考えることは、悩むことではない
きちんと考えることができるなら、
人が悩むということなど、じつはあり得ないのである。「わからないこと」を悩むことはできない。「わからないこと」は考えられるべきである。悩むのではなく考えるということが、いかほど人を自由に、強く、するものか。
人はさまざまに、実によく人は悩んでいる。(中略)しかし、「哲学」というものの考え方は、誰がどのようにかんがえることは、考えても考えられるという仕方で、これらの事柄を「考える」のであって、これらの事柄を難しい言葉でもって「悩む」のではない。これらの事柄を私は日々楽しみをもって考えている。しかし、これらのことを残酷なことであるという。ぐずぐず悩むことに人を甘やかさない。ありもしない慰めで人を欺かない、人生の真実の姿だけを、きちんと疑い考えることによって、はっきりと知るというこのことは、なるほどその意味では残酷なことである、と。「人生残酷論」
著 池田晶子
私はここ数日「悩んで」いた。悩んで悩んで「悩(病)んで」いた。しかし、その時に池田晶子氏の「人生残酷論」に書いてある。この文を読んだ。最初は頭には入ってきて納得もできるが、何故かどうしようもない辛さと苦しさがくる。(多分、それが自分の甘い部分であり弱さなのだろう)しかし、ここ数日「考えることは、悩むなのではない」を真剣に考え続けた。そして、今日もう一度この文を読んだ。スーとこの哲学が身体に入る感覚が起こった。
そして、悩むことは自体に意味はなくそんなことを「あれこれ」思考しても時間の無駄だと感じ、辛く苦しいと感じていた感覚だったが、
考えることの楽しさ面白さを取り戻した!
本を読みながらニヤニヤしたので、側から見たら気持ち悪い奴かも(一人暮らしでよかった(笑))