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人は何かを信じたいと思っている。信じるのは受け身だからだ。「信じれば救われる」この言葉は、主体性がない。極力、辛いことを個人で悩むのは物凄く過酷だ。

だからこそ、宗教家は「神や仏を信じなさい」と言う。私はそれが悪いと言いたいわけではないし、してはいけないとも言えない…

「何か」を信じなければ辛いから偶々それ「人」ではなかっただけのこと

「信じれば救われる」は主体性がないと言ったが、そもそも、自分とはなんだろうか?

何をもってして、自分が必要だというのか?
「私」の個人的な意見だが、「自分」=「心」だとは到底思わない。


「心」とは「善」「良」ことであると。よく人は言う「心がない」「性根が腐ったら終わり」


「心」がなくなってしまったから、「悪」になるのだと感じている。

では、一体「自分」とはなんだろうか?

「私」は「心」を邪魔してしまうものと考えている。なぜなら、自ずと自らを分けてしまうからだ。

本当の所、自ずから入り自ら出るものが分けることにより分断され1つの概念が2つになってしまう。だから二元論で考えてしまう。

本当は繋がっているものを分けてしまうから、矛盾が生じてしまう。(矛と盾は両方なくては効果が発揮されないので、矛盾という字は間違っていると私は思っている。言葉としては綻び、齟齬といった字が適切かと)

齟齬がある。噛み合ってないから解釈を間違え自分の都合のいいように行動して間違い続ける。


そのため、「私」は「心」はいるが「自分」はいらないと感じている。要は「心」というのは、おのずから入ったものを綺麗にするフィルターのようなものだと「私」は考えている。

その「心」は「善」だと。それが汚れては「私」も汚れていく、だからこそ綺麗なフィルターにしなければならない。


そういった「心」で世界を見れば世界は違ってくる。そして、思想は「空気」だと考えている。人はそれを信じている。

人は「空気」無くしては生きられない。

しかし、思想は思想はでしかないとも感じている。

それをどう取り入れどう還元していくのかは「人」それぞれである。
「信じれば救われる」では?

救われたものがどうするかが「人」の宿命かと私は考える!