あらがわないことは迎合することじゃないことを知った。
意見と意見のぶつかり合いが起きた。ぶつかるというよりは私の意見に対して断固NO! を言われただけだ。そのとき、自分に起きてたことがとても不思議だったのでそれを書こうと思う。昔のわたしなら意見に対してNOを言われたら言い訳をするか自分の言ってることをわかってもらおうと躍起になるか(つまり相手にわからせようとする=ねじ伏せようとする)そんな反応をしていた。でも今回不思議とそれがまったくなくあ、そうなんだ。で終わった。ネガティブな感情は一切なく、あ、この人の意見はそうなんだな、とシンプルに受け入れたというのがその瞬間のわたしにもっとも近い表現だと思う。あ、そうなんだ。人それぞれ意見はあって当たり前でその意見をぶつけ合っても意味がなくそれよりもそれをいかに錬金させるか?が大事だと思うようになった理由は自分が自分の夢に繋がろうとしたから・・・なのかもしれない。自分の意見を押し通すよりも前に進むことを優先したい。そこで気づいたのはあらがわない、抵抗しないことは相手の意見を迎合することではないってことだった。あらがわない。それはシンプルに受け入れる、ということなんだな、と。私は母と距離を置いている。母とわたしはこれまで何度もぶつかってきた。というか私がどんだけ引いても彼女は私をコントロールしたいのだ。深いところで私を必要としているのかもしれない。事実はわからない。でも親子だもの、無償の愛を与え合う親子だもの。子供を求めるっていうのは当たり前なんだよね。そんな母のことを私は今も大好きだ。でも近寄らない、と決めている。それは彼女のありようを尊重したいからだ。でも一方でコントロールされることは真っ平だ。どんなに好きであってもコントロールされたくない。わたしは一人の人格を持った人間だから彼女が思う通りになんて生きられない。彼女を尊重し、自分も尊重するためには単に距離が必要なだけなのだ。彼女を受け入れ私なりのベストの距離感を作っている。それが、今だ。エックハルトトールの本に苦しみの度合いは、自分がどれくらい「いま、この瞬間」に抵抗しているかに比例しています。これは同時に、どれだけ自分が思考とひとつになっているかを知るバロメーターでもあります人生が楽になる 超シンプルなさとり方 (5次元文庫)Amazon(アマゾン)80〜1,821円こんな一文がある。今回、自分の中で意見を尊重した上で自分はどうしたいのか?を感じてみたことを率直に言ってみた。すごく自分が素直でいられた気がした。私にとってそれはとても大切で貴重な経験になった。抗わず生きる。それは流されるように生きるでもなく流れに身を任せながらどうありたいのか?だけに忠実に生きる道・・・・なのかもしれないなぁなんて思う日曜である。‥‥・*・‥‥………‥‥・*・‥‥………‥‥・*・‥‥………‥‥・*・…※不定期配信のチャクラ解説メルマガ。さまざまな募集はメルマガからスタートです読者登録画面bit.ly