{C242FF32-EEA1-4BA6-8A5F-EA07D2736F54}

あなたは誰だ?肉体という物質がかんがえであるなら、あなたは自身の肉体によらずにあなたの「自分」を指示できるか。どのような確実さによって、あなたは「私」と発語していると考えているか。神を信じるということと、神を考えるということは、全然似ていない。信じるものは救われるだろう、信じるというそのこと自体が自らを救うのだ。そういう仕方もある。しかし、考える者は救われない、救われるということ自体を考えているのだから救われないのだ。だがそれは不幸というべきか、否か。在ること、の意味、は信じることなのか考えることなのか、あなたはどう考える。「残酷人生論」池田晶子



「私」という存在は存在しない。「私」とは「私」を感じ、考え、認識した瞬間に現れる幻想

なのだ。私が考える「私」に適する言葉があるのであれば、「人格」「意識」「心」などが「私」を表す上で適確だと感じている。これらは、目に見えない、目に見えないのに私たちは在る、と思い込んでいる。目に見えないのに在ると思い込んでいるその不思議、だが、私はそこに人間の奇跡が、可能性があると信じる。そして、信じるという感情だから救われる。本当に何かを信じるとは無意識のうちにやっていると私は感じている。だから楽になる。前提はこれなのだ、何も意識しずにただ、ただ信じればいい。信じ続けた。先に自我が生まれ、そして、考える。だが、思考する事自体は意識しなければならないから苦になる。だが、私はそれを不幸とは考えない。

苦だから不幸ではない、苦をそのままにして考え続けなくなるから不幸になるのだ。私たちは、生命として維持できなくなり死ぬまで、一生考え続けなければならない。その行為に人間としての幸福が待っている。