その行動が自分を作る
その行動が人を作る
その行動が自分の周りの人の意識を作る
そのことを忘れちゃいけない。



同じ行動や考えを持っていても自分と他人は似たものがあるだけで人と自分は必ず違うし全く違うこともある。だけどみんなそんなことないって思いながらどこかで自分がしてきたことは正解で何もおかしくないって思う心はきっとどこかにある。自分の力が付いたり自分の協力者が集まって優位になったり強くなったときその行動はいきなり表面に現れたりする。だけど自分は気づいてないし周りの人もいつものあたりまえが目の前にずっとあるから目の前の人の行動にも自分にも気づかない。



今はなくなったけど少し前まで芸能界では共演者を下に見たり自分と違う相手に対して笑いを取るやりかた方が一般的だった。ニュースでもSNSでも公人でも完璧な人なんて誰もいない。人も動物も不完全で個性があるからおもしろくて楽しい。だから自分のその行動にもっと責任感を持つ必要があると思います。正しいことだから言ってもいいし言わなくちゃいけないときもある。だけどそれをどこで言うのか。誰に言うのか。だけどおかしいって言っているその人も批判しているその人とあまり変わりないことをしていることもある。言っている本人はそのことに気がづいてない。そんなことも普通にある。そう言っている自分はどうなんだろう。誰かにどう思われるかを気にしてもみんな思いたいように思う。だから私はほとんどそこは気にしていない。だけど自分の行動を見て自分はいい行動だったかを確かめることを定期的にしています。





心の邪念がひとつ無くなってまたひとつ邪念に気づいていく。それを繰り返していくと生き方も楽になっていく。人をバカにしなくなったり見下さなくなることって相手に無関心で興味を無くすことじゃない。本当の肯定ってどんなことでも相手を全てそのまんま一旦受け入れて認めること。それをしたうえで自分はどうするかの決定権を自分に下すこと。自分に関わる全ての人に対して同じ対応で同じ心を提供できるかだと思います。立場が違う相手にも敬意を払うことってとても難しいこと。



同じ方向にずっと進み続けると同じ景色ばかりを見がちになって考えたり感じることに興味が薄れる人もいる。同じことをし続けることが楽な人もいる。同じことをし続けているうちに人の考えが自分の考えになる人もいる。



色を無くしていく季節も美しい。
















華やかな色も美しい。だけど美しいものだけを見続けると自分の世界が小さくなって見えるものも見えなくなってしまうことがある。他人の行動や意識を変えさせることはできないけど自分の行動や意識は変えることはできます。以前の私は自分と違う人に近付かないようにしていたし側に来てほしくないって思っていました。そしてそういう人が近くにきて違和感を感じた場合は下に見る傾向がありました。今は感覚や考え方が違う人が来て違和感を感じた場合、相手の意図や思いを聞いたり内容を自分なりに整理したあとは一旦終わりの線引きをしているようにしています。すべて終わり。一旦終わり。なので失笑したり誰かに話すこともしていません。本来こういうものじゃない?本当に大切なことや伝えたいことってこういうことがあったから気を付けてねという注意勧告なはずなのに伝えるとき対象になって人のことを嘲笑う場面を目にする。これは本当に必要な行動なのかな?必要ならどういう理由があって必要なのかな?



誰でも間違うし嘘を付かない人は誰一人いないと思います。いい間違いや人を幸せにする嘘ならいいけどそうじゃない間違いや嘘なら。どこでリセットするかどこからスタートし直すか。私はいつもそういう意識で生きてます。そのことに気が付いたらできるだけ早い段階でやめれるように意識しています。やってしまったことより今後をどう生きていくか。自分はどういう意識で生きていきたいかってものすごく大切だと思います。