6.紙幣の歴史(1)

 

ヨーロッパにおける紙幣の歴史(その1)

 

 西暦85年のパピルス古文書によると、エステシアスの息子であるプトレミーは銀行家のプロタルカスに「エピテンキシ(Epitenxi)に500銅ドラクマを支払うこと」という書面を送っている。その他に類似の23のパピルス古文書があり、これらは西暦84年から87年の間にパピラスに書かれた近代的なチェックのような文書であり、1973年にフロリダ州立大学によって購入されている。このフロリダでの調査結果の発表の後、1980年にベルリンで開かれたパピルス古文書のコレクションが慎重に再調査され、銀行家Hefationに対し代金を払うよう指示した17種の為替証書が発見された。これらは銀行家プロタルカスに対し書かれたものと実質的に全く同じである。これは1世紀頃には、支払いに為替の利用が広められたことを示している。紙の上に書くというプロセスは、コインの代わりにクレジットの道具として転用したもので、非常に古くから行われていたことがわかる。

 ローマではパピルスは使われなかったが、同じタイプのパーチメント(parchments;羊皮紙)がローマ帝国の時代及び中世の間に証書として使われた。コインの代用としてのパーチメントの使用は、十字軍(Crusades)の間に広く利用されるようになった。騎士(Templar Knights)は或る国から他の国へお金を移すことを望んだ人には誰にでもクレジットの証書を与えた。騎士の金融活動は古代の司祭によって行われた機能を当時の現代版として再提案され、実際には貸付金を認めるという活動にまで拡大した。寺院の財宝は大変大きくなり寺院の騎士は銀行家としての機能も働き始めた。

 1200年代には、国際貿易の要所となっていた街ではヨーロッパの大きい商業見本市が行われた。その最も有名なものとしてシャンパーニュ(Champagne)地域の見本市があった。商人はこれらの市で商売を行ったが、危険を避けるためにお金を持ち歩かずに銀行家にそれを預けた。銀行家は証書を持っている人には誰にでもコインを払うという預かり証を出した。これらの預かり証は銀行家、或は手形振出人によるクレジットを持っている受領者の信用の上に受け入れられた。この証書はすべての人にとって有用な手段ではなく、信用を認められた人々、或いは銀行家にとってのみ利用可能な手段であった。

 その当時の最も有名な銀行家は主にイタリア人であったが、彼らは地元の代理人を最も重要な商業見本市に行かせた。フランスの君主によって発行された為替証書の幾つかがパリに残っており、一方ロンドンには貸主であるローマ法王(Popes)から司教と牧師に送られた為替証書があることが分かっている。

 フレデリック・ババロッサ(Frederick Barbarossa)に対する戦争の出費を続けるために、1239年に自由都市であるミラノ(Milan)は返済満期を延期するブレヴィア(或はデビタス)コミュニス(brevia or debitus communis)と呼ばれた証書を発行した。これは誰からの支払要求も受け入れなければならず、1257年にはゴッザディニ(Gozzadini)のポデスト・ベッソ(PodestBesso)はこのような証書の強制的な流通を排除した。

 1408年にジェノバのBoucicault知事(Governor of Genoa Boucicault)はカサ・ディ・サン・ギオルギオ(Casa di San Giorgio;後にCassa、最終的にBancaに変わった)を設立し、これは商取引に使われたビグリエッティ・カルツラリオ(biglietti cartulario)という名前の政府債券に非常に類似した信用貸しの証書を発行した。

 1400年代、最初の数十年の間に、ベニスにおいて裏書によって取り立て可能な預け入れ証書としてコンタード・ディ・バンカ(contado di banca)が発行され、共和国の中で現金として用いられた。同時に、ロンドンの商人の間でもベニスで発行されたものと非常に類似した証書が発行され、紙幣として用いられた。

 1400年の後半には、地方自治体当局の管理下で、預金を集めるためのモンティ(Monti)が設立された。これらの機関は同様にルオイ・ディ・モンテ(luoghi di Monte)と呼ばれる有価証券を発行した。ここで「luogo」という用語は利益を生み出す名目の資金を表わした。

 同じ時代、高利貸しが広がるという現象を制限し、また富裕層でない人々を助けるため、フランシスカン・オーダー(Franciscan Order)の修道士達は低金利(後にローマ法王のJliusⅢにより最大で5%に固定された)で貸し出し、危険のない貸付銀行であるモンテス・ピータティス(Montes Pietatis)を創設した。古来のモンテ・ディ・ピエタmonti di piet)は安定した預金を集め、フェディ・ディ・クレディト(fedi di credito)と呼ばれる領収書を発行した。こういった機関は南イタリアに広まり、後にナポリ銀行のように本当の銀行になり、ここで発行されたクレジット証明書は一般に流通する銀行券へと変化した。

  1400年代の末には旅行が容易でなくなり、シャンパーニュ地域のような見本市は無くなって、経済活動が行われる主要都市が作られ、リヨン(Lyon)、ベニス(Venice)、ブルージ(Bruges)、ジュネーブ(Geneva)等は最も重要な都市となった。ここでは銀行家やその代理人達はヴィレメント・デ・パ-テス(virement de partes)と呼ばれるフランス商人の間で行われた負債やクレジットの振替・譲渡など、第三者間の補完を行うために交換証書を利用した。

 1500年代末にスコンタジオネ(scontazione)と呼ばれ、今日コンペンセーションと呼ばれている取引業務は国際的な取引のターニング・ポイントとなり、このような取引の多くはバンコ・ディ・リアルト・ディ・ヴェネジア( Banco dei Rialto di Venezia )やバンコ・サン・ジオルジオ・ディ・ジェノヴァ(Banco San Giorgio di Genova)等のようなイタリアの銀行、或はロンバード(Lombard)と呼ばれたイタリアの銀行家が住んでいたオランダやイギリスの銀行などによって行われた。ミラノのバンコ・ディ・S・アンブロジオ(Banco di S. Ambrogio)は一定額面のクーポンを流通する貨幣として発行し、これらは地域の商人達の相互間で支払手段として受け入れられた。

 1500年末頃、ミラノのバンコ・ディ・サンタンブロージオ(Banco di S. Ambroio)は一定額面のクーポンを流通する貨幣として発行し、これらは地域の商人達の相互間で支払手段として受け入れられた。

 17世紀の欧州ではイタリア、オランダ、ドイツの都市が先進地であったが、これらの都市の商人は決済の為に金貨を持ち運ぶ不便を解消するため、預金の付け替えを指図する文書を発行し、これが信用券として流通した。こうして、遠隔地間の取引の決済や送金を処理するために振替銀行が設立された。1609年設立のアムステルダム銀行のフロリン券(florin banco)1619年設立のハンブルク銀行のマルク券(mark banco)は以上のような信用券の代表的なものである。

 1640年、イギリスではチャールズ1世の統治の下で、戦争出費を準備するために貴金属の受領書として、金で飾られたチェックを発行した。これらが紙幣の起源であるとも言われている。

 1646年頃、カンディア(現在のクレタ)はベニス(Venice)共和国の領地であったが、カンディアのベニス監督官はトルコによる包囲から島を守っている部隊への支払いに必要なお金が無くなり、額面が1.5及び10ドゥカチ(Ducati)の紙幣を発行して、市民が持っている金や銀を手に入れることを決定した。

 イギリスでは、産業や商業に必要な資本は金匠(Goldsmith)を中心に金融がなされていた。1670年頃には約30Goldsmith、つまり私的な銀行のような金融機関がイギリスに存在した。商人は信用ある金匠に金貨などを預け、金匠は預かり証書を発行した。このGoldsmith` Noteが信用証券として譲渡され、流通するようになった。

 

ヨーロッパにおける紙幣の歴史(その2

 

世界初の銀行券

 17 18世紀頃、スウェーデン通貨は銀及び銅を使用していて、 1ダラー (daler) 銅貨は1ダラー銀貨と同じ価値の重量がなければならなかった。そのため、銅貨は大きく、重い金属板の形となった。 17世紀初頭のデンマークとの戦争により、スウェーデンにおける銀の備蓄が著しく不足したため、スウェーデンは銅板の通貨を製造した。 10dalerの銅貨は大きさが30cm60cm、およそ9kgの重さであった。

 1656年、カール10 世グスタブはスウェーデンの銀行業の歴史における初めての「為替銀行」と「融資銀行」の設立を許可した。この銀行の名称はストックホルム銀行であったが、その後、その創立者( Johan Palmstruch)の名にちなんで一般には パルムストルック銀行と呼ばれた。1660年に主要なコインの銅の含有量が 17パーセント以下に下げられ、同一券額面の古い銅貨は新しい銅貨より銅の含有量が多く、素材価値において勝っていた。古い銅貨を鋳潰して輸出すれば,利益をあげることができた。預金者はそれ以前に預けた銅板を返すように要求したが、銅貨がローンとして払い出されていたため対応できず、預金した資金を引き出す銀行取付け騒ぎが発生した。

 流動性の問題を解決するために、パルムストルックは今後の支払いの約束に支えられた「信用紙幣」を 1661年に発行した。券種は5から1,000 ダラー(Daler)で、署名は別として、料額の表示は印刷されていた。この銀行券はすでに下記のような近代的な銀行券の全ての特徴を持っていた。

 

1)保持者に支払い可能であること、

2)番号が付けられていること、

3)発行日及び銀行の高官の署名があること、

4)それが本物であることを保証する多くの印章が押されていること、

5)偽造防止対策として、用紙に透かしが入れられていること、

 

 この紙幣は自由に移転可能で、券面は端数のない固定金額で、これらは世界で最初の銀行券と言えるもので、直ぐに非常に一般化した。荷馬車で重いコインを積む代わりに、お金は封筒で信用紙幣を運ぶことができた。銀行は銀行自身の支払い手段を外観上無制限な規模にできる立場にあった。その後、貸出しは 1663年に急速に上昇した。1663年の秋までに紙幣発行高は信用紙幣の価値が銅貨の価値に比較して低下し始めるようなレベルにまでに達した。人々は信用紙幣を銀行に引受けさせるため、銀行に走ったとき、銀行には十分な金属の流動性準備金がなかった。

 1663 10月からは、信用紙幣の兌換を拒絶しなければならず、1664年に銀行業務は完全に中止された。銀行の清算は 1667年に終了した。ストックホルム銀行は金融市場と決済システムのための重要なシミュレーションであった。信用紙幣の初登場は革新的であったが、短命であった。ストックホルム銀行は国の機関として、スウェーデン国立銀行 (世界一古い既存の中央銀行)の先駆者で、その火付け役となった支配人の運命はそれほど幸運なものではなかった。1668年にスウェーデン法廷は永遠の国外追放、及び死刑を彼に宣告、政府は死刑を猶予したが、パルムストルックは 1670年まで獄中に居て、彼が60歳となった翌年に死亡した。

 

イングランド銀行券

 当時大同盟戦争下にあったイングランドの軍事費を調達する目的で、スコットランド人のウィリアム・パターソンによりイングランド銀行が 1694年に創設され、イングランド王国政府の銀行として、ウィリアム 3世・メアリー2 世の勅令により認可された。イングランド銀行は預け入れ金の見返りに銀行券を発行し始めた。金細工師の覚え書のように、イングランド銀行の銀行券を交換手段にした。重要な特徴は要求に応じて銀行券の総額を所持者に支払うと約束したことである。これは、支払いのために銀行券を提示する人は誰にでも、金または硬貨を銀行で兌換することができることを意味した。初めは銀行の用紙に手書きされ、銀行の出納係の人がサインした。それらはポンド、シリング、及びペンスを使って、預けられた正確な総額が記載された。

 18 世紀になると、一定額面の銀行券に向う動きがあった。1725 年から、イングランド銀行は部分的に印刷した銀行券を発行し、手書きで完成させた。£の記号と最初の数字は印刷されたが、他の数字、受取人の名前、出納者の署名、日付、及び番号は手で書き加えられた。

 

中国における紙幣の歴史

 

 9世紀の初め、憲宗皇帝の代に、四川省に初めて硬貨を預けたことを明言する受領書が現われ、これは紙幣の機能を果した。この頃、中国では仏教が多いに拡大し、銅製の仏像が大量に作られ、硬貨の製造に用いられていた銅が不足した。そのため、色々な用具への銅の使用を禁じることになった。

 

飛銭

 唐(618907)の長安には他人の銅銭や金銀・絹帛などの貨幣的物貨を預かって「預かり手形」を発行する業者(寄附鋪、櫃坊(きぼう))が現われた。供託金を払った時点で、受領書、あるいは飛銭と呼ばれる手形証書が与えられた。受領書には皇帝の証印が印され、記録簿から引きちぎられて渡された。これは払い戻しのときにちぎった跡が同じかどうかを確認するために行われた。そのような手形が市中の取引に使われ、長安と地方大都市との間の送金為替手形(便換、便銭、飛銭) となった。飛銭の使用は硬貨の不足を軽減し、2年後にはその流通は廃止された。

 

交子・宝鈔

 宋代(9601127)になると、益州(成都)城内では富豪16戸が連名で官許を得て、交子鋪を開き、独占的に銭手形を発行したが、それを交子(こうし、じゃおす)と呼んだ。彼らは同じ文様の手形を用紙に印刷し、現金(硬貨)を預ける顧客があると、その金額を手形紙面に記載し、各自秘密の屋号が署名された交子を発行し、現金に兌換する者から手数料を取っていた。

 

世界最初の紙幣

 交子は世界最古の紙幣と言われ、北宋時代の997年頃に中国の四川省で発行され、この紙幣の実際の大きさは171 X 95㎜である。1023(天聖1)に民間の交子発行は禁止され、成都に交子務が置かれ、1024年から法定通貨(兌換券)として交子が発行された。発行額125万貫余,兌換準備金36万貫,3年を1界(流通期間)とした。交子発行の独占権を与えられた交子務が政府公認の交子を発行したという点で、世界最初の紙幣の誕生とされている。

 

最初の歴史的なインフレーション

 紙幣の流通量が20倍に拡大した1094年から1107年の間に平価切り下げが行われ、この交子は銭引と改称された。明王朝(13361644)の最初の皇帝である洪武帝(Hung Wu;1368/1398)によって10,000(; カッシュ ; cash)券が発行されたが、1110年の前後数年内に10,000(; カッシュ ; cash)券はたった10釐券に価値が下った。これは最初の歴史的なインフレーションの記録と言われている。「交子」は南宋になって「会子」と名を変え、金や元では「交鈔」と名を変えた。

 元の世祖フビライ(在位126094)は、1260年に「中統元宝交鈔」を発行し、本格的な紙幣中心の貨幣制度とした。元では塩の生産を官有とし、塩の販売は紙幣に限定するという政策を取ったため、紙幣はかなり長く使われた。洪武帝は「大中通宝」や「洪武通宝」などの硬貨を発行したが、大量の取引や、官僚・軍人への給料にはどうしても銭に代わるものが必要なため、1375年に紙幣(大明通行宝鈔)を発行することにした。

 

中国全域で紙幣流通廃止

 成祖永楽帝(在位;14021424)の頃から戦費捻出などのために紙幣(宝鈔)が乱発され、1448年頃に超インフレーションが起こり、 1455年に中国全域で紙幣の流通は廃止された。その後は約400年の間、紙幣が発行されることは無く、1853年になって、大清宝鈔(五百文~十万貫までの各種)が発行され、銀行券としては1898年に中国通商銀行券が発行された。

 

日本の紙幣の歴史

  日本の紙幣の始まりとしては「建武記」に記されている「楮幣(ちょへい)」が知られているが、これは後醍醐天皇が1334年(建武元年)に内裏造営資金確保のために発行されたと言われている。しかし現物は残ってなく、実際に発行されたか否か疑問視されている。

 

山田羽書

 現存する日本最古の紙幣は1623年(元和9年)に伊勢国山田の商人が発行した伊勢の「山田羽書」(端書(はがき))で、その他には、元和年間(1615-24)の大坂の「銀七分札 (元和札)」、伊勢の「丁銀札」、堺の「銀札」など局地的な紙幣がある。山田羽書は秤量銀貨の小額端数の「預り証(手形)」として、釣り銭の代わりに発行された私札で、「羽書」とは「端数の書き付け」に由来する名である。発行者は伊勢神宮の神職に就く土地の豪商であり、その自治組織による発行制度がよく整備されていたため、信用が高く、山田地方(現在の三重県伊勢市)において盛んに流通していた。私札の発行は近隣にも広がり、紙幣を交換手段とする「札遣い」が近畿地方の商人の間で広く普及した。

 

藩札

 江戸時代に諸藩が発行した紙幣で、最初の藩札は1666年頃に越前国福井藩で発行した「銀札」であったが、江戸初期には伊勢、大和、河内、和泉、摂津の諸地域で私札が発行されるようになり、その後藩札の続発を生むに至った。藩札は幕府貨幣の三貨との関係から、金札、銀札、銭札が見られたが、銀札が最も多い。そのほか米札、生糸(かせいと)札、轆轤(ろくろ)札、鯣(するめ)札、昆布札などの特殊なものもあった。藩札の流通範囲は領内通用(一藩限り)を原則としていたが、近隣諸藩に領外通用を見た場合も少なくない。1866 (慶応2)に紀州藩が発行した領外五ヵ国(大和、河内、和泉、摂津、播磨)通用札は例外的な藩札であった。藩札は幕府貨幣との兌換を建前とし、藩札にもその旨の文言が記載されていた場合が多いが、藩財政の窮乏により藩札が乱発され、実際には不換紙幣というべきものであった。藩札の大部分は木版印刷で印刷されたものが多かったが、幕末の頃には銅版印刷のものも出てきた。用紙は「こうぞ」を主原料としていたが、「みつまた」や「がんぴ」などの用紙にすき入れや糸屑を漉き込んだ特殊な用紙を使用した藩札もあった。札面の絵柄の中に文字を隠して印刷したものなども見られる。

 

太政官札 

 太政官札は金札ともいい、明治政府が明治元年(1868)419日に発行を布告した不換紙幣(515日から発行)である。太政官札の額面は十両、五両、一両、一分、一朱の5種類で、大部分の額面は大き過ぎて、日常の取引には不便であった。日本最初の全国通用の政府紙幣で、政府はこれを藩や一般人に貸し下げ、産業を興す資金にしようとしたが、実際には、その約3分の2は財政が窮迫した明治政府の軍費や行政費の支出に用いられた。大政官札は、不換紙幣として発行されたことに加え、発行額の制限もなく、流通高が急増したため、流通価値は額面価値を下回り、正貨に比べても価値が著しく下落した。また製造が粗末なため、国内や清国で偽造された偽札が現れ、さらに信用を落とした。

 

民部省札

 太政官札は1両以下の紙幣の発行量が少なく、民間での取引に不便であったために、明治政府は1両以上の太政官札と引き換える目的で小額紙幣を1869年に発行した(通用期間は5)。これを「民部省札」という。太政官札の補完的役割を担っており、太政官札と同様に社会的信用は低く、流通も困難であった。

 

新貨条例

 当時の政府は信用も乏しく、大政官札や民部省札は不統一かつ粗悪であった。偽造通貨が横行し、国内的にも東日本の金(計数貨幣)と西日本の銀(秤量貨幣)の統一なども課題として残されていた。国際的にも国内外の金銀比価の差により、大量の金が国外へ流出するなどの問題もあり、紙幣の整理統一は急を要した。外国官判事兼会計御用掛大隈重信が幣制改革を主導し、明治2年(1869) に造幣寮を設立し、明治3年(1870)に大蔵省は紙幣改造の建議を行い、新しい紙幣を発行することとした。明治4年(1871年)5月に日本で最初の近代的な通貨制度である「新貨条例」が発布された。金本位制を採用し、一円は一両と等価であり、当時、一円=一米ドルであった。最新式の鋳造機が香港から購入され、明治44月に大阪の「造幣寮」が稼働を開始し、偽造が難しい近代的な貨幣の鋳造が行われることとなった。本位貨幣として金貨5種(20円、10円、5円、2円、1円)、補助貨幣として銀貨4種(50銭、20銭、10銭、5銭)、銅貨3種(1銭、半銭、1厘)が発行され、貨幣制度の統一を目指した。なお、香港の貿易用銀貨には、「ONE DOLLAR 壱圓」と表示されていて、それがそのまま日本の円となったという説もある。1953(昭和28)年に通貨単位の「銭」「厘」は廃止されたが、債券や為替取引の世界では、1円未満の表記に引き続き「銭」という単位を使っている。

 

大蔵省紙幣司

 米国の財政事情を視察した伊東博文の建議で、明治4年(18717月に「大蔵省紙幣司」(同年8月に「紙幣寮」と改称)が創設された。当初の業務は紙幣の発行、交換、国立銀行の認可・育成など、紙幣政策全般に渡った。(その後、証券類、郵便切手の製造、活版印刷業務なども行うようになり、明治11年に「印刷局」と改められ、印刷・製紙に関する業務を専門に行う事業官庁となった。)明治4(1871)12月に新紙幣(明治通宝)の発行が決定され、明治54月に「新紙幣」(額面は百円、五十円、十円、五円、二円、一円、半円、二十銭、十銭)を発行し、それまでに流通していた多種多様の紙幣の統一を図った。

 

ゲルマン紙幣

 紙幣司の創設当初は高度な印刷技術を持っていなかったため、ドイツ(ドンドルフ・ナウマン社)に紙幣の製造を依頼した。この新紙幣は明治5(1872)4月から発行され、通称は「ゲルマン紙幣」、「明治通宝札」などと呼ばれた。日本で「明治通宝」の文言や大蔵卿印などを補って(当初は三井組に於いて、明治7年から紙幣寮内)「新紙幣」が完成された。

 

国立銀行

 明治政府は民間に高まった銀行設立の機運(三井組の三野村利左衛門の発案など)を捉え、明治4年に新政府は発券銀行の設立構想を打ち出した。民間銀行に兌換銀行券を発行させることによって、政府紙幣の回収と殖産興業資金の供給を図ろうとした。紙幣頭・大蔵大丞だった澁澤栄一はアメリカのナショナル・バンク制度にならって国立銀行条例を立案し、この条例は明治5年(1872年)に制定された。

 

第一国立銀行

 第一国立銀行が明治6年(1873611日に創設され、同年8月に日本初の商業銀行である第一国立銀行が営業を開始した。明治511月に公布された国立銀行条例による日本最初の銀行である。初代頭取は大蔵省の内紛から下野していた澁澤栄一が就任した。なお、国立銀行は完全な民間経営で、江戸時代から両替商をしていた三井組と小野組を中核にして設立された。こうして第一国立銀行など4行が生まれた。当初、発行する銀行券は金貨との交換を義務づけられていた。明治維新以降、わが国は積極的な殖産興業政策を展開して行く中で、1876(明治9)年に「国立銀行条例」は改正され、金貨との交換義務が廃止されて、銀行券の発行限度も拡充された。明治12年末には国立銀行は153行を数えるに至った。これらの銀行が発行した紙幣はいずれも同形式で、発行者名のみが異なるもので、このときから横長の様式になった。なお、紙幣の原画は日本で作成し、これらの印刷はアメリカ(コンチネンタル・バンクノート社)に依頼し、大蔵卿印、国立銀行印、大蔵省記番号(アルファベッドとアラビア数字)、国立銀行記番号(十二支と漢数字)などを紙幣寮で印刷・押印し、頭取および支配人の記名押印は発券銀行で行った。

 

紙幣製造の国産化

 新紙幣の製造をドイツに依頼したことは、当時の技術水準では止むを得ないことであったが、紙幣の製造を外国に依頼することは近代的独立国家として好ましくないと考えられたため、明治7年、大蔵省はドイツで作成した紙幣原版を使い、日本で紙幣を作ることとした。紙幣寮では製紙・印刷両工場の建設を急ぎ、海外の機械や技術を導入し、紙幣国産化の努力を進めた。そのため多くの外人技師を招いたが、中でもイタリア人のキヨッソーネの功績は大きく、彼は着任(1875年(明治8年))以来、紙幣寮の要請に応えて、紙幣・証券類の原版彫刻等に携わり、一方で多くの技術者を養成した。第3代局長得能良介は紙幣の国産化に情熱を傾け、工場の建設、最新印刷機の導入、技術者の育成などに努めた。明治910月、東京大手町(常盤橋)に印刷工場(朝陽閣)が落成した。紙幣寮は明治10年に紙幣局、明治11年に印刷局と改称し、同時に現業官庁として再発足し、明治107月~116月にかけて1円、5円の「国産第1号の交換銀行紙幣」を製造した。その後に発行された紙幣は全て印刷局で製造することになる。この頃から逐次みつまたを紙幣用紙の原料とするとともに、製紙用薬品類の自家生産を開始し、続いて紙幣用紙に「すかし」を入れるなど、技術もまた一段と精巧になって行った。

 

改造紙幣

 明治通宝札は大きさやデザインの点から、券種が区別しにくいことに加え、用紙の性質の関係で色インキが浸透せず、ある種の薬品により地紋が変色あるいは消滅してしまうため、容易に額面が変造できるという問題があった。明治141881)年2月から、明治通宝札のデザインを一新した「改造紙幣」を発行した(額面は十円、五円、一円、五十銭、二十銭)。改造紙幣(神功皇后札)はわが国初の肖像入りの「政府紙幣」であるが、その原版の彫刻については「明治通宝札」の製造を依頼した先であるドイツのドンドルフ・ナウマン社にいたイタリア人、エドアルド・キヨッソーネ、印刷インキ製造についてはアメリカ人のトーマス・アンチセル、印刷についてはドイツ人のブルノー・リーベルス、カール・アントン・ブリュックの指導を受けて製造された。西洋諸国では当時すでに肖像が券面に採り入れられていたが、これは顔の形、表情が見た目に分かりやすく、偽造された場合に容易に判別できるためであった。キヨッソーネは神功皇后の肖像画がなかったため、日本書紀の「幼にして聡明叡智、容貌壮麗」という皇后に関する記述を参考にして、当時紙幣寮に勤務していた女子工員数名をモデルにデザインしたと言われている。改造紙幣の用紙は「みつまた」を主な原料に使用していた。また、十円札と五円札には、「すかし」の絵を入れるなどして、肖像の採用とともに、偽札防止に取り組んだ。そして、お札の右側にある截切り模様と原符を切り離して、発行紙幣の記番号控えとした。

 

日本銀行条例

 明治10(1877)2月に西南戦争が勃発し、大量の不換政府紙幣、不換国立銀行紙幣が発行されたため、激しいインフレーションが発生した。1881年の明治14年の政変(1881年(明治14)明治政府の筆頭参議だった大隈重信一派が憲法制定・国会開設、北海道開拓使の官有物払い下げの疑惑などの対立が原因で,政府から一掃された政変)で大蔵卿の大隈重信が政府から追放され、明治14(1881)年、大蔵卿に就任した松方正義は不換紙幣回収こそが唯一の解決策として、中央銀行を創立し、近代的信用制度を確立することが不可欠であると提議した。

 

日本銀行業務の開始

 中央銀行を中核とした銀行制度を整備して、正貨兌換の銀行券を発行し、不換紙幣の整理を図ることにより通貨価値の安定を図ること目的に、明治15(1882) 6月、日本銀行条例が制定され、同年1010日、日本銀行が業務を開始するに至った。政府紙幣や国立銀行紙幣は回収され、日本の紙幣は日本銀行券に統一されることにより、近代的な通貨制度の確立が図られることになった。

 

最初の日本銀行券

 最初の日本銀行券は明治18(1885)5月発行の「日本銀行兌換銀券10円券」である。この紙幣は「大国主命」(おおくにぬしのみこと;大黒天像)が刷り入れられてあることから、「大黒様のお札」と呼ばれ、1510100円の4券種が発行された。国立銀行紙幣と改造紙幣(政府紙幣)は明治32年(1899年)12月に通用停止となり、わが国の紙幣は日本銀行券に統一された。

 

日本銀行兌換銀券一円券(改造一円券)

 大黒天像の旧券には欠点があった。用紙にコンニャク粉(でんぷん)を混ぜたことで虫や鼠に食害され、また、鉛白を使用したことで温泉地の硫化水素と反応し黒変することがあった。それら欠点を解消して発行されたのがこの一円券を含むいわゆる改造券である。なお、肖像は武内宿禰で、明治22年(1889)に発行が開始された。この一円券については、大正5年(1916)の新規発行分から記番号が漢数字からアラビア数字に変更された(肖像も微妙に違う)。肖像の彫刻についてもキヨッソーネから印刷局技師による彫刻に改められた。昭和33年(1958)に発行は停止されたが、現在も不兌換券(額面1円の日本銀行券)として法律上は通用し、1889年に発行されて以来、約120年の歴史を有する。

 

乙百円券

 明治33年に発行された甲百円券は30年ぶりに改造されることになり(1930(昭和5)年)、肖像は明治20年の閣議で承認された歴史上の人物のうち、まだ採用されていない「聖徳太子像」に決定された。同じ昭和5年に五円券(菅原道真)、十円券(和気清麻呂)、翌年の昭和6年に二十円券(藤原鎌足)が発行された。なお、昭和33年発行の一万円券まで7回も肖像となった聖徳太子像はお札の代名詞となっていたが、昭和59年の 新券(D券)発行によって姿を消した。

 

米国紙幣の歴史

 

植民地紙幣の発行

 アメリカ独立戦争(1775 - 1783年)の前後、アメリカではイギリス、スペイン、フランスの通貨が使用されていた。1690年にマサチュセッツ湾植民地(最初の13の植民地の一つ)は軍隊の遠征費用を賄うため、植民地で最初の植民地紙幣を発行した。これは後にイングランド銀行創立にあたって参考にされた。ポール・リビア(Paul Revere)はボストンの有名な銀細工師・銅版の彫刻師であり、多くの作品を残しているが、独立戦争の英雄としても合衆国では有名である。フレンチ・インディアン戦争で勝利を収めたイギリスは戦争に費やした多額の借金が残り、ジョージ・グレンビルは1765年、印紙税というアメリカ向けの特別税を創出した。植民地のあらゆる公文書、証書、売買契約書、新聞、パンフレット、トランプなどに政府発行の印紙を貼ることを定めた印紙税法を制定した。

 

レキシントン・コンコードの戦い

 ボストンのサミュエル・アダムスらはイギリス本国に対し、大規模な印紙税法の抗議運動を開始した。イギリス軍は1775年4月19日の深夜、海路をとって植民地民兵を襲った。ポール・リビアはこのイギリス軍の行動を察知し、オールド・ノース教会にある鐘を鳴らし、さらに仲間にこのことを知らせるため、真夜中の道をレキシントンへ馬を走らせた。リビアの活躍によってマサチュセッツの愛国派はイギリス軍に大きな打撃を与えることができた。ポール・リビアはウオーター・タウンにある隠れ家に自由の息子たちSons of Liberty)と共に残った。そこで1年以上にわたりマサチュセッツ州の紙幣を発行する作業をした。これはイギリス議会の決議を無視したことであった。リビアはアメリカの最初の銀行券彫刻家であり、独立革命後は金物や大砲の鋳造場、銅の製造工場を建設した。

 

北アメリカ銀行と米国ファーストバンク

 米国独立戦争を支持するため、大陸会議は1781年に最初の銀行としてフィラデルフィアの北アメリカ銀行に免許を与えた。1789年の合衆国憲法の採用の後、混乱を排除し、交易を簡素化するために、大陸会議は1791年にフィラデルフィアの米国ファーストバンク( First Bank of the United States)に紙幣の発行を認可し、同銀行は最初の中央銀行の機能を果たした。

 

米国造幣局の創設

 1792年にフィラデルフィアに米国造幣局が創設され、連邦通貨制度が確立された。最初のアメリカ貨幣は1793年に鋳造された。1836年には各州の私設銀行は1,600にも増え、それぞれ紙幣を発行した。3万件以上の様々な色とデザインの州銀行券は容易に偽造された。銀行の破産と相まって、混乱と流通に問題を引き起こした。

 

デマンドノート

南北戦争に融資することを求められた議会は1861年に初めてデマンドノート(Demand Notes)と呼ばれる非利子財務省債券の形をした紙幣を発行することを米国財務省に認可した。

 

法定貨幣

 1862年にデマンドノートは合衆国紙幣(Legal Tenders;法定貨幣)に置き換えられ、紙幣の裏面が緑色で印刷されたため、一般的に「グリーンバック」と呼ばれ、最後は1971年に発行された。財務長官は紙幣を彫刻し、印刷する権限を議会から与えられ、彫刻、印刷は民間の紙幣印刷会社によって行われた。

 

財務省証券印刷局

 1877年に財務省証券印刷局が全ての米国通貨を印刷し始めたが、印刷以外の工程は局外で行われた。財務省は銀のドルと引き換えに、銀貨証券(Silver Certificates)を発行することが1878年に認可された。1910年には通貨製造の統合化が図られ、財務省証券印刷局は彫刻、印刷、及び仕上を含むすべての通貨製造機能を引き受けた。

 

連邦準備銀行券

 1893及び1907年の金融恐慌の後、1913年に連邦準備法(Federal Reserve Act)が作られたが、経済の安定と成長を図り、金融の流れを規制するために、国家の中央銀行として連邦準備制度が創設された。連邦準備銀行券を発行するために、連邦準備制度に権限が与えられ、連邦準備銀行券は現在製造されている唯一の米国通貨である。その後、表面の肖像と裏面の記章、及び記念碑などのデザインが1929年に規格化された。「In God We Trust 」の言葉を持った紙幣が議会によって定められ、1957年に最初に発行された。1963年シリーズ以降の全ての通貨にこの碑文は見られる。