改めましてまるこです。名前の由来は「ちびまるこちゃん」からもらいました。まるこにした由来は今より経済は豊かじゃなかったかもしれないけど人情味のあるあの時代を思ってこの名前にしました。昔の日本は今よりも男尊女卑の風潮があったと思います。だけど昭和の日本は相手のことを本気で想ったり気遣う優しさ、悪いことをすれば他人の子供でも怒ったり。そんな時代じゃなかったかな。子供は未来の宝で年配者からは知恵や教養や生き方を学ぶ。そんな見えない優しさがあったんじゃないかなと思います。私は昭和生まれだけどそういう家庭で育ってないのでいわゆる普通の家庭がどういうものかあまりよく分かりません。だけどお年寄りの方々とおしゃべりする機会やドラマや映映画を見て、昭和は厳しい時代だったかもしれないけど人間らしさが一番残っていた時代じゃないかなって思ってます。そんな人間らしさが残っていて私が家族の温かさを感じたかった思いも込めてまるこにしました。
私は分子栄養学にたどり着くまでいろんな人生を歩いてきて2025年10月現在。今も実家の家族と夫の両親ともいい関係を築けてません。たぶんきっと今後もいい関係になるのはムリかなって思ってます。いろんな考えや価値観があるので相手の思いを尊重してこのままの状態が一番いい状態かなって思ってます。夫婦になったけど夫の両親とは別家庭だし血縁関係もないのでブログで書くことは多分ないと思いますが私の実家のことを少し説明しますね。実家の母に会うときは私が年に一回〜二回お墓参りに帰ったときに数分会うくらいです。兄とは13年会ってません。母も兄も自分の常識や感情を何よりも大切にする人です。それってものすごく大切なことだけどそれをしていいのは一般常識や相手への配慮や気遣いができているからこそ。だけど二人にはそれが欠如してます。
私は今でいう機能不全家族育ちです。高校卒業後はマシになったけどそれ以前までは安心して落ち着ける家じゃなくて幼いときから文句や不満、誰かと誰かを比べて優劣や優越で人を見下したり自分が少しでも得をするように画策したり足を引っ張ったり。根も葉もないことを吹聴したり自分がやったことを相手の責任にして逃げたり迷惑をかけても謝らないし何かしてもらっても当然のような態度をするような過程で育ちました。それを主にしていたのは母。そして母にベッタリだった兄。母と兄はずっと父を嫌っていて私が物心がついたとき二人はもうそんな人でした。そして昔の私もそんな人でした。そうしないと家庭内で自分の居場所がなくてしんどい思いをするのもあって同じ行動をしていました。機能不全家族家庭という言葉がなかったとき私は家庭内イジメに合っていると学校の先生に言ったことがあります。だけど今とは全く考え方が違うのでもちろん相手にしてもらえませんでした。ちゃんと聞いてくれる大人もいたけどそうじゃない大人もいて大人になるまでの間本当にいろんなことが起こり続けました。家庭内の問題は家庭内で解決してくださいと先生から母に指導もあったけど母は自分がしていることに本当に気付いてなくて、父の責任、そして私自身の問題として自分は関係ないという感じでこんな目に合う私はかわいそうという人で、機嫌の良し悪しであたりが強くなることは日常茶飯事でした。言葉の暴力や行動での暴力も普通にありました。DVモラハラです。
私は今でいう発達障害も該当してます。だけど母はめんどくさいという理由とバスを使わないと大きい病院に行けなかったこともあって「病院で診てもらってください」と学校から指導があってもいろんな理由をつけて私は診断してもらうことはありませんでした。結果として診断してもらわなくてよかったなって本当に思います。それがこの分子栄養学を知ってからはっきり分かりました。大人になっても実家での暮らしは落ち着いて安心できる場所じゃありませんでした。結婚してからも私の人生は波乱万丈で今2025年10月現在。母は今年で5年めあたりになるのかな。末期の乳ガン患者です。だけど私は何もせず同居している兄に全てを任せてただ見守っている感じです。と言うか兄も母と同じでクセが強いので何もできません。
この二人の生き方と私の生き方。同じ家で暮らしていたのに今では全く違う生き方で考え方も全く違います。この二人をどうにかして助けたかったし母と娘って女同士だから本当はいい関係になれるはずだと思うんだけど私の家ではムリでした。仲がいいときっていつだろうって思ったら母の都合よく立ち回っていたときでした。私はずっと淋しかったし苦しかった。そしてたくさん恨んだし妬みました。全てを憎んで嫌っていました。甘えさせてくれるところがあったら誰彼かまわずすり寄って甘えてました。そんな風にしないと自分を保てなくなる環境と状況で生きてきました。今で言う小児ウツも経験して生きる意味が分からず何度もその行為に及ぼうとしたり女性性を軽く扱ったこともあります。私はそこから這い上がりました。だけど母は今も昔のままでかわいそうな自分を認めてほしいという思いのまま暮らしているし兄もそんな母に寄り添い母のためにと自分のやりかたを大事にしています。
私が二人にできることは末期ガンの母の最期をを知ること。そのとき対面できるかどうか分かりませんが対面できなかったとしても最後に「これがあなだが選んだ生き方なんだね」と言葉をかけることだと思ってます。
