先日、小林麻央さんが乳ガンのために亡くなられたニュースが速報で流れました。


驚きと、心苦しさでいっぱいになりました。

心よりご冥福をお祈りいたします。




わたしはそのニュースをみて、他人事のようには思えず、
ニュースや会見を食い入るように見てしましました。







私の父が亡くなった原因も「ガン」だからです。







膵臓癌でした。


見つかった時には、転移もしていて
既にステージ4でした。



そこから1ヶ月。



1つも治療をせず、息を引き取りました。








何をしても意味がない。
苦しめるだけ。






だからって、早すぎる。









検査して、見つかって、通院しようとして、
みるみる悪化して、入院して、
緩和ケア受ける間もなく、

父は息を引き取りました。






つらくてつらくて悲しくて涙が止まらなくて
受け入れられなくて信じられなくて
お父さん、お父さん、お父さん、
何度も何度も声をかけても返事はなくて、


どんどん父の身体が冷たくなることが信じられなくて何度も何度もさすって暖めて、でも何も変わらなくて、





苦しかったでしょう、
辛かったでしょう、
思い残すこともたくさんあるでしょう、


やっと楽になれたね、

でも、


私はもっと一緒に生きて欲しかったし。
これから社会人になるのに。
孫の顔だって見てないくせに。
おばあちゃんより早いって順番間違えてるし。



「なんで、どうして」









だから、受け入れるってすごいことなんです。


事実をしって、
送りだそうって気持ちを切り替えることって、
本当に強い人だからできるんです。






私は弱い人でした。
でも、私の姉は強い人でした。



泣き叫んでる私を見て、
自分がしっかりしなきゃと思ったんでしょう。
そう思わせてしまったんでしょう。


お父さんやだよなんでよ
お父さんお父さんと泣きながら呼び続けていた
私の名前を、叱るように1回だけ。





絶対姉だって悲しいのに、
全気力を持ってかれるくらい辛いのに、





自分はお姉ちゃんだから。


私にはわからないけど、
そんな覚悟があるんだと思います。



口には出さなくても、
本当に立派な姉を持ったと思いました。





人が亡くなると、家族、親族は本当にやるべきことがたくさんあります。


それを全て姉が中心になって、
進めていきました。







いつまでも泣いちゃいけないと思っていても、
私はいつまでも泣いていました。










だから、海老蔵さんの会見は、
本当に本当にすごいと思ったんです。



きっと、子供達のためでしょうね。



でもきっと、まだ、当たり前だけど辛いはず。
人前や子供達の前で気丈に振る舞っていても、
心ではつらくてつらくてたまらないはず。



乗り越えるなんて一生無理です。

とにかく前に進んでいくしかないんでしょうね。



どこにも置いていけない辛さを
一生の荷物に背負ったのです。


そこにいくつ幸せな荷物を背負えるのか、




テレビの中でも活躍をする
素晴らしい人が亡くなったというのは、
本当に心苦しいです。




亡くなった人はさみしいのでしょうか。


懐かしい人に会えているのかな。




悪いけどまだ当分誰もお父さんのところには行かせないけど、でも、私たちのこと忘れないでね。





きっと、まだ小さな海老蔵さん小林麻央さん夫妻の子供たちも、自分たちの両親を誇りに思いながら強くたくましく育っていくのでしょう。





だから負けずに、
21歳のお姉さんも
立派なお母さんになって、おばさんになって
優しいおばあちゃんになってみせます。



みてろよ、お父さん。
まってろよ、お父さん。








5月18日は
父の日でしたね。




まだまだ心の整理がつかないのか、
街や世間に溢れる「父の日」のあれこれに
心を乱されまくっているshishiです。








わたしは産まれてから今まで
3回引っ越しをしています。









1度目は妹が生まれるとき






2度目は両親が離婚したとき








3度目は犬と一緒に暮らすとき









3度目は、犬を飼っていけないとこで飼っていたので、引っ越しました。ごめんなさい。










1度目。

妹が産まれた時に、
アパートから一軒家に引っ越しました。


そのときわたしはまだ小さかったけど、




はじめての二段ベット。

二階がある生活。



とってもワクワクしていました。





中学生になるまでその家で暮らしました。


思い出だらけです。


離れるときは本当に辛くて、苦しくて、
時間が戻せるなら、
あの家で暮らしていた時間に戻りたいです。






2度目は両親の離婚がきっかけでした。





いまはそれほどめずらしくありません。




うちの場合は、父の単身赴任からの離婚だったので、別々に暮らすことはたいした差はありませんでした。





でも、単身赴任だからという理由で離れて暮らすのと、
離婚するから離れて暮らすのは全く同じとはいえません。








薄々子供ながらに気づくこともありました。


偶然見つけた何も書かれていない離婚届を
3回は粉々に破り捨てました。


誰にも言えない秘密です。






でも、だって、


父も、母も、

本当に大好きだったんです。





ファザコン、マザコン、シスコン、ブラコン





そんな言葉がありますが、


私は家族みんなでいることを愛してたんです。



ファミリーコンプレックス?


ファミコン??







今でも、
自分が思っている以上に
家族みんなでいることに
飢えているのだと思います。







父は1人で暮らすことになりました。

なぜ、父が大好きなのに、母についていったのか。




それは、5年近く父と離れて暮らしていて、
母と暮らしていることが
私にとって日常的だったこと。



それから母が1人で頑張っていたことに
気づいていたことです。






母は、姉が私立の高校へ通うお金を
全て1人で用意しました。


昼間フルタイムで働いた後、
夜中バスに乗って工場に働きにいってました。




父がお金を入れなくなったことが事実です。






3人の娘を母が1人の収入で賄っていたと思うと、
成人したいまだからこそ感謝の気持ちでいっぱいです。




高校生になったころには、
私の自慢の両親が、自分たちで決めたことだから。
そんな風にも思えるようになりました。








だからこそ、大人になったいま、
母にも父にも、一緒には無理でも
なにかしらしてあげられると思っていました。








父が急に他界したこと
数ヶ月経った今でも信じたくありません。





たまにこうやって思い出しながら、
どうして何もしてあげられなかったのだろう。

どうしてあのとき一緒に暮らす選択をしてあげられなかったのだろう。



あのとき子どもだった自分は
本当に何もできなかったのだろうか。


子どもでも何かできたのではないか。





後悔ばかりです。







それでも父が私たち娘に
優しかったこと。

離れていても心配してくれていたこと。



私が大好きだったことには変わりありません。









本当にお空にいるのでしょうか。


天国は本当にあるのでしょうか。
極楽浄土はあるのでしょうか。





私の命が尽きたときに、
父に会えるのでしょうか。





私の方が歳をとった姿で会うのかな。
 




そのときは
今度こそずっと一緒にいたい。






非現実的なことかもしれませんが、
この思いが届いていると本気で信じていいですか。



私たちの見えないところで
私たちを見守ってくれてると
本気で信じたいのです。








生きているときはなんとも思わなかったのに、



今更「父の日」と聞くと
心苦しくなるのはどうしてでしょう。




みんなはプレゼントを買ってあげられても、
わたしは買ってあげられない。




悔しいです。




生前、何もしてこなかったくせに。
本当に馬鹿で馬鹿で自分を責めています。




お父さんありがとうなんて、
絶対言わなかった自分が大嫌いです。




今ならいくらでも
大好きだよありがとうって言えるのに。







世間からしたら
うちの家庭環境は複雑かもしれない。




でも、私からしたら


お父さんがいて、お母さんがいて、

それぞれおじいちゃんおばあちゃんがいて、

お姉ちゃんがいて、妹が産まれて。





他の家庭となんら変わりない。



むしろ、自慢できる。

厳しくしてもらったし、
優しくしてもらったし、




離れてしまったけれど、


それでも私の大好きな家族。







なぜ、人は死ぬのか。
なぜ、死んだら会えないのか。




当たり前のことなのに、
当たり前のことに腹が立ちます。






ただただお父さんに会いたい。






私の父は、無口な人です。
しかし酔っ払うと楽観的になります。


小さい頃はその変貌を
「こわいなぁ」と思っていました。





私は三人姉妹の中間子で
姉と少し年の離れた妹がいます。




父との思い出は、妹が生まれるまでの出来事がほとんどです。
今考えるととても無念ですが、
事情があり、仕方ないのです。



いつも、いつも、なにかと、
母と姉。父と私。
それがおきまりのペアでした。



大掃除の日は、
姉と母が、
片付けやリビングの掃除をします。

父と私は、
草むしりや、
ウッドデッキのペンキを塗り替えたり、
神棚の掃除をしたり、
普段掃除のしない場所の担当です。


今思えば、
私は足手まといだったのではないかと思います。



しかし、
私が一生懸命任された仕事をする姿を見て
いつもいつも父は褒めてくれました。


「頑張るからなんでも上手になるね。きっとお姉ちゃんより上手になることがたくさんあるよ」

そう言ってくれたことを
今でも思い出します。




私の姉は、何をやらせても優秀です。


勉強も、運動もなんでもできます。
足だって速かったです。



私が褒められるのは、
「ごはんを残さず食べること」
くらいでした。
 


なんでもできる姉が何よりも自慢で、
そんな姉をいっつも真似していました。


いつもいつも姉のようにしたいのに、
うまくいかないことばかりで、
すぐ泣いてしまうのが私でした。


泣いてばかりで
母に家の外に出されるのも
しょっちゅうのことでした。


どんな顔してなんて言えば
お母さんは許してくれるのだろう


そんなことばかり考えて
だまーって
近所の人にばれないように
息を潜めて外にいると、


「まただされたか」

そう言って家に入るチャンスをくれるのは
決まって仕事帰りの父でした。




父に隠れて
泣きながら母に謝って
なんとか家に入れてもらって、

また同じことで怒られて、、、。


今思えば、それが幸せだったのかも知れません。




私がまだ幼稚園に上がる前のこと、
父が休みの日に、
自転車の父の後ろの補助席に座って
近所をぐるぐるまわりました。



なぜ、十数年たっているのに
こんなことを覚えているのか謎ですが、、


小学校に通う姉が
帰る時間だったと思います。

私は後ろの席に座って、
大きな声で姉に教わった歌をうたっていました。


「お姉ちゃん私に気づくかな」


そんなことを考えながら、
姉が小学校で習った歌を
覚えてるところだけめちゃくちゃに
歌っていました。


私は音痴なので、
姉にはいつもいつもハモりたいのに
うまくいかず、へったくそだなあと言われていました。


そんな私の歌にもかかわらず、
父は怒ったりせずに
自転車をこいでいました。


私の父は、
面白いお父さんではありません。

笑わせてきたり、
一緒に遊ぼうと声をかけてきたり、
そういうアクションをかけてくる
お父さんではありません。


でも、それでも、
子供のことを不器用に考えてくれている
そんな父だったのだと思います。 




なんてことない、小さな記憶でも
こんなに大切な思い出になることを
わかっている人はどれだけいるのでしょう。



「大人の言うことは正しい。」


よく耳にする言葉ですが
正確に言えば、

辛かったり、悲しかったり、
それを乗り越えてきた大人の言うことは正しい。





自分の経験を振り返ったときに
自分以外の人のことを想える人が強い。




そんな風に思います。




私は、本当に辛いことがなんなのか
頭と心でわかった気でいます。





こんなに辛いけど、
父が亡くなってこんなにこんなに辛いことは、

世の中全体から見たら幸せなのかもしれません。





人間ってなんて不条理なんでしょう。