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続・エビで龍を釣る

旧ブログの続編です。あることないこと言いっぱなしですが、まじりっけなしに真剣です。
とっちらかった日々のあれこれをなけなしの言葉にして綴りたい。法螺や水増しや誇張も含めて等身大。
ここでも目指せ常温ビックバン!

終期衝動という言葉はたぶんない。

 

初期衝動の反対の概念として見繕ったのだけど、本当は同じ意味だ。

 

純粋な初期衝動は永続するだろうから。ただ、人間の身体は有限でいつの日か終わる時がくるのだ。

 

夢枕獏の小説は始まりの衝動が人間の限界を超えてずっとずっと先へ、向こうへ行こうとするそんな光景を描いている。

 

山を登るというのは、まさにそんな衝動の具現化だ。

 

切ない。狂おしい。山にしか存在意義を見出せない人間がたぶんいるのだろう。

 

幸か不幸かという尺度は役に立たない。そんなふうに生まれついてしまって選択権もない、そんな人間の話。

 

主役は深町というカメラマンと羽生という登山家である。

 

深町は羽生の背負ったものすごい質量の衝動に魅せられる。

 

なぜ山へ登るのか? この問いにマロリーという登山家はこう答えた。

 

「そこに山があるから」

 

羽生は自分なら「そこにおれがいるから」と答えるだろうと言う。

 

自分=山。こんな等式が成立してしまう人間の結末は半ば知れている。

 

予定調和と言えるかもしれないが、これは避けがたい着地点だろう。

 

それは山での死である。

 

ネタバレもクソもない。序盤からそんな気配が濃厚だからだ。

 

これはフィクションだからではなく、山とは畢竟そういう場所なのだろう。

 

余談だが、先日観た「MERU」という山岳ドキュメンタリーも様々な死が語られていた。

 

カーレースと登山どちらが死に近いのか、僕にはわからないが、どちらも死に近づく行為としてはこの世界で最上位に近いものだと思う。

 

蒼天に伸びる地球の突端に立つことに意味を見出す人間は稀だ。

 

僕はそういう人間ではないが、羨ましくないわけじゃない。いや、相当に羨ましい。

 

何もない場所にこそ何かが在る。

 

夢枕獏の登場人物たちはお世辞にも知的と言えない不器用なキャラが多いが、そのくせ皆哲学者だ。

 

常に何かを問いかけている。

 

それがとてもいいんだよね。青臭くてあけっぴろげでさ。

 

あとがきすらそうなんだよね。

 

思春期に耽読したキマイラやサイコダイバーシリーズを思い出した。

 

あれから20年。まだまだ青臭いまま僕も虚空に問いかけてますよ獏さん。

 

死の目前にして自分はどんな衝動を抱くんだろうか。

 

 

 

立て続けに坊さんについての本を読みまくる。

 

実在した仏僧の本なんだが、これが面白い。

 

坊さんというのは基本的に変な人生を選んだ人に違いない。

労働もせず生殖もせず(日本は別ね)というのが基本ラインだ。

 

仏教思想のゼロポイントという素晴らしい本があったけれど、あの中では、仏教に従事することが普通の人の価値観からすると非常に変だということを丹念に教えてくれる。

 

したがって高僧伝を読むということは、つまり変な人たちの長大なリストを読んでいることになる。

 

法然・親鸞・一遍は梅原猛の仏教の授業というタイトルが添えられている。

 

日本の仏教宗派の開祖のお話である。

 

感銘の受けたのは時宗踊念仏の創始者一遍さんの詩歌。

 

 こころよりこころを得んと意得(こころえ)て 心にまようこころ成りけり

 

こころを連発、非常にエモい。

 

捨聖と呼ばれた一遍さんは念仏+ダンスという画期的なムーブメントで日本を席巻。

 

もうね、日本まるごと躍らせたといってもいいね。

 

この人も超変な人だ。

 

信不信を問わず念仏さえ唱えれば救われると喧伝し、猫にも杓子にも踊りをけしかけた。

 

だいたい信じていようといまいと唱えれば救われると聞いて、「じゃあ」ってんで素直に唱えるのならそこにすでに信があると言える。

 

奇妙に転倒した理屈というかねじれた論理に見えないこともない。

 

「騙されたと思ってやってごらん」と言われてホイホイ乗っかるやつにはすでに何らかの信心があると見なければならない。

 

「奇妙な果実」だなんてジャジーなタイトルをつけてしまったけれど、信仰心というものがどこかまともじゃない非論理的な世界から来ることを心に刻んでおきたい。まさに奇妙な果実だと思う。

 

かのラーマクリシュナも「盲目的信仰」とう言葉に異を唱えていた。

 

「盲目というが信仰に眼などがあるのかね?」

 

そうだ。盲目的信仰はトートロジーである。

 

信仰心に縁のない衆生は熱誠の信仰者より強度な盲者だってことだ。

 

誰もが何かに耽溺しているが、信仰者だけがより真理に近いモノに耽溺しているのだから。

 

南無阿弥陀仏

 

決定往生六十万人

 

 

 

 

 

 

 

 

ゲームブックもブックレビューに入るかわからないのだけれど、やります。

 

しかもデジタルゲームブックということでなおさら微妙なんだよね。

 

今回おススメなのは『Lifeline』というゲームブックです。

 

ゲームブックとは昔からある、選択式のシナリオで進んでいくゲーム本のことです。

 

僕も若い頃何度もやった記憶があります。

 

〇風呂上りにテレビを見ていたら着流しの幽霊が現れた。

 

A 塩と般若心経で退散させる→48ページへ

 

B 写真に撮ってSNSにアップする→20ページへ

 

みたいな感じで進んでいく。

 

手で忙しくページを行ったり来たりするので煩瑣なのは否めないが、デジタルとなるとそれが解消する。

 

では、サウンドノベルゲームなのかというとそれも少し違うような気がする。どう違うか、厳密な定義はわかりません。

 

Lifelineで面白いのはプレイヤーが物語の主人公ではなく、主人公と遠隔でやり取りするアドバイザーだということ。

 

タイラーという宇宙船墜落事故の生き残りと意見を交わすことで、タイラーくんを生き延びさせる。

そこがちょっと面白い。

 

プレイヤーは直接危険にさらされているわけではない。安全な場所からタイラー君を助けるのだ。

 

さらに実働時間がリンクしているため、タイラー君が寝たりすれば数時間、ゲームはプレイできない。つまりタイラーくんにとっての5時間はプレイヤーにとっても5時間なのである。

 

なかなかゲームを進展させてくれないので、そこがイライラするところでもあるのだが、並行する同じ時間の中に生きているという仮想はなるほどひとつの絆となる。
 

フィクションの中の人物であるタイラーくんの息づかいをリアルに感じさせるために必須の仕掛けといえよう。

 

さて、今タイラーくんは、壊れたコンパスを作り直すためにいったん墜落した母船に戻る最中である。

 

到着したらまた連絡をくれるそうだ。道中の無事を祈ろう。

 

この世界はどうなってるのか。

 

時間は無限であるのか

 

空間は有限なのか。

 

それは幼い子供にも兆す疑問だろう。

 

にもかかわらず最新の科学でも答えは出ていない。

 

SFはそのような巨大な問いを扱える数少ないジャンルだと思います。

 

『逆数宇宙』はゲンロンSFコンテストの優秀賞作品。著者は麦原遼。

 

面白いのは、やはり宇宙の仕組みが解き明かされる部分なのですが、それはネタバレになるのでやめておきます。

 

地の分もセリフ回しも独特。ハマればどっぷりという感じだろう。好みの別れるところではありそうだけどボクは好きです。

 

究極の問いを真っ向から受け止めてくれるのは神さまでないとしたらSFだということを教えてくれる一作です。

 

 

 

 

 

 

 

 

松永豊和のパペラキュウはいまだ未完、現在もネットで続行中である。

 

傑作の呼び声高いが、私もそう思う。加えて彼のHPにある「邪宗まんが道」を合わせ読むと何かがカチリとハマる。

 

そうか、と納得する。

 

納得されたのは、こういう漫画を描く人はこういう小説を書くだろうということ。その逆もまた然り。まるで当たり前のことで誇れることじゃないが、本当にこの2作品が互いを証明し合ってるみたいだ。マンガはフィクションであり、小説は基本的にはドキュメンタリーだが、ふたつは同じだ。

 

感染と変質、ついで破裂。

 

パペラキュウ菌という生物兵器は、人間の頭部を蟹のようにしてしまう。蟹のハサミは当人の頭髪を刈りつくして長い年月の中で脳を呆けさせる。

 

感染方法は体液を摂取することだが、尿ではなく血液だと感染者は耐えきれず頭を破裂させて死んでしまう。

 

この構図は「まんが道」の主人公が被害妄想に囚われ続けたあげく、圧縮させ続けた衝動や情念を作品にして爆発させるのに似ている。免疫力の低い主人公は容易に他人の悪意に感染して巨大に怒りのハサミ(ペンを?)を振りかざすのだ。

 

それはそうとして、尿と血液ではなく精液だとどうなるのだろう? 具体的には性交渉で感染した場合、パペラキュウ菌はどのような結果を及ぼすのだろうか。

 

発症の瞬間、赤子の産声のようなものが発せられるのだが、発症が誕生であるならそれに先立つ受胎(性交)も容易に連想させるだろう。

 

どこかにその場面が登場することを待っているのだが、どうだろうか。

結末はまったく予想できないが天才ならぬ我々は座して待つことする。