ミッドウェー海戦(みっどうぇーかいせん、英語: Battle of Midway)は、1942年6月5日から6月7日にかけて中部太平洋ミッドウェー島周辺で行われた日本海軍とアメリカ海軍による海戦である。太平洋戦争の転換点と言われ、この戦闘における敗北により日本側は制空権と制海権を失い、以後は戦争の主導権がアメリカ側に移ったことで知られている。

 

1942年4月、山本五十六司令官率いる連合艦隊が中心となり、アメリカ軍の基地となっていたハワイ諸島北西のミッドウェー島を攻略し、アメリカ艦隊の早期壊滅を目指す作戦が立案される。それに対し、日本側の暗号を解読することにより作戦を察知したアメリカ軍のチェスター・ニミッツ司令官はハワイから空母部隊を出撃させ迎撃を行った。それぞれの主力は日本側が南雲忠一司令官率いる第一航空艦隊の空母4隻(艦載機248機)、アメリカ側はフランク・J・フレッチャーとレイモンド・スプルーアンスの両司令官率いる機動部隊の空母3隻(艦載機233機)とミッドウェー島基地の航空部隊(126機)であった。航空兵力で100機以上の劣勢を強いられた日本の空母部隊は索敵の失敗もあって攻撃準備中にアメリカ軍急降下爆撃機の急襲を受けることとなり、壊滅的な損害を被った。結果として日本側は空母4隻と重巡洋艦1隻を失い、3,000人を超える兵士が戦死し、艦載機も全て喪失した。勝利したアメリカ軍も空母1隻と駆逐艦1隻を撃沈され航空機約150機を失った。ただし、日本の航空機搭乗員は多くが脱出に成功した結果、戦死者は121名にとどまり、200名を超える搭乗員が戦死したアメリカ軍を下回った。この戦い以後、太平洋戦争の主戦場はソロモン諸島とその周辺に移り、再編された日本機動部隊とアメリカ軍の間で激戦が繰り広げられることになる。(以上はウイキペディアからの引用です。)

 

山本五十六司令官は、高度に熟練した戦略的な海軍指揮官であったにもかかわらず、ミッドウェー海戦でいくつかの重要な失態を犯し、それが日本の敗北につながった。

 

米諜報機関に対する過小評価 : 山本長官と日本軍はアメリカの暗号解読能力を過小評価していた。アメリカは日本の海軍暗号(JN-25)を解読し、日本の計画と攻撃のタイミングに関する重要な情報を与えていた。

 

複雑で野心的すぎる計画 : 山本長官のミッドウェー作戦計画は非常に複雑で、複数の艦隊が関与し、広大な地域に広がる一連の同時作戦であった。この複雑さが連携の問題を引き起こし、日本軍の戦力を低下させた。

 

部隊の分散: 山本長官は部隊を太平洋の広い範囲に散らばるいくつかの機動部隊に分けた。この分散は、日本艦隊がお互いを効果的に支援できず、全体的な戦闘力を弱めることを意味した。

 

アメリカの決意と能力の過小評価山本長官は、米国が日本の脅威に対応できる速度と効率を過小評価していた。彼は「アメリカは反応が遅く、空母は太平洋での初期の敗戦後、まだほとんど効果がない。」と考えていた。

 

資源の配分ミス ; 山本長官は陽動作戦としてアリューシャン列島に重点を置き、貴重な艦船と資源をミッドウェー本攻撃から引き離した。これにより、重要な交戦地点で利用可能な戦力が減少した。

 

航空優勢の重要性を認識していなかったこと: 山本長官は近代海戦における航空戦力の決定的な役割を十分に理解していなかった。最初に米空母を撃破することに集中するのではなく、ミッドウェー島に攻撃を仕掛けるという彼の決断は戦略上の誤りであった。

 

柔軟性とコミュニケーションの欠如: 日本の指揮系統は硬直的で、山本長官と部下との意思疎通は遅々として進まなかった。この硬直性が変化する戦況への迅速な適応を妨げ、アメリカはこれを効果的に利用した。

 

このような不手際が、米海軍の戦略的な情報活用と果断な行動と相まって、太平洋戦争の転換点となり、日本にとって大きな敗北となった。