日曜夜も月曜夜も、ずっとPTAの打合せで2時間近くしゃべっていました。
こんなことやるより他にもっとやるべきことがあるだろう。
はい、言われなくとも承知しております。お陰で、2日続けて朝は起きられず、勉強どころではありませんでした。PTAのことはいつか〈貸し〉を返してもらうつもりです。
朝のNHKニュースで、向田邦子が特集されていました。没後40年。たしか、ちくま文庫からはいくつか文庫本がでていたはずです。
亡くなった義母は朗読が好きで、わたしが地元で手伝っていたシニアの会合で、向田の有名なエッセイのひとつ、「父の詫び状」を読んでもらったこともありました。
もっとも、わたしとしてはTVドラマのほうが馴染みがありますが、長じては山口瞳のエッセイ「男性自身」のなかで、彼女を追悼した「木槿の花」をいつも思い出します。山口瞳は追悼文の名手で、 そのものズバリ『追悼』というタイトルの本もあります。向田邦子を読む人には、このエッセイも読んでもらいたいと思いますね。向田邦子の違った一面が垣間見えます。
その中に「戦友」というエッセイがあって、向田邦子の追悼ならば「木槿の花」がいいのですが、向田邦子の見えざる一面ということでは、この「戦友」も捨てがたいのです。
「直木賞をとらなければ、写真集を出そうなんて物好きな出版社もなかったろうに・・・」というテレビのほうのひとの談話があった。その人は、こうも言っている。「バカな死に方をして!」
私もそう思う。その通りだと思う。そう思うのだけれど「直木賞をとらなければ」という言葉には辛い思いをした。
向田邦子が直木賞を取ったのは、銓衡委員をしていた山口の強い薦めがあった。山口は「小説も随筆も私よりウマイ」と彼女を認めていた。
向田邦子という存在は、私にとって少し鬱陶しいものになってきた。
私は『週刊新潮』に十八年にわたって、見開き頁の随筆を連載している。向田邦子もライヴァル誌である『週刊文春』に、同じものを連載していた。『無名仮名人名簿』、『霊長類ヒト科動物図鑑』がそれである。
正直に書こう。
私自身の原稿の出来の悪い週は、まことに憂鬱だった。これは向田邦子出現以後のことである。それまでは、そんなことはなかった。そうして、子供みたいに、向田邦子より面白いものを書かなくては駄目だと決意したり悩んだりしたものである。むろん、それは私の励みにもなった。まことに有難い存在だった。彼女を戦友だと言うのは、このためでもある。
山口が向田邦子の死を知ったのは、1981年8月22日のTVニュースでだった。
それからのことは、なんだかウヤムヤみたいになっている。私は罐ビールを飲みだしてそれがすぐウイスキイに変わった。テレビにむかって、しきりにバカヤローと叫んでいる。(「木槿の花(1)」)
向田邦子は生き急いでいる。なぜそういう生き方をするのか。
向田邦子は六年前に乳ガンの手術をした。そのへんで開き直った、性根がすわったと見る人が多い。
(中略)
私は、漠然と、彼女は自分の死を知っていたのではないかという気がしているのである。いまになって思えば、ということであるが。 すくなくとも、彼女は、こんな健康状態でいられるのは、あと一年ぐらいだと思い定めていたのではあるまいか。傍から見て失意の時代と思われるときが実は作家として幸福の時代であったということがある。この二年間、いや大手術を以後の六年間の彼女の仕事ぶりはメザマシイの一語に尽きる。六十ワットの電球が、いきなり百ワットに変わったように輝きだした。(「木槿の花(4)」)
もし直木賞を強く推していなければ、向田邦子はかくも生き急がなかったのではないか。そう山口自身は悔いる。
しかし、そんな姿に向田邦子は〈反論〉するのである。
夢を見た。
夥しい月の光だった。白いワンピースを着た少女が、山門に通ずる不揃いな狭い石段を登っていく。その少女は岸本加世子だつた。
少女が扉を力一杯叩いた。
「偉い方たちにお伺いします。山口さんは、あんなことを言いますが、私の生き方は間違っていたでしょうか」
声は、凛とした、やや甲高い向田邦子の声だった。答えは返ってこなかった。
白いワンピースを着た少女は、見えない糸で引っ張られるようにして垂直に天に上っていった。少女は木槿の花になった。
木槿の花が、うなだれて蜂の巣の形になった。どんどん上っていって、まるめた純白の脱脂綿の形になり、月の光のなかに消えた。(木槿の花(8))
