今日は69回目の終戦の日。

今さらですが、現政権が成立してから憲法と安全保障を巡る発言が活発です。
首相や与党第一党幹部の勇ましい発言が連日のようにニュースになり、ついには集団的自衛権行使についての解釈改憲まで行われました。
一年半前(わずか一年半前!)の総選挙、一年前の参院選の圧勝、そして内閣支持率が高いことに勢いを得てのことなのでしょうが、
あまりの踏み込みように唖然とするばかりです。
唖然といえば、ここ最近の政府首脳やらその取り巻き(例えば国営放送局経営委員の某ベストセラー作家とか…)のお隣の国々に対する挑発的とも言うべき言辞や行動も、です。
世間には一連の言動を「毅然たるもの」と受け止める向きもあるようですが、
毅然と挑発は違います。
そしてまた、一連の言動には、他人の痛みに鈍感な無神経さ、それゆえの尊大さも感じてしまうのです。
今は外つ国に向かっているこの痛みへの無神経さや尊大さが内に向かったとしたら…。
考えるだに空恐ろしい。
そして、その兆候は既に出ている気もするのです。
アベノミクスという形で。

このところよく「売家と唐様で書く三代目」という古川柳を思い出します。
この川柳、江戸時代の商家の浮き沈みを描いたもの。
初代が苦労に苦労を重ねて財を築きます。
二代目は先代の苦労を目の当たりにしているからこれまた商いに精を出す。
ところが苦労知らずの三代目は道楽ばかりして商いに精を出さないから店は傾いて遂には廃業。その時に出された売家の貼り紙は三代目が道楽で身に付けたお洒落な書体で書かれていましたとさ。という皮肉。
つまりは、先代までが苦労してせっかく作りあげた財産が苦労知らずの三代目によって食い潰されてしまう、という商家の一種のパターンが詠まれているわけです。
でも、ここに詠まれていることって見事なまでに今の世の中の流れと重なるような気がしてならないのです。
戦中派、戦後派が懸命に築き上げてきた「平和国家」という財産を、その下の世代がぶち壊そうとしている。
そんなふうに見えてならないのです。
安倍首相がちょうど政治家三代目にあたるというのもなんかの符合でしょうか。


苦労知らずの三代目は初代や二代目のように苦労を経験することはできません。
でも想像することはできると思うのです。
あるいは道楽の果てにあるものを想像することもできると思うのです。
それこそ今流行り(?)「想像の翼」を広げれば。
でも、首相もその周辺も、あるいはSNS上で勇ましいことをの賜っている人たちも、そこのところが弱い気がしてならないのです。
端的に言えば、想像力が欠如している。
いやいやそんなことはない。そんな反論もあるかもしれません。
たしかに、首相やらSNS上での勇ましい言説には、「備えを怠った」時に起きる「有事」の想定がよく出てきます。
「備えを怠る」とこんな目に遭う。だから「備え」が必要だという論理で。
でも、そこには「備え」のメリットへの視点はあっても、デメリットへの視点は決定的に欠落しています。
それが、デメリットをわかっているのだけれどそこには敢えて目をつぶっているという態度には見えないところが怖いのです。
そして、もたらされる痛みへの想像を欠いたままにイケイケどんどんでものごとを押し進めていくようで怖いのです。

勇ましい言説を聞いていると、生身の人間の存在が抜け落ちているんじゃないか、あたかもコンピュータゲームをしている感覚で宣っているんじゃないかと思えてしまう時がよくあります。
ゲームならばどんなことになっても、自分が痛みを負うことはありません。
戦争はグラフィックでしかなく、戦死者は数字でしかありません。
でも人間は数字ではありません。
一人一人の人間には家族も友人も恋人もいて、未来もある。
一人が死ぬということは、そうした様々な繋がりが断ち切られてしまうということ。
だからこそ、死は自分にとっても周囲にとっても痛いものなのです。
そして、痛いものだからこそそれを回避するために慎重に振る舞うし、臆病にもなる。
戦争という多くの死が約束されるものならば尚更です。
逆に、痛みがわからなければ、いくらでも勇ましく振る舞えるし、威勢のいいことも言える。
私には、首相やその周辺、あるいはその他諸々の勇ましい発言が、そんな、後先を考えない無責任な勇ましさに見えてならないのです。

そしてだからこそ危惧を抱かずにはいられないのです。
苦労知らずの三代目が道楽の果てに身代を潰してしまうように思えてならないのです。
すなわちこの図式でいけば、京都での維新志士の活動にせよ、戊辰戦争とそこに至るまでの薩長両藩をはじめとする「官軍」側の振る舞いにせよ、「ならぬもの」となるわけです。
現在では美化されていますが、実際のところの維新志士たちの活動たるやまさしくテロリストであり、体制側はもちろんですが一般市民からしても「不逞の輩」に他ならなかったわけですし。
あるいは、戊辰戦争に至るまでの薩長の権謀術数やら戊辰戦争時の「官軍」の「錦の御旗」を傘にした横暴狼藉も枚挙の暇がありません。
「ならぬもの」としてそれらに焦点を当てるならば、
大げさに言えば幕末維新史の捉え直しにも通ずるのではないか、と小生いささか期待しています。
幕末維新史は、倒幕側を開明派で善玉、佐幕側を保守的で悪玉という構図にあてはめて語られるきらいがありますが、
よくよく見てみると、そうとばかりは決して言い切れない面があります。
発足当初の明治政府は復古的な色彩がかなり強いですし、佐幕側にしても榎本武揚率いる蝦夷共和国などはかなり開明的です。
ものごとは簡単に色分けされるものではないということですね。
司馬遼太郎さんの影響などもあるのでしょうが、
明治という時代を「開明的で活動的な明るい時代」と美化するあまり、その前の江戸時代を「遅れた閉塞的な暗い時代」とする見方もありますが、これなども一面的なものですしね。

閑話休題。
ともかくもこの『八重の桜』、これまでの大河ドラマとは違った幕末維新史の新しい視点も提供してくれそうで楽しみです。
それによって「維新」も捉え直されることになるでしょうしね。
小生、この言葉の現在の使われ方に軽薄かつひとりよがりなヒロイズムを感じてしまって辟易としているので。



それにしても、このドラマ、世相と重ね合わせるとなんとも皮肉。
横車を通そうとする長州に会津が「ならぬことはならぬのです」と異議申し立てをするであろう構図が、
原発推進という横車を通そうとする安倍首相(長州っぽ)に被災地・福島(会津)が反発する現実と重なってしまったのです。
無論、図らずとなのですが。

そんなこともあって『八重の桜』、かなり興味深いドラマになっています。
新しい大河ドラマ『八重の桜』が始まりました。
興味があったので一回目の再放送をつまみ食いのように視聴してみました。

一言で言えば、開放的でのびやか、それでいてどことなく凛としているドラマ。
そんな印象でした。
開放的というのは、ロケで撮られた屋外のシーンが多かったということもあるのでしょう。
映し出された会津(?)の風景の美しさはため息が出るほどでした。
けれどもそれだけではなく、屋内のシーンでも山本家でのやり取りや佐久間象山の塾での講義風景ものびやかで明るく感じられました。
のびやかさと明るさ、それがそのままヒロイン八重のキャラクターに重なっていくのでしょうね。
前作『平清盛』(後半)の、登場人物の心理描写に偏った室内劇的な重苦しさも好きでしたが、
『八重の桜』のこの伸び伸びとした明るさもなかなかに心地好いもの。
正直言って始まる前にはあまり期待してはいなかったのですが、次回以降が楽しみになりました。

ところで、第一回目の放送で印象に残ったのは「ならぬものはならぬのです」というフレーズでした。
これは会津藩の武家の子弟への「什の教え」の一つとか。
それもあってか、会津絡みの場面はこの「ならぬものはならぬのです」で 貫かれていたよう感じました。
八重が鉄砲を学ぼうをするのを諫める父の態度といい、鳥追いの演習(?)の時の八重の行動に対する西郷頼母の仕置きといい、江戸城溜の場における松平容保の発言といい。
「ならぬものはならぬのです」という言葉を会津藩を貫く芯として描こうとする製作側の意図を感じました。
そして、この「ならぬものはならぬのです」という精神が、会津藩とこのドラマ全体に凛とした空気を漂わせていたようにも思うのです。

さてさて、ここからは小生の先走った推測です。
「ならぬものはならぬのです」が会津藩を貫く芯であるのならば、
この先にやって来る、京都守護職としての会津藩の活動(維新志士たちの取締り)にしても、戊辰戦争に至るまでの「官軍」側との一連の対立と戦いにしても、やはりこの精神に基づいたものと説明されるのでしょう。
「ならぬものはならぬ」のでやむにやまれぬ思いで行なった、と。
一昨々日大晦日の紅白歌合戦は、眠ってしまったりとかでほとんどまともには視聴できず。
そんな訳で通して聴いた曲は一曲だけ。
それがプリンセス・プリンセスの「Diamonds」でした。
というよりも、小生にとって2012年の紅白歌合戦の目玉はこの曲でしたから、
この曲が聴けたらそれで満足なのでした。

この歌が流行ったのは24年前の1989年。
当時の私は中学二年生。
転校して、部活やらクラスの人間関係やらで閉塞感いっぱいの頃でした。
それだけにはっちゃけているこの歌が強く響いたのかもしれません。

閑話休題。
さてその一昨々日のプリプリの「Diamonds」ですが、
再結成ラストということもあってか力強いステージでした。
まさしく渾身の、という表現がぴったり。
そしてまた、メンバー一人一人がこのステージを楽しんでいる、っていう気持ちが伝わってきて見ていて気持ちよかったです。
曲紹介であった、「一日一日の何気ない出来事がDiamonds」というメンバーの思いにも、大いに共感しましたし。

こうした感想、当たり前ですが24年前の中学生だった自分には持ち得なかっただろうなあ。
いろいろなことを経験したからこそ、「平凡な一日一日がDiamonds」ということがしみじみと実感できるわけで。

曲の元気の良さに励まされていたかつてと、
何気ない出来事の貴重さを歌い上げている(?)ことに共感する現在。

そうした自分の受け止め方の違いなんかも見えてきて、
今回、期間限定復活のプリプリに再会できたことを改めてうれしく思ったのでした。
本当に久しぶりの更新です。
世の中についてどうしても書いておきたいことがあって。

それは先日発足した内閣とそれを取り巻くものについて。

はじめに断っておきます。
小生、この内閣にポジティブには何にも期待していません。
ただただ、自分勝手かつ空虚な「美しい国」なる幻想に振り回されてこの国と社会をこれ以上めちゃくちゃにしないでくれと願うばかりなのです。

というのもかの内閣、経済にせよ安全保障にせよ教育にせよ社会保障にせよエネルギーにせよ、
その政策はいずれも肩を怒らせていてきわめて乱暴。
これで大丈夫かな、という危惧がまず先に立つからです。
当人は維新志士気取りなのでしょうが、付き合わされるこちらはたまらないよ、と。
例えば、下関戦争以前の長州藩よろしくの攘夷思想でお近くの外つ国に当たられてはたまらないな、と。
そんな危惧を抱くわけです。

けれどもそんな政権担当者たち以上にこわいのが、ネット上で展開されるこの内閣への過剰なる愛情。
某検索サイトのコメント欄で展開されている言説なんかを見ると正直かなりしんどくなります。
あまりに短絡的であることに。
あまりに暴力的であることに。
あまりにもさまざまなもの(例えば「痛み」や「想像すること」)に鈍感であることに。
あまりのしんどさに、僭越ながらラ・ロシュフコー公爵の箴言400番台にあるいくつかを思い出してしまうほどです。

これらの言説が世においてオーソリティーではないとは信じたい。
けれども、地滑り的に自公が大大勝したという総選挙の結果は、
見事にネット上の某検索サイトコメント欄の「世論」と重なってしまうわけです。

この国は世を挙げてファナティックに向かおうとしているのか?
そんな危惧さえも抱いてしまいます。
小生は、対象がどのようなものであれ(仮に「良い」ものが対象であっても)ファナティックにはこわさを感じてしまう気質です。
ましてや今回は対象そのものにも危惧を抱いているわけですから、恐怖は尚更です。

明けた今年は20「13」年。
13という数字は西欧では不吉とされているそうですが、
我が豊葦原の瑞穂の国がそれにあやかることないように願いたいものです。
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かつて「海よりも山よりも夏競馬」「競馬が君を呼んでいる」という、
JRAのコピーがあった。

ああ行きたいなあ、夏競馬。
札幌に、新潟に、小倉。
涼風の北都に、稲穂が一面にバーッのお米の国に、祭り太鼓の熱い街。
スープカレーに、美味しいお米のお寿司に、ふぐと明太子。
六花亭のチョコレートに、笹団子に、湖月堂の栗饅頭。
思い出すだけでも旅情が掻き立てられる。

札幌も、新潟も、小倉も、いずれも行ったことのある競馬場。
それぞれに印象的だった。

旅打ちは旅情もあるせいか、競馬場が眩しく見える。
どこに何があるかわかっていないだけに「ハレ」の気分もいや増す。
勝手知ったる仁川や淀の気安さもいいけれども、
旅情が絡んだ夏競馬の「ハレ」の気分も捨てがたい。

そしてまた、食も魅力的だ。
モツ汁に、村上豚のもち焼に、清張が愛したカレーライス。
あー、行きたいなあ、夏競馬。

番組は、
今週が関屋記念(新潟)、来週が北九州記念(小倉)、再来週が札幌記念(札幌)、早々来週が新潟記念(新潟)

どこか一つには行きたいけどなあ。
まずは先立つものと時間かあ…。

昨日のセレッソは乾の4ゴールで福岡に快勝。

勝ち点を40点台に乗せて、第1クルーを首位で折り返すことになった。

これでJ2優勝、J1復帰に向けてまた一歩近づいた感。


警告の累積&岡ちゃんJAPANへの招集で香川が4試合抜けることになるけれども、

その分、他の選手がカバーしてなんとかこのまま突っ走っていってほしいものだ。

昨日、某毒舌タレントが司会をするニュース番組を視聴。

芸能コーナーがあるのにSMAPメンバーの逮捕問題は見事にスルー。
ついでにどんな虎の尾を踏んだのかテレビ・ラジオ番組降板が続いている北野誠についても見事にスルー。

これって配慮と恐怖なのだろうけれども、
なんだか薄気味悪い。
特に後者は。
これって表現の自由やら、言論の自由やらに関わる、
ジャーナリズムにとって看過できない問題だと思うのだけれど。

物言えば唇寒し、ということなのかな。
吹いているのは春の風だけれども。
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午前中の仕事を終えて競馬場へ。
今年も仁川の桜は散らずに待ってくれていた。
ほんの二時間足らずの脱線。
けれど、気持ちはおおいにのどやかになった。
まさしく春昼一刻値千金。


そよ風が吹くたびに桜は花を散らせる。
もう桜の季節もおしまいか…。

散ればこそいとど桜はめでたけれ
憂き世に何か久しかるべき