再チャレンジ | 鬱、躁鬱、虐待、自己肯定感についてのブログ

鬱、躁鬱、虐待、自己肯定感についてのブログ

自己肯定感を盗まれ、数えきれない程の自殺未遂回数、鬱、薬による躁鬱を経てきましたが、まだ生きています。

耳もおかしければ、若干のふらつきもある。全く、年中これだから、やってられないな。

ふと思った。「どうしてこんなにフラフラなのに、仕事に行くことが出来るんだろう?」と。それは、夢があるからだろう。昔から見てきた夢。

一度は目標達成の筋道がくっきりと見えた時期があった。25歳くらいの時だ。早かった方だと思う。身を削って頑張った甲斐があったと思った。
だが、悲しいかな、その時の体調は最悪で、希死念慮爆発、夜も眠れず、典型的な鬱状態。仕事は一生懸命していたが、とうとう仕事に行けなくなってしまった。情けない話だ。本当は情けなくはないのだが、当時は自己嫌悪もいいところだった。

以来数年間は、夢どころではなかった。毎日、毎分が希死念慮との戦いで、体は重く、物事を覚えることは出来ず、そして恐ろしい程の不安障害に悩まされた。

だが、今は、違う。毎日なんとかやっている。悔しいことは多い。もっと出来るはず、と唇を噛むことの方が達成感よりも圧倒的に多い。それに、不安障害は完全には消えない。相変わらず否定的な言葉、大声には体が反応してしまう。それでも、夢への第一歩を再び踏み出せたわけだから、必死で駆け上がるしかない。体調は別に良くならなくてもいい。夢を達成することが出来るまで、仕事が出来る体力がギリギリでもあれば、それでいい。

夢、目標っていうのは、だから絶対に捨ててはいけないと思う。確かに、ボロボロに傷ついている時は夢なんて見たくないだろう。一時的に敢えて見ないようにするのはいいと思う。何故なら、夢があまりに遠いうて、現在それに向けて全く動けない状態なら実現不可能に思えてしまうからだ。確かに、一歩も踏み出せてないなら実現は出来ない。一時的に別の目標を探すことも必要だろう。だが、別の目標(例えば、まずは体をある程度動けるまで治す)を達成するために頑張っていれば、きっと本来の自分の夢に繋がる。案外、もっと効率的な方法が見つかることもあるだろう。何故なら、頑張ってきた人の経験っていうのは、どんなに不様なことも価値あるものとなるからだ。サボってきた人、楽な方にしか生きてこなかった人、頑張ったことのない人と書いた履歴書の内容うが同じようなものだったとしても、その2つには雲泥の差がある。頑張ってきた人には際チャンスが必ずある。その時に勝負出来るように、体調の悪い人はある程度動けるようになっていなければならない。少なくとも、周りに悟られないレベルにまでもっていこう。