東日本随一の平安美術の宝庫♪  
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月 見 坂                  現在の【金色堂新覆堂】
 
  寺伝によれば、中尊寺は嘉祥3年(850年)に慈覚大師が開基した天台宗の寺院で、建立時は関山弘台寿院と号したが、貞観元年(859年)に中尊寺と改めたという。 
 江刺郡の豊田館から平泉に移った奥州藤原氏・初代清衡は、この基盤の上に長治2年(1105年)、前九年・後三年の戦いで亡くなった人々の霊をなぐさめ、仏国土を建設するため中尊寺一山の造営に着手した。
  
 鎌倉幕府が編纂した公式の歴史書である「吾妻鏡」の文治5年(1189年)、すなわち義経が没し、藤原氏が滅んだこの年の9月17日の条には、当時の中尊寺の規模が「寺塔四十余宇。禅坊三百余宇也」と書かれ、また、平泉中心の体制づくりが仏教を基盤にして行われたことが、次のような内容で記されている。
白河ノ関(福島県白河市)ヨリ外ヶ浜(青森県青森市)ニ至ル廿余ヶ日ノ行程ナリ。其路一町(約109m)別ニ笠率都婆(仏の供養のために立てた細長い木の板)ヲ立テ、其面ニ金色阿弥陀像ヲ図絵シ、当国(平泉)ニ中心ヲ計リ、(中尊寺・関山)山頂上ニ一基塔ヲ立ツ。又寺院中央ニ多宝塔アリ。釈迦多宝像ヲ左右ニ安置ス。其中間ニ関路ヲ開キ、旅人往還ノ道トナス。
  
 隆盛を極めた中尊寺も、藤原氏が滅亡した後はすっかり衰え、さらには、建武4年(1337年)の火災で山内のほとんどが焼け、金色堂と経蔵の一部を残すのみとなったが、伊達家累代の保護などにより復興を果たし、現在に至っている。
  
 中尊寺には、金色堂をはじめ数多くの国宝や重要文化財などが所蔵され、東日本随一の平安美術の宝庫となっている。
 光堂とも称される金色堂は中尊寺創建当初の唯一の遺構で、堂の内外ともに厚く黒漆が塗られ、その上に一面金箔が押されている。
 明治30年(1897年)の修理の際に棟木の墨書銘が発見され、天治元年(1124年)に落成したことが明らかになった。
  
 金色堂の中央の須弥壇には、初代清衡の遺骸、向かって左の壇に二代基衡、右の壇に三代秀衡の遺骸が安置されており、秀衡の遺骸の傍らに、子泰衡の首級が納められている。

        黄金の輝きを放つ【金色堂】
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金色堂内陣                      金色堂内陣見上げ
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記念の【御朱印】