自尊心の構築 | 鬱、躁鬱、虐待、自己肯定感についてのブログ

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自己肯定感を盗まれ、数えきれない程の自殺未遂回数、鬱、薬による躁鬱を経てきましたが、まだ生きています。

前にいた会社で『自信に満ち溢れてるね』『鼻っ柱が強い奴が大好きなんだよ』などの褒め言葉(?)を頂いたことがある。
どうやら俺は自信一杯のように見えるらしい。そういえば、自信はある。今まで堕落した人生を送ってきた訳ではない。病気が本当に苦しい時は、仕事もできないニートの時期も長かったが、はっきり言って自分で『ニートです』とヘラヘラ言う奴と同じにされると、眠れないほどストレスになった。

自信とは一体なんなんだろう?俺はずっと自分の存在価値が欲しくて考えて行動して生きてきた。自尊心と自信はほとんど同じだが、ほんの少しだけ異なっているようにも思える。

自信は自分の努力が成果となって現れると周りの評価も手伝いい、そして表情や話し方などにも良いものが現れる。自信のある仕草、立ち振る舞いは身に染み付いていくのだろう。そういう意味では第一関門はクリアしたのかもしれないな。

一方の自尊心は、これはやはり修復、というか作り上げるのが非常に難しい。『自尊心が足りないな』と思う瞬間がある。それは、小さなミスをした時だ。これを大きく受け取ってしまい、非常に大きなストレスにしてしまう。頭で考えれるようになったものの、心はパニックになり、体はソワソワして非常に疲れてしまう。全くもって損な話だ。普段は抑えてるが、そういう時は小さい頃にボロカスに言われていた事を思い出してしまうし、怒りも覚える。だが、数分経つとこれが『絶対にあいつを見返してやる』というモチベーションに変わるのだから、やはり諸刃の剣といったところだろうか。


自尊心がない、ということはかなり大きなもので、自殺している人の多くも自尊心が無かったのかもしれないな。こういう事は他人には言えなくて、言えないことにストレスを感じている人も多いんじゃないかな。昔付き合っていた人についポロッと言ってしまったことがあったが、『親も大変だったんだと思うよ』と言われ愕然とした経験がある。それからは絶対に誰にも言わないことにしている。経験者しか分からない話で、そうでない幸せな人には理解できないのは仕方ない。そう、理解などできないのだ。別に誰かに理解されても自尊心が回復するわけではないし。

結局、自尊心がない、っていうのはやはり幼い頃の環境のせいだ。それは自分のせいではない。これは100%言える。大体、自分を大切にできない人間なんて元々いやしないのに、それが出来ないってことは、自尊心が低い親、もしくは親族の誰かに自尊心を奪われたにまず間違いないだろう。俺はよく思う、親がいないほうがずっと良かったのにな、と。自尊心が奪われて、苦しい人生に耐え生きていても何も貰えないし、表彰もしてもらえない。上述したように、大切な人に相談したところで一般論を振りかざされ落ち込むのがオチだ。となると、やはり自分でなんとかするしかない。今までサボっていた人は挽回できるように努力する、病気で苦しい人は徐々に社会復帰を目指す、なんとか働ける人はさらなる高みを目指す、ことでしかなんとか出来ないだろう。

自尊心を奪われたのは自分のせいではない。だが、自尊心を構築出来るかどうかは自分自身の責任だ。結局、全ては自分次第。厳しく辛い話だが、俺も頑張るしかない。大丈夫、心から笑える瞬間を絶対に掴めるから。