8月15日に想う

 

 昭和20年8月15日、その日は良く晴れたとても暑い日だった。家の中では大人達が神妙な面持ちでラジオに耳を傾け、その後安堵したような雰囲気が夏休中の兄と家の庭でセミ取りをしていた我々にも伝わって来た。当時、兄は7歳、私は5歳であった。

 

 昭和18年6月に父はセレベス(現スラウェシ)島のマカッサルで被弾して戦死し、姉二人と兄と私の4人の子供を抱え、杉並の家で暮していた母は昭和1920年頃に病に倒れて、世田谷の東京第二陸軍病院に入院し、姉二人は父方の祖母の親戚に預けられ、20年2月頃に兄と私は浦和にある母の実家に預けられた。杉並から父方の叔母に浦和まで連れて来て貰ったのであるが、そのとき杉並の家で飼っていた鶏を風呂敷か何かに包んで浦和まで運んできた。大谷石の門柱が左右に有ったが、それらには扉が付いていなかった。門柱には表札を入れる部分が彫られていたが、そこには表札も無かった。戦時中には金属類を供出させられ、便所の窓の鉄格子も無かったように記憶している。

 

 実家の庭には防空壕が二つ掘られていて、一つは家具などを入れるもの、もう一つは防空待避施設として掘られたものであった。空襲警報のサイレンが鳴ると、電灯の傘に黒い布を被せ、明かりが漏れないようにし、防空壕に避難して空襲が静まるのを待つのであるが、壕の中のかび臭い匂いは今でも忘れられない。3月に入ると、アメリカ空軍のB29による東京への空襲が多くなり、焼夷爆弾が落とされ、浦和からも南の空が赤く燃えているのが見られた。東京に比べればそれほど空襲が多かった訳ではないが、家の上空を飛来するB29をこの目ではっきりと見ることができ、機銃掃射を受けて屋根の瓦が飛び、防火用水槽が破壊されたこともあった。新聞やラジオ放送による大人達の話から南方の島々は殆ど玉砕し、4月頃には米軍が沖縄本島の海岸に上陸したと聞かされた。「本土決戦」、「一億総玉砕」などの言葉も聞くようになり、国防婦人会などによる消火訓練や竹槍訓練も目にした。8月6日広島に、9日に長崎に落とされた爆弾は「光線爆弾」だと聞かされ、これまでに無い恐怖を覚え、いよいよ自分達がやられるのかと思った。以前からアメリカ相手に勝てるはずが無いと聞かされ、とにかく早く戦争が終わってほしいと願っていたが、ようやく815日となった。

 

 8月15日以降、空爆は無くなったものの、戦争の終わりでは無かった。当時、お米は食料管理制度の下にあり、お米を買うのに米穀通帳が必要で、白米のご飯を食べることは非常に難しかった。祖母が農家の出だったので、庭の空き地に野菜、穀類などをいろいろと作った。じゃがいも、さつまいも、里芋、カボチャ、小麦、大麦・・・など、庭で作れる物はなんでも作ったが、お米は作れないため、配給されるお米だけしか食べられない。配給米だけではとても足りないため、芋ご飯にするが、お米が足りず、さつまいもにご飯粒がくっついているだけということも有った。芋のつる、芋の粉、さといもの「ずいき」など、食べられる物は何でも食べたが、とくに「すいとん」をよく食べたことが思い出される。庭に作られる物だけでは足らないので、近郊の農家に芋などを買い出しに行くが、お金だけでは売って貰えず、必ず着物などを持って行った。

 

 終戦後、物価が高騰し、また戦時中の金融統制の歯止めが外れたことなどによって、現金を確保しておこうと預金を引き出しが集中した。この戦後インフレーション対策として、金融緊急措置令(昭和21年2月16日)を始めとする新紙幣(新円)の発行、従来の紙幣流通の停止などの通貨切替政策が行われた。これにより預金が封鎖され、タンス預金の従来の紙幣(旧円)は強制的に銀行へ預金させられた。194633日付けで旧円(5円以上の紙幣)の市場流通の差し止め、一世帯月の引き出し額を500円以内に制限させる金融制限策を実施した。ここから「五百円生活」という流行語が生まれた。新円切替の際、新円紙幣の供給不足を補うため、旧円の紙幣表面右上に証紙(證紙)を貼付して暫定的に新円の紙幣の代用として使用する措置も取られた。

 

 小学校の2年生頃に、祖母の実家がある栃木の思川までお米を買いに行くことになった。当時はお米を勝手に運ぶことが禁じられていたので、警察が来たら荷物を置いて逃げるように教えられた。お昼時に祖母の実家に着き、白米のご飯にイカの塩からを乗せて食べさせて貰った。この世の中にこんな美味しい物があったのかと今でもそれが生涯で一番美味しかったものと思っている。

 

 エネルギー不足も戦後の困難な生活が続いた一因であった。戦後しばらくの間木炭バスが走っていたこと、牛が荷車を引いていたことなども思い出される。玄米を入れて棒で突いて、摩擦によって表面の「ぬか」を除き、家で精米したこともあった。電力不足で良く停電し、ローソクは必需品であった。小学校に入ったとき、教科書は製本されておらず、新聞紙に印刷されたものを自分で折りたたんで使った。学校には下駄を履いて通っていた。給食に脱脂粉乳が出され、戻してしまうこともあった。ガスも無く、かまどで薪を燃やして煮炊きを行い、風呂も薪を燃やして沸かすため、薪割りは我々子供の仕事であった。冬には雪が積り、手作りのそりで遊んだことや学校の体操の時間に雪合戦などをやった楽しい思い出もあるが、家の暖房といえば、練炭火鉢や炭火の炬燵程度で寒さを凌いだ。

 

 小学校の2年生頃に遠足で上野動物園に行ったことがあった。お猿の電車が動物園の入口近くにあったと記憶している。後に知ったことではあるが、食糧不足も重なり、上野動物園でもゾウ・ライオン・トラなど多くの動物が殺処分されたため、終戦時の上野動物園には人を呼べる動物が無くなってしまい、子供たちに喜んで貰おうとお猿の電車が誕生したそうである。終戦後の上野駅周辺には募金箱を前に置き、白衣を着た傷痍軍人がアコーディオンやギターを弾く姿がみられた。上野駅の地下道に浮浪児が多く集まり、靴磨きをする子供達も居た。自転車に紙芝居を乗せて家の近くに「紙芝居のおじさん」が廻って来た。拍子木の音が聞こえると子供達が集り、水あめやソース煎餅、酢イカ、酢昆布などの駄菓子を買って、紙芝居の「黄金バット」などを楽しんだ。小学校の高学年になると、少しずつ終戦直後の悲惨な思いも和らいで来た。

 

 日本では自家用車を持っている家など殆ど無い時代に、「アメリカでは4人に一台の割合で自家用車が普及していること」、氷柱を入れた木製の冷蔵庫を使い、洗濯板を使ってゴシゴシ洗濯をやっていた時代に「アメリカでは電気冷蔵庫や電気洗濯機など夢のような家電製品が普及している。」とアメリカの文化生活がいかに高いかを聞かされた。ラジオ受信機はあったので、娯楽の一つとして、ラジオ放送を良く聞いていた。三つの歌、とんち教室、少年探偵団、二十の扉、鐘の鳴る丘、笛吹童子、三太物語・・など楽しみな番組だった。

 

 NHKのテレビの本放送は1953(昭和28)年2月に開始されたそうであるが、当時テレビ受像機を持っていた一般家庭など殆ど無かったと思う。私が初めてテレビを見たのは、その当時浦和の旧中山道沿いに「ちづかや」という百貨店があって、そこにテレビ受像機が展示されていると聞いて見に行ったときだったと記憶している。当時の受像機はブラウン管と真空管の電気回路によるもので、発熱があったため放熱が必要で、受像機のケースを外して日傘のようなものがブラウン管の上に置かれていたことが印象的であった。同年8月には日本テレビ(NTV)も本放送を開始した。浦和不動尊大善院などに設置された街頭テレビに多くの人が集まり、力道山の空手チョップでシャープ兄弟をダウンすると観衆は歓声を上げてプロレスに興奮し、また、蕎麦屋に置かれたテレビを店の外から覗いて、栃錦や若乃花(初代)の相撲を楽しんだものであった。祖母の家にテレビ受像機が置かれたのは昭和341959)年、皇太子殿下(現在の天皇陛下)のご成婚の模様がテレビで放映されたときで、美智子妃殿下の美しさに「ミッチーブーム」が吹き荒れた。昭和311956)年度の『経済白書』の序文に「もはや戦後ではない。」と書かれ、戦後復興の終了を宣言した象徴的な言葉として流行語にもなった。1960年代になると、トヨタ・カローラの大ヒットにより業界トップシェアを不動のものとした。

 

  社会科の時間に「四大工業地帯」(京浜工業地帯・中京工業地帯・阪神工業地帯・北九州工業地帯)について教わった記憶があるが、小学校ではなく中学校になってからの話と思う。近年は「四大工業地帯」に変わって、「太平洋ベルト」と呼ばれているようだ。1980年代後半頃までに日本は高めの経済成長を達成し、世界一の経済大国になるのではという話も聞いたが、少子高齢化の時代に入り、1990年代の経済低迷により日本が世界総生産に占める割合は低下傾向が続き、地球温暖化や環境汚染問題、エネルギー問題、安全保障など多くの問題を抱え、終戦直後の振り出しに戻って、今後の日本を考え直す必要に迫られている。

 

追記)

 

開戦

 「アメリカ相手に勝てるはずが無いと分かっていた戦争を何故始めてしまったのか」と子供ながら不思議に思っていた。中学か高校の社会科の時間に「資源確保を目的に日本が東南アジアへ進出し、これにアメリカ、イギリス、オランダが反発、日本への資源供給をストップし、経済的な締め付けを行ったこと。」が太平洋戦争となったと教わったような記憶がある。

 

終結

 1945(昭和20)年2月にアメリカ、イギリス、ソ連の首脳がソ連・クリミアのヤルタで会談し、ドイツの戦後処理を決定した。このときドイツ降伏後90日以内にソ連が日本に対して参戦することを約束した協定を結んだ。この対日参戦協定は秘密で行われ、日本には伝えらなかった。ヤルタ会談を知らずに1945622日、ソ連を仲介とした和平工作をすることを日本は決定したが、ソ連は8月に日ソ中立条約の破棄と日本に対する宣戦を布告し、満州や朝鮮半島北部、千島列島に侵攻した。ソ連との戦いが始まって1週間後に、日本政府はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏して、第二次世界大戦が終結した。

 

 

(令和3年8月)