午後には擬乳のような雲が。もこもこ。


みなさん、こんにちは!puffです。
外は雨、そして休日。何をして過ごそうかと思い悩みますが、こんな寒い日は家の中に温まって、まるでとぢ篭った貝のようにあるべし。
キャベツをいっぱい貰ったのでスープにしようと仕込み、そのあとはつい先日借りてきた三島由紀夫先生の全集(県立図書館では貸し出し禁止ですが、市立図書館では利用可能。)を拝聴することに。

●またもや肉声を求めて。

今っていうのは便利な世の中であります。私などは古書探しに日々奔走しておりますが、インターネットの普及により、『無いよ、無いよ』と涙することもだいぶ減ったように思います。そして、肉声の部類になれば、先生方の貴重な対談などがyoutubeにアップされていて、映画とはちょっとまた違う、稀少さに驚くとともに、この人は何処から持ってきたんだろうと、不思議な感覚に落ちることに。
youtubeではなく、是非とも正規な環境で拝聴したい、こう思い続けておりましたら、市の図書館にあったのでした。それが”三島由紀夫全集41“であります。
特に、先生の朗読がすごい。
”我が友ヒトラー“の一幕、二幕、三幕、を読んでおられるのですが、つい惹きこまれてしまう。この戯曲の登場人物はヒトラーとレーム、シュトラッサー、グスタフ.クルップ、の4人。レーム事件の数日前、三幕は事件当夜である。
Stabschef der SA(突撃隊幕僚長)であった、エルンスト.レームは、興味深い人物で、ヒトラーの片腕とも称された軍人でありましたが、結局、粛清されてしまう。公然とした同性愛者であったレーム ーー、実はこれこそ知らなかった。
兎にも角にも、レームが純粋で愚直な人物であり、友と呼ぶアドルフを心底信頼していたのは台詞の端々でも良く理解できた。特に、"殺されるかもしれないじゃないか"とのたまうシュトラッサーに対し、"お前が死ぬのは勝手だが、俺は殺されない。"こう言い切るところが凄い。
私なんか言い切れるかな……、(すぐ脱線しちゃう。)信頼とは分厚く拵えても、赤子の涎ですら、破れ、崩れてしまう時がある。
じわじわと沁み入る、疑心暗鬼という魔の液体にやられてしまうのかもしれないよ。

※サド侯爵夫人、我が友ヒトラー、この二つの戯曲は、三島戯曲の二代金字塔だそう。
サド侯爵夫人のほうは肉声、朗読が残っていないという。非常に惜しい。

●記憶とは曖昧なものなんだけど


三島先生の戯曲の作品集は未だみしみし読んだことがなく、これを機会に是非読もう、いいぞ〜、楽しみ、などと暢気に構えていたのですが、41巻のDVDは盛りだくさんの内容で、楯の会合唱“起て!紅の若き獅子たち”、"からっ風野郎"まで収録されており、先生のため息混じりに歌う、"ーーからっ風野郎"というオチの( ̄∀ ̄)音源に酔い痴れ、おやつの甘食を齧りながら、クスクス笑いながら先へと進む。

そしてDVD六枚目の“青春を語る”を聴きながら、またもやpuffは異様な執着を示すことに。
この対談は、美術評論家の徳大寺公英と三島先生が、学習院時代を懐かしみながらの対談(戦争の谷間に生きてーー、青春を語る)なのですが、どうも御二方の記憶の差異が激しすぎる。喰い違いもここまでくると、聞いているほうがハラハラし、なんだなんだと妙に焦ってしまう。

※音声が悪くて、聞き取り難いものの、言葉は丁寧だし明瞭だし、ほぼ聴き取りに成功する。

『徳大寺さんはね、美術部と、弁論部と乗馬部、三つにに入ってたでしょう?』
三島先生の記憶が滑らかに語られていく。
『そうねぇ……、』
徳大寺先生は、三つに籍を置いたものの、そう熱心ではなかったと告白。
『僕がね、徳大寺さんでなにを覚えているかというとね、昭和16年12月8日(太平洋戦争開戦)にね、学校行ったらみんながわぁわぁ。戦争が始まったっていって騒いでてねーー、あの時僕は中学生ですね?それで中学の建物が……、※※あって、あの建物の角(雑音で聞き取れない)あの辺りに僕らはいたんです、そしたら徳大寺さんがね、』
『それは違うぞ?僕じゃないぞ?』
『え?……』
ここでちょっとの間が漂う。
『僕はあの日、そこにはいなかったな。』
『ほんと?……じゃ、日にちがずれてるかもしれないけど……、』
『そうかなぁ。』
『12月8日じゃないかもしれない。別の日かもしれない。』
徳大寺公英もそこは貫禄十分、うんうん、と聞くものの、『僕は浪人してたんだよね。それで、フランス語の講義中だったの。そうだ……、福永武彦がそれ、こないだ書いてたなぁ……、』あっけらかんと暴露する徳大寺氏、とにかく、開戦当日のあの日、徳大寺氏は三島のいう、学習院中等部の建物にはいなかった、存在していないはずと断言した……、
『12月8日にあなたは学習院の生徒でらしたの?』
『前の年。ーー僕とあなたは4歳違い?』
徳大寺氏はつらつらと、年度がどうのと数字を示し、記憶の確かさを明らかにされる。
『……僕の記憶はどうなっちゃったかな。記憶だけでいいますとねーー、』
三島先生は、徳大寺公英氏との、とある日の思い出を語る。

『あなたがね、馬場のほうから上がってこられて、マスクをしておられた。それでね、それをお取りになって、"みんな頑張ろう!"って言ってね……、下級生たちは一斉にわーーって盛り上がったんだなぁ。』
あなたは乗馬服着てたの、こう言い切るものの、公英氏は、うーーん、唸るばかり。
『それ、人違いかな』
『え?』
『違うなぁ……』
記憶ってのはわからんねぇ、三島先生が折れた感じに。しかし徳大寺先生が、これまた素晴らしい記憶の持ち主で(自分のことだから当然なんでしょうけど、理知的に証明を携えて説明するあたりが凄い。たとえば、何年にこの学部から、こちらの学部に転科してね、などと、とにかく曖昧にはしたくないといった感じ。)
そして、徳大寺氏は大学を浪人し、病気もしたらしい。それから三島先生との記憶を語り始め、(ここで漸く二人の記憶が合致する。)そして、徳大寺先生の記憶が正確なのは勿論ですが……、
『僕たち、4年も違うんだから学校ですれ違うことは余りになかったけどさ、僕のほうが君に対して色々、思い出があるんだよ。』と。
それは学習院の中等部時代から、三島由紀夫は(平岡公威)"目立つ"存在であったからだと言い、三島先生が語る徳大寺先生の思い出は散々だったけど、(徳大寺先生は懐が広く深く、大いに許しておられる)徳大寺先生の語る少年三島が可愛らしくて、つい微笑みながら拝聴した。

『君が(三島)中学2年の時、僕と歌舞伎の話しをしたんだよ。それでねぇ、君は役者は誰が好きって僕が聞いたら、……僕はあの頃、羽左衛門が好きだったの。そしたらあなたがね、澤村宗十郎がいいって言ったんだよ。※※ーー、14歳でだよ?』
ここでざわざわと笑いさざめく。
9代目澤村宗十郎でしょうか。襲名前の訥升時代は美貌で鳴らしたはずだけども。
『とにかく、平岡君は……、』
徳大寺氏が文芸部の話しに及ぶと、もう三島先生はタジタジで、徳大寺氏が語る三島由紀夫の幼少期に苦笑の嵐であった。
『青い顔をして、キンキンした声で話す君がね、先生がね、平岡は何処にいても分かるなぁって呆れてねぇ。』
ハラハラした前半であったものの、後半はずいぶんと和やか、戦前、戦中の学習院の様子がありありと浮かぶ。
軍国主義でありながら、リベラルな息遣いに溢れる学習院……、裏を返せば、皇室が通う学園である為に宮内庁管轄であり、文部省に従うことは無かったという。
悪戯も激しくて、教師を空気銃で狙う生徒も。
いやぁ、面白い。特殊な囲いのなかであれど、才能を伸ばすだけの土壌があったのだと。天才と暢気の混在した学園、学習院であったというーー。


2018.5.10