、一見支配とは反対のことにみえる依存の心性が、暴力の出現に役割を果たしている。


(4) 男らしさ
加害者は、かたくなな男性中心主義の価値観を持っていることもある。
「妻を働かせるのは、男らしくない」「男は黙って家庭に君臨しているべきである」「暴力を使っても家庭のリーダーであるべきである」「感情をあらわにするのは男らしくない」「男は家事をやるべきではない」など、思っていることはさまざまである。ここにあげた多くのことが、もう今では時代遅れになりつつあるように感じられるが、家庭によって、また文化によって違いは大きい。自分の父母のあり方が大きな影響を与えるのはいうまでもないことだろう。周囲の環境、サブカルチャーも多いに影響を与えるだろう。

このように主張する男性がパワフルなのかというと、けっしてそうとは限らない。特に現在では、自分が責任を持つことへの不安、自分が実は弱い人間であることへの不安、女性に捨てられないかという不安、軽蔑されないかという不安などが、このような価値観を裏で支えていることは多い。
先に述べたような依存的な男性が、一方で男性中心的な価値観を声高に主張することもある。
また、このような男性中心主義の価値観を持っているわけではないのに、暴力による支配に突き進む人もいる。



被害の過小評価と否認

加害者は自分を正当化し、被害を矮小化し、否認する。E・ベンスとM・ベイマーは、表のような例を挙げている。

( "Education groups for men who batter" 1993 )


過小評価 正当化
裁判所が行けといったからここ(カウンセリング)に来たんです。

ちょっとおどかしてやっただけです。

私は彼女が私のことを心配しているんだと思います。

ちょっとつかんだんですよ。

本当に打ちのめしたりなんかしていません。

妻はすぐにあざができるんです。

痴話ゲンカってやつです。

ちょっとやりすぎただけですよ。

ちょっと取っ組み合いになっただけです。

収拾がつかなくなっちゃったんです。


ちょっとキレただけです。

ただ不機嫌だったんです。


飲んでました。

飲んでました。

あいつが私のボタンを押しちゃったんですよ。

自分の身を守っただけです。

彼女の暴力はどうなんですか?

私にヒステリックに当たるんです。




小西聖子「ドメスティック・バイオレンス」白水社

<おしまい>