10年前の今ごろ、オレはある全国展開していた学習塾の研修を受けていました。
全国展開しているにも関わらず、面接で「教職(課程)を受けず、教員免許もない自分でも大丈夫ですか?」と聞いたところ、「ううん、気にしないで。ウチは中学生までだから、高校受験を経験していれば問題ないから」と面接を担当した支社長はあっけらかんと答えてくれました。
それから4月から、講師として働く事になったのですが、いきなり2教室を任され、そして更に中学受験コースの算数も担当する事になりました。
受験コースは、週に1回・それに各教室を2日ずつ担当するハードメニュー。
しかも欠員や休暇を取った同僚が出たり、新しい教室を立ち上げるために授業が出来ない同僚のフォローのため、色々な教室で臨時講師を勤めたりもしていました。おかげで上司からつけられたあだ名は「ジプシー先生」。
しかも、担当する教科は国語・算数(数学)・英語の3教科。テスト前には生徒の希望によって理化や社会まで見る大量出血サービス。
それでもやり甲斐を感じていましたし、生徒の目線に立って「授業はライブだ!」を目標に、とにかく仕事に夢中になろうとしていました。
しかし、それとは裏腹に心の中は荒んでいました。
この仕事に就く直前に、25歳までに結婚しようと心に決めていた女性に捨てられて、まだその傷が癒えていなかったのです。
その傷を埋めるように、仕事帰りには遊びまくっていました。
一番遊んだのは、やっぱり風俗でした。
体を売ってまで何かを得ようとする彼女達に、強さとしたたかさを感じていて、それで夢中になって寂しさを紛らわしていました。
いつの間にか、オンでは教室では生徒とその親に信頼され、オフでは道玄坂のチョットした顔になっていました。教室に通う親ともマメに連絡を取り合い、生徒の信頼を得て教室運営は順調でした。その甲斐あってか、一つの教室では口コミで生徒の入会が増えて、マネージャーからも一目置かれるようになりました。
でも、仕事が多忙になるに連れて心の空虚感は埋まるどころかますます広がっていき、仕事の量が増えるのに比例するように、遊びの回数も増えていきました。
この頃には、夜道玄坂を歩いているだけで、客引きではなくお店の従業員がわざわざ「特別招待券」を持って、「精一杯のサービスをしますので、どうか一度足をお運びください」と言い寄ってくるようになっていました。
もう当然、客引きの連中ともツーカーでした。彼らは自分が受け持ったお客の為に、ラブホテルの部屋を3~5部屋ほどキープしているので、終電を逃すと彼らに頼んで部屋を取ってもらったりもしました。
もうこの頃は頭が麻痺して、そんな生活が普通だと感じるようになってしまっていました。
自分がおかしくなっていると気付いたのは、いつの間にかサラ金から合計400万円もの借り入れをしていた時でした。
借金までして女遊びをしている人間が、果たして塾とは言え教壇に立つ資格があるだろうか・・。
いつしかそんな事で悩み始め、職を辞してもう一度自分を鍛え直さなければならない切実に思うようになっていました。
そして、空手家としてもう一度人生と言う道を正々堂々と歩こうと思い立ったのでした。
しかし、自分が辞める事は生徒への裏切りになるのではないか・・そんな思いもあったのは事実です。
そんな時、ある馴染みのホテトル嬢から「アナタが辞めても、生徒にとってアナタはずっと先生として心の中に残るはずよ。でも、今の悩んでいるアナタは、10年経った時に生徒と会っても胸を張れる人生を送れていると思う?あなたがアナタらしく生きる事を、生徒さんも望むと思うわよ」と言われました。
そして、マネージャーが猛反対するのを押し切って、辞表を提出しました。
それから自分が辞める直前に、尊敬していた係長がご家庭の事情で会社を辞める事となり、送別会が開かれました。
最後に、係長が講師全員に一言ずつ挨拶をしてくださった時、オレに「貴方は貴方の信じる道をお歩きなさい」と言われて、目頭が熱くなりました。
それから最後の授業の日、会社に最後挨拶をしに行くと、マネージャーが「まだ考え直さない?」と言って、引出しから自分の辞表を出された時には、本当に嬉しかったです。
やっと、一人前の社会人になれたと自身を与えて下さったように思いました。
そしてそれから空手家として日常生活そのものが恵子のような毎日を過ごす事になるのでした。
あれだけ膨らんだ借金はその後、必死に働いたのと裏社会に住む人の協力を得て、全て完済しました。
それから数年後にまたサラ金の門を叩き、自分の心が壊され、鬱病と言う厄介な病気となるとは夢にも思っていませんでしたが・・。
今、あの時教えていた生徒に望むことは、正々堂々と自分の人生と言う道の真ん中を歩いて欲しい、ただその一点です。
それは、オレ達兄弟に両親が望んだ事でもあります。
