Startin' over… -68ページ目
重力に従い素直に落ちる涙のように、
身を持ち崩してきた感じがある。
そこから這い上がろうとしてきた、と勝手に語られる人生だけど
何も変わっちゃいない。

親から逃れたくて、慎吾の腕の中に逃げた。
そして10年間、彼は私を支え続けたけれど
ずっと一緒にはいられなかった。
いてくれなかった。
いたい気持ちはあったのかもしれないけど。

だって私との間に未来は無い。
それから、一人でいる時間が増えて、
無駄に強くなっていくのが悲しかった。
いっしょにいられないこと以上に。

根雪に覆われた駐車場を、街灯のオレンジ色がやわらかく染める。
雪道を歩いて、足先はかじかんでいた。
残業をしている彼がいた。
「どうした?こんな時間に。」
本当はわかっていた。
彼だって望んでいたことを。
感情は隠す方であったから、必死に平静を装うふりをする。
「家に、帰りたくない。」

困った表情と同情が入れ混じった表情で、慎吾は私をみつめる。
いつもの穏やかな声で、隣の教室で待機するよう言われた。

コピーをとり、ファイルをしまい込む音が聞こえた。
そして鍵をとり、教室を開ける。
「やめて。」
「え?」
電気をつけるのは、やめて欲しかった。
明かりの温もりなんていらないから、あなたの温もりが欲しかった。
スイッチを押そうとする彼の手を、必死に押さえつけた。

「どうしたの。」
慎吾の手が、スイッチから離れる。

感情があふれ、なだれ込んでしまいそうだった。
「もう、もういや。私は・・」

曇りガラスの小さな窓。
鈍く暗い室内を照らす。

ふいに唇がふさがれた。
抱きしめられたのと、ほぼ同時だ。

彼の腕の力が、殊の外強かった。
隙間を作れないほど、私を強く引き寄せた。
安心しているのか、嬉しいのかわからず涙を流す。
慎吾が涙をなめ、まぶたにキスしてくれた。
背中をなで回し、私に自分の身体の存在を意識させる。
言葉なんて無意味なんだ。
そう思い始めた瞬間だった。
「お願いします!どうしてもテスト前に間に合わせたいんです。」
塾長に頭を下げた。
悔しかった。
でも実力不足の自分が悪い。
いつもおだやかで優しいおじさんの室長が苦笑する。
呆れ返りながらも、日曜に開室する許可を得た。

拙い言葉で解説しきれなかった例の問題。
わかりやすく説明するには、私の能力をはるかに超える数学的思考が必要だ。
勉強なんて、趣味でできるものではない。
いかに骨を折るかによって、
その教科の骨格部分に到達できるかが変わる。
わからない人の気持ちに立って授業を提供する、
そんなポリシーは崩壊しかかっていた。
生徒さんに、わからないのは自分が悪い、そう思わせた時点で私の負けである。
同僚の旧帝卒の理系講師が、力になってくれた。

22時半に生徒さんを車まで送り、23時に退勤。
そして例の問題を旧帝卒の先生にメールで送る。
すぐさま返信が来て、私の解釈に誤りがないかまで検証してくださった。
神髄を知らなければ書けない解説文であった。
おまけにグラフつき。画像ソフトで作られていた。
この上ない大きな助けにより、明日の朝には生徒さんのお宅に
送ることができそうだ。
でも力不足。努力不足。能力不足。忍耐不足。
昔みたいに卑下するわけでないけど、自分の至らなさで
その先生や室長を巻き込んでしまった。

もう数学は慎吾には頼れないんだよな。
初めてキスしたのは、気温が氷点下になる季節。
室内でも息が白くなったのを覚えている。
勉強ができない私を救ってくれた先生から、何もできない私を救ってくれた
かけがえのない人に変わった瞬間だ。
三角関数の話をしていたとき、
「まさかお前とこんな話をするようになるとは
思わなかった。」
そう言っていたのを今でも覚えている。
今だって、もっと語れることは増えているよ。
「先生。」
「どうした?」

慎吾と私のような会話を、あいつとする。

「演習課題終わりました。」
「どれ、見せて。わかんないとこない?」
英文法の復習は今日で一段落だ。
次回からは読解に入らなければならない。

15歳の時。

「先生。」
「お、質問か。」

数学でわからなく涙が出そうになったとき、
それが自分のせいではないと教えてくれたのは慎吾であった。
解答を見るのは悪。
解法を自分で思いつかないのが馬鹿。
同じ問題を3時間もただただ眺め続けることが何度あっただろう。
それこそ馬鹿げたことかも。
慎吾から図形と二次関数のつながりを学ぶ。その際に連立方程式を使うことも。
そして彼は言う。

「シリウスの大問1、新中問の68ページの例題、これが同じ形式だから
今日中に復習するように。あとはやらなくていい。」

以前は1ページずつ完璧に進めるのが筋だと思ってた。
ただ大切なのは志望校に合格すること。
そのためにそれ相応の学力をつけること。
そうなると優先順位をつけなければならない。
少なくとも、中学では教えてくれなかったかな。

「あの先生。」
あいつが私の顔をのぞきこむ。
「何?」
「今日29日じゃないですよ。」
「え、うそ。」
報告書に日付を間違えて記入していた。
最近、簡単な数字のミスや言い間違いが増えてきた。
生徒さんにフォローされると、とても変な感じ。

今年は27になろうとしている。
慎吾もそうだった。私を教えてくれたあの年、27になろうとしていた。
生徒対応、保護者対応なんでもやっていた。
それに近づきたくて、大学に入ってから始めたこの仕事、
ずっと突っ走ってきた。